第一章 【05】 豚鬼②
〈ヒビキ視点〉
(そういやアイツも、自分が不利になった途端に、よく泣き喚いてたよなあ……)
ぽろぽろ、と。
目の前で、涙を溢れさせる。
今世の母親……マリアンの姿から。
過去の記憶が、刺激されて。
前世を振り返ってみるに。
少なくとも。
息子である、ヒビキから見て。
かつての産みの親である、女は。
良き母親では、なかった。
(……)
それどころか。
思い出すのは、いつだって。
周囲への不満を。
一方的に、口にする。
みっともない、姿である。
『……フン。何よアイツ、幸せにしてくれるって言ってたのに、口ばっかりじゃない。お金はろくに稼がないし、休日は寝てばっかだし、口は臭いし、髪もボサボサだし、服もダサくなっていくばっかりだし、何よりも全然、アタシに構ってくれないじゃないの!』
もっと言ってしまえば。
自ら望んで、結婚して。
子どもを、産んだ後も。
いつまでも。
いつまで経っても。
女は、母親ではなく。
ひとりの『女性』だったのだ。
(いったいなんで、あの人は、あんなふうに、なっちまったのかねえ……)
聞くところによると。
女は、生来からして見目が良く。
体型も、男好きのするものであったため。
少女時代から、周囲にはいつも。
異性が群がっていたのだという。
そんな女は、自然と。
異性の関心を、掴むための。
手練手管に、長けていくことで。
ついには、歳若くして。
ヒビキを腹に、宿したことで。
歳の離れた男性と、結婚して。
その後、数年と経たずに。
離婚したのだという。
そんな女が、片親として。
生活費を稼ぐために。
報酬が高額な、夜の店で。
働き始めたことは。
前世において。
ごくありふれた、話である。
とはいえ。
『……うふふ。ほらね、やっぱりアタシってば、モテモテじゃないっ!』
流されるようにして、就いた。
本意ではない、仕事だったとはいえ。
女にとって、それは。
天職だったようで。
『たった二ヶ月で、もう、お店の一番なのよっ!? ねえ、ママってばすごいでしょ!? ね、ヒーくん!?』
承認欲求を、満たされて。
女がたびたび浮かべてみせた、心からの、満足げな笑みを。
今でもはっきりと、覚えている。
『だからママのジャマをしないように、ヒーくんも、協力してよねっ! ぜったいに、あのひとを、怒らせたりしたらダメなんだからね!?』
そんな、家庭環境において。
ヒビキが、物心着く頃には。
母親の側には、いつだって。
不定期に入れ替わる、男の姿があって。
父親とは『そういうものなのだ』と。
幼い時分の、ヒビキは。
本気で思い込んでいた。
(周りの人たちも、最初は、あの人を止めようとしてくれたんだけどなあ……)
たとえ、どれだけ勤め先の売り上げに貢献して。
女性としての、優越感を満たされていても。
母親としては、身勝手といえる。
女の振る舞いに。
何度となく。
知人や、親戚などから。
忠告を、与えられていたようだが。
『だ、だって、しょうがないじゃない! アタシがその気が無くても、男から、勝手に言い寄ってくるんだから! 無視するなんて、可哀想でしょ!?』
その頃の女は、すでに。
なんだかんだと、建前を並べつつも。
本音では、異性からの関心がないと。
生きていけない性分と、なっていた。
『……あ、うう……わ、わかったわよお! あたっ、アタシだけが、ガマンすれば、いいんでしょおっ!?』
そのため、注意を受けて。
一時的に、態度を改めても。
絶えず、言い寄ってくる男に。
いずれは、絆されてしまうため。
やがて、女に指摘する者は。
周囲からいなくなっていた。
『……ぐすっ……』
少しだけ。
女も、そのことを。
悔いていたようだが。
結局、染みついた性格が。
矯正されること、ないままに。
一度目の離婚を、経験してから。
数年後に。
『ヒーくん。新しい、パパだよっ♪ 仲良くしてねっ!』
女は、再婚を果たしたのだった。
『それに今度は、妹もできたんだよ? どう、嬉しいでしょ!? いええええいっ!』
そのときの。
再婚相手の、連れ子こそが。
前世において、ヒビキが。
唯一の家族であると、認識する。
義理の妹である。
『新しいパパは、前のパパとは違って、お金をいっぱい、持ってるからね? きっとママたちのことを、幸せにしてくれるよ? それに妹だっているんだから、もうヒーくんも、寂しくなんてないよね? みんなみんな、幸せだよね? 今度こそ幸せに、なれるんだよね……?』
再婚した、当初から。
何度となく、繰り返して。
幼いヒビキに、手にした『幸せ』を。
執拗なほど説いていた、女であるが。
やがて。
『なんで、アイツ……家に、帰ってこないの! どうしてアタシの相手をしてくれないのよ!? そのくせお前は家にいろ、家事をしろ、子育てに専念しろって……アタシはアイツの、奴隷じゃないないわよ! 何様のつもり!? ふざけんじゃないわよ!』
上手く、いかなかったのだろう。
二度目の結婚も、数年と経たずに。
破綻して。
女は離婚を、繰り返した。
その際に。
『でもいいわ! 最低限の金蔓は、確保できたしね! これでまた次のチャンスまで、頑張れるんだから!』
養育費を、目当てとして。
女は、義妹の親権を。
実父から、強引に奪い取っていた。
そのうえで。
『ヒーくん。アンタがおにーちゃんなんだから、ちゃんと妹の面倒くらい、見なさいよね』
幼いヒビキに、臆面もなく。
面倒を、押し付けたのだった。
ヒビキと義妹の、年齢が。
十一歳と三歳だった頃の。
出来事である。
『じゃあママは、お仕事がんばってくるから。おにーちゃん、家のことはよろしくね〜』
自ら権利を、主張したくせに。
育児に関心を、抱くこともなく。
生活費を稼ぐためだと、早々に。
夜の世界へと、舞い戻った。
女の代わりとして。
ヒビキは、己の青春を。
義妹の育児に、費やした。
部活動などに所属する余裕もなく。
学校が終わるなり、保育園へと直行して。
女から与えられる、頼りない生活費を。
四苦八苦。
やりくりしながら、家事を行う。
そんなヒビキに、同情や。
好奇心。
憐憫を向ける、者たちはいたものの。
再三の忠告に、耳を貸さず。
二度の結婚と離婚を繰り返した、女の周囲には。
頼れるような、知人や友人。
助けてくれる、親戚などが。
すでに、いなかったために。
必要だからと、おねだりして。
購入してもらった、情報媒体で。
情報を、漁りながら。
子どもなりに。
一生懸命。
幼いヒビキは、女から与えられた役割を。
直向きに、全うしようとしていた。
何故ならば。
このときは、まだ……
(信じていたから、な)
母親という。
自分にとって、唯一絶対である存在を。
子どもらしい純粋さで。
信じようと、していたから。
自分は役に立っている。
自分は必要とされている。
自分はちゃんと、愛されている。
そう……信じて、縋り付きたかったら。
だから女の理不尽な要求にも、涙を忍んで、耐えていたし。
たびたび、気まぐれに。
暴力を、振るわれたとしても。
その側を、離れることはしなかった。
(本当に……馬鹿だったよな、俺)
そんな、ヒビキの転機は。
二十歳になった頃である。
およそ十年に及ぶ、献身の甲斐あって。
中学校に、進学するまでに。
健やかに成長した、義妹の姿は。
義兄としての、欲目を抜きにしても。
非常に美しい少女へと、成長していた。
一方で、歳月を重ねるごとに。
女が家庭に回してくれる、生活費が。
目に見えて、減少していたため。
少しでも、生活を安定させようと。
高校の卒業後、すぐに就職して。
社会人として、寝る間も惜しみ。
あくせくと働いていた、ヒビキであるが。
(よくもまあ、あんな冴えない兄貴に、懐いてくれたもんだよな)
たとえ血が、繋がっていなくても。
義妹とは、本物以上の。
家族の情を、育んでいると。
密かに自負を、抱いていたものだし。
また義妹からも。
『兄さんは、私が絶対に、楽をさせてあげますから。ずっとずっと……私が一生、面倒を見て、あげますからね♪ うふふっ♡』
などと、冗談めいた発言を。
わりと頻繁に、溢してもらえる程度には。
慕ってもらっていた、自覚がある。
そんな、ヒビキの。
大事な義妹に対して……
(……それを、あの野郎ッ!)
当時の、女の彼氏が。
異性として、目をつけたのだった。
とある日の、午後である。
たまたま、現場の不具合で。
早上がりとなったヒビキが、家に戻ると。
『いやあああああっ!』
幸か不幸か。
『オラ、大人しくしろ! もういっぺん、殴られてえのか!?』
乱暴に、叫びながら。
義妹に暴行を加えようとしていた男と。
『兄さん! たすけて、おにいちゃん……っ!』
何度も。
何度も。
繰り返し。
ヒビキの、名を呼ぶ。
義妹の姿を、目撃した。
(ああクソっ、あのとき意識がトンじまったのだけは、一生の不覚だな! 未だにボコった実感が湧きやがらねえ!)
我を忘れるほどに、激昂して。
視界が赤く染まった、ヒビキは。
その後のことを、覚えてはいない。
それでも、お世話になった警察から。
後になって、聞かされた話によると……
事件現場に遭遇した、ヒビキは。
女の彼氏を、半死半生となるまで。
ボコボコの、血祭りにしたうえで。
窮地を免れた義妹を、保護したのちに。
警察に自ら通報を、入れていたのだという。
そして。
『ひ、ヒーくん! なんてこと、してくれたのよ!?』
全てが、終わったあとで。
ようやく警察署に駆けつけた、女から。
ヒビキは、信じられない言葉を聞いた。
『これじゃあもう、再婚なんて、できないじゃない! なんでママの、邪魔をするの!? アタシの幸せの邪魔を、しないでよ! アンタなんて、産まなきゃ良かった! それにそのブスも、ガキのクセに、人の男に色目を使いやがって! ……アンタたちのせいで、アタシの人生は、滅茶苦茶だよ!』
そのときになって。
そこまで言われて。
やっと、ヒビキは……
(……流石に目え、覚めたよな)
母親という、存在に。
見切りをつけたのだ。
母親『だった』、女から。
甘い幻想を捨てて。
ようやく見限ることが、できたのだ。
(だからもう、間違わねえ)
そして悟る。
たとえ親であろうと。
人は人。
賢い人間は、賢くて。
愚かな人間は、どこまでも愚かであり。
そこに『家族だから』という、盲目的で。
絶対的な信頼など、成立しない。
望んだから、与えられるような。
無償の愛など、存在しないのだ。
だから自分はもう、母親などという肩書を。
信用しない。
「べつにアンタが好き好んで、テッシンさんたちに付きまとうことまでは、止めやしないさ。そんな権利、俺にはないからな」
過去の、不毛な過ちを。
再び、繰り返さないように。
人生において、二人目となる。
母親に向かって、ヒビキは告げる。
「でも俺には、必要以上に、干渉すんな。関わってくるなよ、鬱陶しい。母親ごっこがしたいんなら、今度はちゃんと、真っ当な相手と、真っ当な方法で、子どもを作って、そいつと一緒に、仲良く子育てをしてくれよ。……だけどなあ、俺にそれを求めてくるのは、はっきり言って、迷惑なんだよ。気持ち悪い。四六時中ベタベタと付き纏いやがって、ホント、勘弁してくれって」
「……ッ!」
毒を吐く。
言葉の暴力を振るう。
ズキズキ、と。
小動物を、甚振るような。
罪悪感を、覚えつつも。
同時に……じんわり、と。
甘い苦味が、脳髄に染み渡っていく。
(八つ当たりなんて……最低だな、俺)
事件のあとで。
すぐに義妹と共に、家を出て。
二人きりの生活を、送っていたために。
ついぞ、ぶつける機会のなかった。
前世の母親に対する、鬱憤を。
今世の母親に、ぶつけている。
自覚はある。
それでも言葉は止まらない。
自省しても。
後悔はない。
何故なら、言葉そのものは本心だから。
ヒビキがマリアンに抱く感情として。
偽りなど、ないのだから。
「いいか? わかったらもう、できるだけ、俺には関わってこないでくれ。俺もできるだけ、アンタには関わらないようにするから。同じ共同体で生活する以上は、それがベストじゃなくてもベターだろ? いいよな?」
将来への計画性もなく。
環境に対する配慮もなく。
ただ『母親だから』という曖昧な理由で。
誰も望んでいない子を産んで。
それを一方的に、可愛がることで。
自身の欲求を、満たそうとしている。
身勝手な女の、自己満足な振る舞いを。
ヒビキは、心の底から。
軽蔑している。
「……いや、です」
だというのに。
手心など、一切なく。
叩きつけた、ヒビキの本音に。
「ぜ、ぜったいに、お断りしますっ!」
愛らしい顔を、グシャグシャに歪めて。
大粒の涙を溢しながら。
「わ、わだじわあ、それでも、ヒビキぐんの、ま、ママなんでず! わたじはぜったいにい、あなたを愛することを、やべば、ぜんっ!」
マリアンは、懸命に。
ヒビキの言葉に、抗っていた。
「……そっ。じゃあ、勝手にしろよ。俺は俺で勝手にするから」
だが、ヒビキとて。
今更に、言葉だけで。
説得できるとは、思っていない。
どんなに賢者が正論を、諭したところで。
駄々をこねる赤子には、無意味なことを。
前世の実体験として、知っているからだ。
(……まあ、こっちが無視し続けていれば、そのうち飽きて諦めるだろ)
伝えるべき心情は、吐露した。
ならば今回はもう、これ以上。
会話は無用だと、割り切って。
「……うっ……うう゛っ……」
貫頭衣の側面で……ギュッと。
小さな手のひらを、握りしめて。
あぐあぐと、上を向いて涙を堪え。
みっともなく、鼻を啜る少女を。
ひとり、その場に残して。
「……じゃあな」
背を向けて。
振り返ることもなく。
ヒビキはその場から、立ち去って行くのだった。
⚫︎
しかし……残念ながら。
そうしたヒビキの見当は。
それから一年以上が、経過しても。
叶うことは、なかった。
【作者の呟き】
ママからは、逃れられない……っ!




