第二章 【05】 対話②
〈ヒビキ視点〉
「それでおぬし、名はなんと言うのぢゃ?」
「ヒビキです。ヒビキ・ライヅと申します」
ようやく、互いに名乗りを交わして。
関係性が一歩前進した手応えを覚えることで。
豚鬼は密かに、胸を撫で下ろした。
(……はあ。ひとまずこれで、話し相手程度には、認めてくれたってことでいいんだよな?)
とはいえ豚鬼と女族長の対話は、始まったばかりであり。
気を抜くことなどできはしない。
むしろ仕切り直しに立った、ここからが本番だ。
緩みそうなった気を、しっかりと引き締め直す。
「……っ」
一方で。
そうしてヒビキが、口にした名前に。
赤髪の少女が何やら反応していたようだが……
今はそれについて、言及する余裕はない。
場の流れが変わらぬうちに、話を進めさせてもらう。
「それで、俺の母親……マリアンは、無事なんですか?」
「ぬう……まあ、率直に言わせてもらうならば、無事などとは到底、言い表せぬ状態ぢゃのう」
横手に控える従者の手によって。
口に投じられた果実が、酸っぱかったわけではないだろうに。
痛ましげに眉根を寄せる女族長の表情には、この場にいない少女の身を、案じる色があった。
「というかなんぢゃ、あの悍ましい呪いは? あのように憎悪の煮凝った呪詛魔法など、尋常なものではあるまいて? いったいどのような経緯がって、あの者は、あのような悪辣なる呪いに絡め取られておるのぢゃ?」
「……」
矢継ぎ早に、問われたものの。
それを説明するには、自分たちがここへ至るまでの経緯を話す必要があって。
そのために、何を語って。
何を伏せるべきなのか。
悪手であるとは思いつつも、沈黙を保ったままのヒビキが、情報の取捨選択に悩んでいると……
「……まあ、ええ。おぬしらにも事情があるのぢゃろうし、それを聞くのはひとまず、後回しにしておくか」
豚鬼の葛藤を察したレイアが、時間の猶予を与えてくれた。
素性を審議すべき相手に対して、なんとも甘い対応である。
そしてそのような酌量を与えてくる女族長の行いを、彼女の好意によるものだと受け取ってしまうのは、ヒビキの勘違いではないはずだ。
(……マジで、いったい何があの人の心にヒットしたんだろ?)
先ほどからこちらに向けられる視線には。
幼子に向ける年長者のような、慈愛さえ感じられた。
そのような好意を向けられて、警戒心を保ち続けることは難しい。
先ほど口に含んだ酒精の影響もあるのか、少しばかり頬が熱かった。
「それに……マリアンと、言うたかえ? たしかにあの者の容体は決して芳しくはないが、幸いなことにこの女蛮鬼の里には、優れた癒術士たちが控えておる。今はそやつらに任せておるがゆえ、ひとまずは安心するが良いぞ、ヒー坊や」
左右に侍らせた、双子らしき従者たちに。
豪奢な扇子で、風を送らせながら。
腕置きに体重を預け、銀糸の髪を靡かせて。
そのような言質を与えてくれる、レイアに対して。
「……ありがとう、ございます」
居住まいを正して、膝の上に両手を置きながら。
ヒビキは深々と、頭を下げた。
「ええてええて。そんな大仰な。おぬしのような、強き子を育んだ母を軽々に扱ったとなっては、それこそ女蛮鬼の名折れぢゃわい」
「だとしても俺は、貴方たちの慈悲に、心から感謝させていただきます。俺の母親を救っていただき、本当にありがとうございました」
「ぬううう……それを天然でやっとるんなら、ずっこい童ぢゃのう……」
「……はい?」
「……うむ、ますます気に入ったぞ!」
呟かれた、言葉の意味がわからずに。
豚鬼が伏せていた頭を挙げると。
ペロリと、女族長は。
艶かしい舌を、薄い唇に這わせていた。
「ぢゃがのう、ヒー坊や。あまり妾を、昂らせるでないぞ? つい味見してみとうなってしまうではないかえ」
「……っ!」
すると正面から注がれる、湿度の高い視線に。
口端に刻まれた、肉食の大型猫じみた笑みに。
熱を帯びて、汗ばんだ褐色肌の醸す威圧感に。
気圧された豚鬼は。
つい表情を、引き攣らせてしまった。
するとそれを見てとった女狩人が、嗜虐の笑みを深めてしまう。
「……クックック。まあ、そう警戒せんでもええぞよ、ヒー坊や。残念ながら今の妾には、立場というものがあってのう。興が乗った程度では、摘み食いなど許されんのぢゃよ。いやまっこと、つまらんものぢゃわい」
じゃあ立場がなければ俺は摘み食いされていたのかと。
いつの間にか脅かされていた、貞操の危機に。
ヒビキが心胆を冷やしていると。
「ぢゃがまあ、おぬしがどうしてもというのであれば……話は別ぢゃがなあ?」
そうして気が散らされた胸中の、隙間を縫うようにして。
ほんのわずかに、姿勢を崩しただけで。
絶妙にはだけた、民族衣装の胸元から。
小ぶりではあるが形の良さそうな柔丘と、先端にある周囲よりも色素の薄い突起が、チラリと顔を覗かせた。
「――ッ!?」
ギョッと目を剥くものの。
それを凝視してしまうのは、哀しい男の性であり。
さらに褐色肌の女蛮鬼は、見せびらかすようにして片膝を立てることで、その奥に見えそうで見えない絶妙な空間を作り出した。
そのうえ団扇によって作り出された、気流に乗って。
むわりと、蒸れた女の香水と果物が入り混じったような甘い香りが、豚鼻に流れ込んでくる。
(くッ……がはあっ!?)
もとよりヒビキは、前世の生い立ちによって。
理性では否定しつつも。
本能としては。
年上の女性による母性的な包容力に、魅力を覚えてしまう性癖を有していた。
さらにはそこに、今世における母親の影響が加わることで。
外見などに左右されず、本質的な母性を見抜く嗅覚までもが、備わってしまっている。
そうして練り上げらた雄としての感性が。
ビンビンと、訴えてくる。
あれは、とても良いものだ。
きっと彼女に身を任せれば、こんな醜い豚野郎でも、優しく包み込んでくれて。
手取り足取り。
微に入り細に入って。
たとえどんな変態的な欲求であろうとも。
嫌がることなく、むしろノリノリで、自分の潜在的な飢えを満たしてくるのは間違いない、と。
(うっ……な、なんて破壊力だ……っ!)
そうした濃密な『女』の艶かしさが、暴力となって。
完全に不意をつかれた、耐性のない童貞の心臓を、バクバクと高鳴らせてしまっていた。
(お、落ち着け! こんなあからさまな罠に、引っかかるんじゃないよ、俺っ!)
にわかに集う、血の流れに。
抗いながら、豚鬼は必死に思考を巡らせる。
(そ、そうだ! きっと俺は、試されてるんだ!)
さも、聞こえの良い言葉を吐いておきながら。
安易な情欲にころりと流される程度の、発情豚野郎であるか否かを。
(だとしたら、さっきまでの妙に甘い対応も納得だ! ……くそっ、思いっきり油断しちまったぜ!)
しかし自分には、守るべきものがあるのだ。
この程度の母性など、今世で散々と与えられてきた高濃度の母性に比べれば、微風のようなもの。
(呑まれるな……抗え……思い出すんだ……かつてアイツに与えてもらった、本物の愛情ってやつをっ!)
ギュッと強く、瞼を閉ざして。
思い返すのは、かつては忌まわしき恥辱として封じ込めていた記憶。
ごくありふれた、母と子の、搾乳時の光景である。
当時の彼女の手触り、肌の感触、体温、匂い、口に染み入る味わいを、高解像度で鮮明に掘り起こしたヒビキは……
(……ふう)
圧倒的な安心感の海に溺れることで。
速やかに、平常心を取り戻すことに成功した。
(やっぱり『本物』は、一味違うぜ)
せめて母乳を滲ませてから出直して来い、と。
煩悩を断ち切り、見開かれた豚鬼の瞳は。
まるで湖面のように、凪いでいる。
「……ははっ、お戯れを。それよりも今は、そちらの事情をお聞かせ願えますか?」
「……むう。振られてしもうたか。いけずぢゃのう」
そうした豚鬼の賢者の如き対応に。
唇を尖らせつつも。
あっさりと女族長は、漂わせていた色香を治めてくれた。
やはり先ほどのあれは、恣意的なものであったようだ。
(……助かった……オンナってコワイ……)
ドッと、窮地を脱した豚鬼の背に、冷や汗が湧く。
「まあよいわ。この里におる限り、いくらでもチャンスはあるからのうっ♪」
訂正。
自分の貞操はいまだに、妖艶なる狩人に捕捉されているらしい。
「ぢゃがまあ……とはいえ、ヒー坊も薄々は察しておるぢゃろうが、じつのところ、おぬしらの現状はそう楽観視できるものではなくてのう。それが片付かぬうちは、夜這いもしてやれぬのぢゃ。堪忍しておくれ」
「は、はは……」
それはむしろ僥倖ですと、口にしない程度の分別はある、豚鬼であった。
それよりも。
「えっと……それは、如何なる理由からで、しょうか?」
彼女の言葉を信じるならば。
自分たちは女蛮鬼たちにとって、好ましい来訪者ではないようだ。
とはいえ何もかもが不明瞭で先行きの見通せない現状において、呪詛に冒されたマリアンの容体を考えるならば、彼女たちの協力はなんとしても、取り付けたいところ。
最悪……こんなものに価値がつくのか甚だ自信はないが……それこそ、本当に自分の身体を差し出すことになっても、構いはしない。
(まずは現状の理解。そして問題の解決が、最優先だ)
それらの優先順位を、確認しながら。
慎重に、会話を続ける。
「申し訳ありません。恥ずかしながら、貴方たちの常識について、俺はなにぶん知識不足なものでして。申し訳ありませんがそれらをご指摘していただけると、非常に助かります」
「ん〜、そうぢゃのう……細かく挙げれば色々とあるのぢゃが、ひとまずおぬしに自覚してもらいたい問題は、三つある」
まずひとつ、と。
レイアは指を一本立てて。
「まずは正常ではない手段を用いて、女蛮鬼の里への侵入したこと。これが不味いことくらいは、わかるな?」
「……はい」
「本来ならこの時点で袋叩きにされたあと森に放り出されても仕方ないのぢゃが、それはまあ、ええ。あとの二つの方が問題ぢゃ」
ふたつめ、と。
二本めの指を立てて。
「よりにもよって、ヒー坊が転移してきたのは、妾たちが身を清める温泉ぢゃったのぢゃ。そして種婿でもない男が、その意図があろうとなかろうと、戦士階級以上の女蛮鬼たちの裸体を覗き見することが非常に不味いことも、察してくれるな?」
「…………はい」
まあ普通に、考えて。
前世でも成人男性が女子風呂に突撃したら、それは完全に有罪である。
今世においてもその罪深さを、疑う理由はない。
「そして何より」
最後に、三本目の指を立てて。
「おぬしらが転移してくることで、貯蔵していた魔力を使い果たして、枯れ果ててしまったあの天聖樹……あれはかつて、この里に種を蒔いてくださった種婿であられるテッシン・ライヅ殿が、友好の証に贈ってくださったものであり、そこにいるオビイ……オビイ・メラ・ライヅにとっての、滅多に逢えぬ父君の残してくれた、思い出の品だったのぢゃよ」
「んな……っ!?」
新たに告げられた、その言葉に。
今度こそヒビキは目を見開いて、絶句してしまうのだった。
【作者の呟き】
着実にバブみ沼にハマりつつある主人公。
あらすじ紹介に偽りなし!




