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第一章 【30】 堕天②

〈マリアン視点〉


 マリアン・フォン・ハネカワにとって。


 人生というものは。


 無味で無臭で無価値なものであった。


 事実として、自分が恵まれた存在だということは、理解している。


 かつてこの地に降臨したという、勇者の血統を継ぐ名家に生を受けて。


 見目に恵まれ。


 教養を与えられ。


 類稀なる才能までをも開花させて。


 誰もが彼女という存在を、褒め称えた。


 あるいは嫉妬して、羨望して、憎悪した。


 そのような、誰もが無視をできない、生まれついての奇貨。


 世界に選ばれた存在というものがあるとすれば、それは間違いなく、彼女のことを指す言葉だ。


 そのような、人が望むおおよその全てを手にしていた少女であるが……


(……退屈、ですね)


 ただひとつ。


 それらを感じる心だけが、欠如していた。


 たとえどれだけ周囲から賞賛され、賛美され、求愛されようとも。


 心の水面に、波紋が生まれることはなく。


 どんなに苛烈な憎悪を向けられ、妬まれ、謂れのない悪意を向けられたところで。


 とくに何も、思うところはなかった。


 ただただ、全てが等しく無意味であり。


 ひたすらに、手にするものが無価値であり。


 どこまでも、世界に興味を抱けず無関心であった。


(はやく……この退屈な時間が、終わらないものでしょうか)


 とはいえ自分は個体としては極めて優秀な存在のようであり、死んで自分がこれからであろう消費する資源を節約するよりも、生きてこれからも生産される資源に貢献するほうが、全体としての利益になる。


 そのような合理性が、彼女の生きる理由であった。


 ゆえに。


『マリアン・フォン・ハネカワ様。どうか貴方に、崇高なる「人造勇者計画」の参加をこいねがいたい』


 自身が所属する勇聖教会からそのような命令が下されても。


 国家の利益になるのならと、マリアンがそれを拒む理由はなかった。


 随分と自分に入れ込んでいた勇者や、家族といった、一部の者たちは猛反発していたようだが、けっきょくは教会が彼らを説得することで、少女は計画に参加する運びとなった。


 そして己の胎に、特別性の魔道具を仕込み。


 召喚の儀式を通して、異世界人の魂を宿すことで。


 体内に他者の鼓動を感じるようになってから、しばらくすると。


 いつしか、マリアンは。


 不思議な夢を、観るようになっていた。


(これは……記憶、なのでしょうか? この胎に宿った、異世界人の……?)


 それはマリアンの知らない世界の、知らない人間たちによる、知らない物語であった。


 とはいえその大半は断片を切り貼ったようなツギハギであり、さらに常識があまりにもこちらのそれとかけ離れているようであったため、聡明な頭脳を有するマリアンであっても全てを理解することはできなかったのだが。


 それでも確かに、伝わってくるものがあった。


 それはマリアンの胎で、この夢を観ているの異世界人の。


 彼が当時に抱いていた、生々しい感情である。


(これが……悲しみ)


 記憶の中の少年は、幼かった。


 それゆえに、愚かであった。


 だから何度も母親の気まぐれを信じては、無垢な心を痛めていた。

 

(これが……寂しさ)


 そんな少年もやがて、知恵をつけることで。


 自分の境遇と、母親の評価を知って。


 それでもなお、母を信じて、健気に尽くそうと努力していた。


(これが……苦しみ)


 しかしそうした想いが、母ではなく、どこまでも女であったそれに、届くことはなく。


 現実を突きつけられた少年は、その果てに。


 期待することを諦めた。


(これが……痛み)


 そして少年は、傷口に蓋をした。


 あまりに痛くて、直視することなどできないから、目の届かない場所に隠して遠ざけようとした。


 そうしなけば、守ることができないから。


 何も無くなった自分に残された、義妹というたったひとつの希望まで、底の見えない絶望に巻き込んでしてしまうから。


 だから少年は歯を食いしばって、立ち上がり。


 痛みを胸のうちに抱えたまま、無慈悲な現実に、抗い続けたのだった。


(……これが、涙)


 そうした少年の前世を、疑似体験することで。


 ある朝、目覚めた少女は、己の頬を伝うものの意味を知った。


 そして理解する。


(ああ……これが、愛、なのですね)


 愛おしい。


 愚かで幼稚な、無謀が。


 健気で浅はかな、献身が。


 滑稽で尊く気高い、決意が。


 その全てが愛おしくて、眩しくて、狂おしくて。


 この手に抱いて守ってあげたい。


 頭を撫でて褒めてあげたい。


 望むもの全てを与えてあげたい、と。


 心の底から湧き上がってくる感情の名を理解したとき、少女は生まれて初めて、自分が『人間になれた』のだと理解した。


 そして確信する。


(そうか……私はこのために、生まれてきたのですね)


 前世において、彼がどんなに望んでも与えられなかった、無償の愛を。


 今世では、溢れるほどに注いであげよう。


 それがマリアンという少女の、生まれた意味だ。


 心のない器に、魂を与えてもらった自分が、彼に返せる精一杯の恩返しだなのだと、マリアンはそう確信した。


 だから。


(この子は……絶対に、殺させないっ!)


 如何なる理由なのかは不明だが、転生者の魂を宿した人造生命体(ホムンクルス)が、マリアンの腹で只人(ヒューム)から豚鬼(オーク)へと存在変異(シフトチェンジ)した際に。


 マリアンは迷うことなく、それの廃棄を決めた教会の研究施設から脱走して、自力で彼を産み落とした。


 その後の逃亡生活においては、偶然にも大和国(ヒノモト)密偵(スパイ)でもあるテッシンたちとの邂逅を経ることで。


 自らの保有する情報と能力を提供することで、彼らの一味に加わり、その助力を得て、彼を育てることができた。


 それから、彼の意識が無事に覚醒して。


 一方的な拒絶を突きつけられた後も。


 悲しかったけど。


 辛かったけど。


 幾度も胸が押し潰されそうになったけど。

 

 マリアンはそれに耐え、逃げることなく、真正面から惜しみのない愛情を注ぎ続けた。


 それがマリアンが自分で定めた、自分の生きる意味であるからして。


 彼がそれに応えてくれるかなどは、関係ない。


 見返りを求めない、無償の愛とはそういうものだ。


 ともすればそれが狂気にも似た、妄執であることも理解したうえで。

 

 マリアンは己の信じる、己が生きる意味を、どこまでも愚直に果たしてきた。


「……彼を、解放してください」


 ゆえに命など、惜しくはない。


 たとえこの五体を引き裂かれ凌辱されようとも、彼が助かるのなら、喜んでこの身を捧げよう。


 そうしたマリアンの、覚悟に。


 対峙する浄火軍の女騎士は、悲鳴のような怒声をあげた。


「……っ! ぼ、ぼくを、無視するなあああああっ!」


 それからは一方的な、私刑であった。


 癇癪を起こした子どものように。


 出鱈目に、容赦なく。


 女騎士は無抵抗な少女に、殴る、蹴るの、暴行を加える。


 魔道具である翼杖を手放し、地に伏して、泥に塗れながら。


 それでもすぐに立ち上がり、同じ言葉を繰り返す少女に、女騎士の怒りは昂る一方である。


「こっ……の、鬱陶しい、髪を、見せびらかしやがって!」


 暴行の際に。


 自分の肌に触れた、泥まみれの白髪に、不快感を覚えたのだろうか。


 嫌悪を剥き出しにした女騎士が、少女の髪を乱暴に引っ張って、手にする刺突剣(レイピア)でブチブチと断ち切ってしまう。


(ああ……なんと……勿体無い……)


 なにせマリアンにとって、それは。


 まだ人格が覚醒する前の彼が、無邪気に触れて、ときに口に含んだりもしてくれた、輝かしい記憶の残滓である。


 今ではあちらからはまず触れてくれることのなくなった彼の、そうした思い出が地に落ちてしまったことに、マリアンは女騎士の暴力とは比べものにならないほどの胸痛を覚えた。


 そうして切り離されてしまった、自分の一部と。


 これから自分が辿る道が、重なってしまう。


(ですが……いい、ケジメです。どうせヒビキくんには、嫌われてしまいましたし……)


 たとえどれほどの言い分があったとしても。


 そうした己の髪を用いて、祈祷祈願のお守りとして用意した腕輪に、緊急時における信号と探知の魔法式を組み込んでいたのだ。


 あれだけ自分の干渉を鬱陶しがっていた相手に、そのような所業を行うなどは、明確な背信行為に他ならない。


 最近ではほんの少しだけ……自分の願望でなければ……態度が軟化していた彼の信頼は、地に落ちてしまったことに、疑いはなかった。


(……ですが、構いません。それであの子の命を、繋ぐことができたのなら!)


 だから、せめてもの償いとして。


(絶対に……貴方のことは、私が守り抜いてみせます!)


 白髪を乱雑に切り刻まれて。


 更なる暴力に晒され続ける少女は。


「……彼を、解放してください」


 ただひたすらに、同じ言葉を口にする。


「……なん、でだよ」


 それに、応えたのは。


「……なんで……アンタは、俺なんかのために、そこまでしてくれるんだよ……?」


 目の前の、怒りに溺れた女騎士ではなく。


 浄火軍の兵士に取り押さえられている、愛しい我が子の声であった。


(そんなの……決まっているじゃないですか)


 手足を毒に侵されて、息をすることさえ困難なのだろう。


 それでも声を震わせ、涙を溢して、懸命に答えを求める豚鬼の問いかけに。


「だって私は……貴方の、ママですから」


 少女は迷うことなく。


 心からの笑みを、浮かべるのであった。


【作者の呟き】


 次回、豚がようやく本当の『目覚め』を迎えます。

 

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