第9話 心の葛藤
午後の陽射しが柔らかく部屋に差し込むなか、わたし――フェリシア・ローゼンハイムは机に散らばった書類とにらめっこしていた。王太子殿下に突きつけられた「証拠」と称する文書、それらが本当に正しいのかを探るため、過去の公的記録や公爵家の書簡を隈なく読み返しているのだ。
――だけど、あまり成果は上がっていない。どれほどページをめくっても、めぼしい手がかりが見つからないまま時間だけが過ぎていく。
「……それでも、やるしかないわね」
いつになく独りごちると、手首を回して疲れをほぐす。気づけば何時間も同じ姿勢で文字を追っていた。あくびの出そうになる口元をぎゅっと閉じると、ドアの外から控えめなノックが聞こえてきた。
「フェリシア様、少しよろしいでしょうか」
声の主は侍女のハンナ。普段からわたしをよく気遣ってくれる彼女だが、今日は何やら緊張した面持ちで入ってきた。小ぶりのトレイにはティーポットとカップが乗せられ、部屋には芳醇な茶葉の香りがふわりと漂ってくる。
「ええ、構わないわ。――ちょうど休憩したかったの」
そう言って微笑みかけると、ハンナはどこかほっとしたように小さく息をついた。けれど、その表情にはまだ陰りが残っている。テーブルに紅茶を置きながら、彼女は落ち着かない様子で周囲をうかがい、やがて意を決したように口を開いた。
「実は……ユリウス様のことで、お伝えしたいことがございます」
「ユリウス……?」
思わず、胸の奥がぎゅっと締まる。彼――ユリウス・アッシュフォードは、わたしの幼馴染であり、先日の王宮でもただ一人、わたしを庇おうとしてくれた人だ。わたしは彼を巻き込みたくなくて、あえて突き放した。だというのに、わたしの胸にはその名前を聞くだけで、抑えきれない動揺が広がってしまう。
「ええ。子爵家の使用人の間で聞いた話によると……ユリウス様はどうやらフェリシア様のために、いろいろ情報を集めていらっしゃるようなのです」
「……そう」
上手く言葉が続かない。視線を手元の書類から外し、窓の外を見る。午後の陽光が柔らかに庭を照らしているのに、なぜこんなにも心が穏やかになれないのだろう。
「ユリウス様は、あの場でフェリシア様を庇おうとなさった。それで子爵家のほうでも色々と問題視されているらしいのですが……それでも諦めずに、あちこち動いておられるようです。公的にではなく、あくまで個人的に……と」
ハンナの声音には、わたしを気遣う優しさがにじんでいた。けれど、わたしの心は複雑だ。正直、ユリウスがそんなにも尽力してくれていると知って、嬉しさがないわけではない。でも……同時に、「どうして、わたしのためなんかにそんな危険を」と苦しくなる。
「そっか。……余計なお世話、ね」
思わずつぶやくように出た言葉は、少しばかり刺々しい調子を帯びてしまう。ハンナが驚いたように目を瞬かせたのがわかった。
「フェリシア様、本当に……よろしいのですか? ユリウス様は、それこそ命懸けといってもいいくらい……」
「だからこそ、放っておいてほしいのよ」
自分でも冷たい態度だとわかっている。だけど、あの場で彼を突き放したのは、彼を守りたいからだ。子爵家が下手に王家や公爵家と対立すれば、ユリウスもその未来を失いかねない。あの優しい人の将来を、わたしが壊してしまうのは耐えられない。
「本来なら、わたしが解決すべき問題だもの。……ハンナ、彼には何も伝えなくていいわ。もしわたしを訪ねてくるようなことがあっても『会うつもりはない』とだけ伝えてちょうだい」
「そんな……それは、あまりにも……」
ハンナの言葉は苦しげだった。わたしだって苦しい。でも、わたしのために彼が身を危険に晒すなんて、あってはならないのだ。かすかに握った拳が震える。いっそ甘えてしまいたいという気持ちもないわけじゃない。それでも、ここで彼に頼れば、きっと彼はもっと深くまで踏み込んでくる。
「わたしは……もう、ユリウスに迷惑をかけたくないの」
心の中を吐露するようにつぶやくと、ハンナは小さくうなずき、それ以上は何も言わなかった。室内に静寂が落ちる。ふと目を向ければ、窓際のカーテンが風に揺られて、淡い動きを繰り返している。
「フェリシア様がそうおっしゃるなら……でも、どうか、くれぐれもお一人で無理はなさらないでくださいね。せめてわたしだけでも、お力になりたいと……」
「ありがとう、ハンナ。その気持ちだけで十分よ」
それでもハンナは、「はい……」と寂しそうに微笑んだ。彼女もきっと、ユリウスの誠実さを認めていて、わたしが彼を遠ざけようとしているのを気にかけているのだろう。
「わたし、ちょっとだけ庭の空気を吸ってくるわ。ずっと部屋にこもってると頭が固くなりそう」
「かしこまりました。くれぐれも、無理なさらないでくださいね」
そう言ってハンナは退出していった。ドアが閉まる音が静かに響き、残されたわたしは少しだけ息をつく。書類をまとめる気力もわかず、わたしは軽く羽織りを身につけて廊下に出た。
公爵邸の庭は、四季折々の花が咲き乱れる華やかな空間だ。けれど、いまのわたしにはその景色が色褪せて見える。王太子殿下との婚約破棄の話が広まって以来、ここの使用人たちも皆、わたしの顔色をうかがうばかりだ。
足元を見つめながら石畳を歩き、噴水のほとりで立ち止まる。透明な水がきらきらと陽を反射し、あたりを涼やかな音で満たしている。ああ、なんて穏やかな光景なんだろう。それなのに、わたしの胸には悲しみと不安が渦を巻いている。
「ユリウス……本当に、何をしているの?」
独りごちてみても、答えが返ってくるわけじゃない。でも彼は、きっとわたしを信じて動き回っている。子爵家としては止められているはずなのに、それでも止まらない。それが彼の優しさであり、強さでもある。
(嬉しくないわけがないじゃない。わたしのために動いてくれて……けれど……)
視線を噴水の水面に移すと、自分の揺れる気持ちがそのまま映し出されている気がした。公爵家と王家に挟まれ、無実の罪を着せられているわたし。一方で、子爵家という弱い立場ながら、それでもわたしを助けようとするユリウス。そこに生まれるリスクの大きさを考えれば、やはり共に行動することは危険だ。
「わたしは、わたしの問題を自分で解決する。ユリウスには関わらせちゃいけない……」
かたくそうつぶやくと、あの日、王宮で突き放したときのユリウスの表情が思い出される。悲しげに揺れる瞳。あれだけ強気に見える彼が、まるで子どものように戸惑っていたのが、今でも胸を突く。
(ごめんなさい。でも、もう少しだけ我慢して……)
思わず手を胸に当てる。そう、今はまだこらえるときだ。いずれ真実をつかんで、わたしの潔白を証明しなければならない。そのためには公爵家の立場もあるし、わたし自身が動くしかない。ユリウスの力を借りれば多少は早いかもしれないけれど、同時に危険も倍増する。
「――それに、きっとユリウスは止まらないでしょうけど……」
その頑固さを知っているからこそ、心配で仕方がない。でも、あの真っ直ぐさに何度も救われたのも事実だ。もしわたしが追い詰められたら、彼は真っ先に駆けつけてくれるだろう。そんな確信めいた思いが、わずかに胸を温める。
「フェリシア・ローゼンハイム……あなたはどうするの?」
噴水の水滴がきらきらと舞い、日の光と絡みあう。この美しい光景に反して、わたしの中ではさまざまな思いが交差していた。ユリウスのこと、王太子殿下のこと、コーデリア・クロフォード……。どれもがわたしの行く手を阻む要素なのに、立ち止まるわけにはいかない。
「名誉を取り戻すためには、わたしも動かなくちゃ」
そう固く決心すると、庭の空気が少しだけ軽くなった気がした。ユリウスに助けを求めるつもりはない。公爵家の方針にも逆らえない。ならばわたしは、わたし一人の力で情報を集めるしかないのだ。
父と母は「静観」を主張しているが、わたしは黙って罪を着せられたままでいられるほど柔じゃない。いずれコーデリアやその周辺についても探りを入れなくてはならないだろう。――王太子殿下がなぜ、あれほど容易くわたしを信じてくれなかったのか。その理由も含めて、調べることは山ほどある。
(ユリウス……あなたが動いているのは知ってる。でも、今はお互いに自分のやれることをやりましょう)
遠くにある空を見上げ、そう心の中でつぶやく。わたしたちの道が再び交わるかどうかはわからない。けれど、もし次に会うときがあるならば、笑って向き合えるように――今はそれだけが小さな願い。
噴水の音が優しく耳を打ち、わたしはゆっくりと踵を返した。机に散らばった資料の山が待っている。ほとんど糸口が見えていないけれど、手を動かさなければ何も始まらないのだ。立ち止まって嘆いている暇など、わたしにはない。
「絶対に真実を見つけてみせるわ……!」
噛みしめるように言葉を落とすと、自分自身を奮い立たせる熱が胸に広がる。ユリウスの行動がわたしを勇気づける要素になっているのは確かだ。だけど、今はまだ彼に近づくわけにはいかない。
わたしは背筋を伸ばし、再び部屋へ戻るため、庭を歩き始める。どうか、わたしの想いが彼に届かないように――あるいは、彼の優しさがいつか報われるように――そんな矛盾した祈りを抱えながら。
けれど、心のどこかでわずかに感じる予感は、わたしとユリウスが今後ともに歩むことになるというささやきを含んでいた。まるで噴水の水滴のようにきらきらと揺らめきながら、わたしたちの行方を照らしているように思えるのだ。
――そして、曇りのない意志を胸に、わたしはもう一度書斎へと足を運ぶ。そこにある束の資料を前に、決意を新たにしながら。まだ先は長いけれど、一歩ずつ踏み出さなければならない。それが公爵令嬢として、そしてフェリシア・ローゼンハイムとしての責務なのだから。