第8話 覚悟
アッシュフォード子爵家の館は、石造りの門を抜けるとこぢんまりとした庭があり、玄関へと続く道の両脇には花壇が整然と並んでいる。子爵家としては十分立派な屋敷だが、それでも公爵家と比べれば見劣りするのは否めない。
そんな屋敷の応接間で、ユリウス・アッシュフォードは父――アッシュフォード子爵から厳しい叱責を浴びていた。
「……お前というやつは! あろうことか、王太子殿下に食ってかかるなど、正気か!」
子爵の怒声が石壁を震わせ、ユリウスの耳に鋭く刺さる。このように強い口調で怒鳴られるのは久しぶりだが、彼の胸に後悔の念はなかった。むしろ、あの場で黙っていられなかった自分を責めるつもりはさらさらない。
「ですが、父上……フェリシアが断罪されているところを見て、どうしても黙っていられませんでした」
ユリウスは拳を握り締める。王宮の大広間で、王太子殿下が公爵令嬢フェリシアを糾弾する光景が、いまだ鮮明に脳裏をよぎって離れない。彼女が身に覚えのない罪を着せられ、耐えがたい屈辱を受ける姿を見過ごすことは、幼馴染としてどうにもできなかったのだ。
「見過ごせない? 子爵家の分際で、王家や公爵家の問題に首を突っ込むだと? ……何を考えている、ユリウス」
子爵の叱責はさらに続く。確かに、アッシュフォード家は子爵位であり、公爵家や王家ほどの影響力はない。王太子殿下に意見するなど、周囲からすれば身の程知らずも甚だしいと思われても仕方ないだろう。
それでも、ユリウスにはフェリシアを見捨てるなど到底できるはずがなかった。
「ですが、父上。フェリシアは本当に何もしていないんです。幼いころからの努力を、父上もご存じでしょう? 彼女が理不尽な形で婚約破棄をされるなんて……あまりにも酷すぎます」
そう口にすると、子爵は深い溜息をつき、額に手を当てた。子爵家の当主として、王家や公爵家を正面から敵に回す危険性を痛感しているのだろう。
「思うか思わぬかの問題ではない。――我々アッシュフォード家には、王家や公爵家を相手取れる力はないのだ。わかるか? この国の頂点に立たれるのは王太子殿下。そして、公爵家は貴族社会の要の一つ。その間に子爵家が割り込むなど、どうなるかわかったものではない」
「……はい。立場が違いすぎるのは承知しています」
「ならば口を慎め。子爵家を巻き込むようなことをして、どうするつもりだ。お前ひとりの独断で、アッシュフォード家が破滅の道へ進むかもしれんのだぞ!」
子爵が机をどんと叩くたびに、ユリウスの胸に鋭い痛みが走る。確かに、家のことを考えれば下手に動くのは危険だ。それはわかっていても、フェリシアへの思いを無視することはできない。
「もちろん、家を危険にさらすつもりはありません。ですが……フェリシアを助けたいんです。彼女がどれだけ努力してきたか、ご存じでしょう? 王太子妃となるべく、幼いころから必死に――」
「わかっている。だからこそ厄介なのだ。公爵令嬢が潔白であろうと、王太子殿下が婚約破棄を宣言された以上、覆すには並大抵の力では足りぬ。火中の栗を拾ってしまえば、こちらもただでは済まんぞ」
子爵の苦渋に満ちた言葉が部屋の空気を重くする。フェリシアのために動きたい気持ちがあっても、アッシュフォード家には明確な後ろ盾がない。子爵はその現実を痛感しているからこそ、止めようとしているのだろう。
ユリウスはそれでも、子爵の視線を真正面から受け止める。何を言われようとも、引くつもりはなかった。
「……わかりました。もう余計な真似はしません」
そう告げると同時に、彼は応接間のドアへ手を伸ばす。子爵は「ユリウス、お前……」と何かを言いかけたが、深い溜息とともに言葉を呑んだ。ユリウスは軽く頭を下げて部屋を出る。
屋敷の廊下を抜けて外へ出ると、朝の光が柔らかく降り注いでいた。小さな噴水のある庭では、数羽の小鳥がさえずり、緑の葉が風に揺れている。子爵家としては十分整った庭だが、公爵家の広大な敷地を思い浮かべれば、少し窮屈に感じるのも事実だった。
(今ごろ、フェリシアはどうしているだろうか)
ユリウスは石造りのベンチに腰掛け、噴水の水音を聞きながら空を見上げる。フェリシアの凛とした姿が脳裏に蘇り、ぎゅっと胸が締めつけられる思いがした。
幼いころ、彼女は厳しい公爵家のレッスンや礼法をこなしながらも、いつも毅然としていた。ユリウスに対してはほんの少しだけ柔らかな表情を見せてくれて、そのギャップが彼の心を強く揺り動かした。
「放っておけるわけがない、だろう」
そうつぶやく声は、小さくかすれていた。幼馴染が無実の罪を着せられ、孤立無援で戦っているかもしれない。子爵家の立場も、父からの圧力も、ユリウスの決意を揺るがせることはできなかった。
(フェリシアが泣いているところなんて、見たことない。でも、今は――)
想像するだけで胸が苦しい。プライドの高いフェリシアが、どんな思いで婚約破棄を受け止めているかと思うと、黙ってはいられなかった。たとえ家を巻き込むリスクがあっても、真実を突き止めたいと思うのは当然だと感じる。
ユリウスはベンチからゆっくり立ち上がり、庭の外へ視線を向けた。王宮はここから見えないが、フェリシアがあの場でどれほどの衝撃を受けたか――考えるだけで息が詰まる。
「……まずは情報を集めないとな。噂話でもいい。捏造された証拠の痕跡がどこかにあるはずだ」
王太子に直接弁明を求めたり、公爵家に正面から問いただしたりするのは危険極まりない。だが、ユリウスには貴族社会に広い人脈を持つ知り合いが少なからずいる。そうした人々から、何かしらの情報を入手できるかもしれない。
もちろん、父の目を盗んでの行動になるが、「アッシュフォード家として正式に動くわけではない」という建前があれば、彼個人の行動として処理できるだろう。
「きっとフェリシアは、自分で動いて何とかしようとしている。昔から他人に迷惑をかけまいと頑張りすぎるんだから」
子どものころ、礼法の稽古に疲れきった体を引きずりながらも「大丈夫」と笑っていたフェリシアを思い出し、ユリウスは小さく微笑んだ。彼女にとってプライドは命のようなもの。だからこそ、その誇りを踏みにじる形で婚約破棄を突きつけられたのが許せない。
(身の程知らず、と思われても構わない。彼女が苦しんでいるのに、黙ってなんていられるか)
決意が固まるにつれ、不思議と心が軽くなる気がした。不安や恐怖がゼロになるわけではないが、フェリシアを救えずに後悔するのは何より耐えがたい。ユリウスは父に背く形になろうとも、自分なりに動く覚悟を決める。
「よし、まずは知り合いに連絡してみよう。噂話や人脈を駆使すれば、きっと何か手がかりを得られるはずだ」
自分にできることを一つずつ形にしていけば、状況を動かせる可能性がある。王太子殿下や公爵家に正面から挑むよりも、まずは小さな一歩を踏み出すことが大事だ。
再び父の「やめておけ」という声が頭をかすめるが、ユリウスは首を横に振って払いのける。言われるがまま従っていては、フェリシアはどうなるのだろう。そんな考えが彼の背中を強く押していた。
「フェリシア……必ず助ける。昔からの約束、忘れてないよ」
思い出すのは、幼い日の光景。泣きそうになっていたフェリシアにかけた励ましの言葉を、彼女は笑顔で受け止めてくれた。あのとき感じた温もりが、今もユリウスの中で輝き続けている。
噴水の近くから聞こえる涼やかな水音に、まるで「行ってきなさい」と背を押されるような心持ちになり、彼はそっと笑みをこぼす。
「やるしかないんだ。子爵家の立場はどうあれ、ユリウス・アッシュフォードとして、彼女を放っておけるはずがない」
危険を伴う遠回りかもしれない。それでもフェリシアを救うための手段を探るという強い意志が、ユリウスの心を燃やしていた。
朝日が高く昇り始めた空を見上げると、光が少しだけまぶしい。たとえ何があろうとも、あの笑顔を再び見られる日を信じて、彼は行動を起こすと決めたのだ――父の反対を押し切ってでも。
こうして、子爵家の弱い立場にもひるまずに、ユリウスは幼馴染を救うための戦いへ踏み出す覚悟を固める。彼女はきっと、どんな苦境でも諦めない。ならば、自分も諦めるわけにはいかないのだ。