第7話 揺れる威信
翌朝――まだ薄暗い空の下、公爵邸には昨日までとは違う重苦しい空気が立ち込めていた。まるで強い風雨が訪れる前触れのように、屋敷の中をざわざわとした緊張感が包みこんでいる。侍女や使用人が、言いたいことを必死に抑えながら動き回る姿が目についた。
(あの「婚約破棄」の話が、もう邸内に広まったのね)
寝不足で重たい頭を振り払いながら、わたしは父が執務を行う部屋へ向かう。廊下ですれ違う使用人たちは、皆一様にこわばった表情を浮かべ、申し訳なさげにわたしに一礼してくる。
だけど、そんなふうに気遣われるとますます心が重くなる。わたしは視線を下げ気味に、足を速めて執務室の扉を叩いた。
「失礼します、フェリシアです」
「入れ」
中から聞こえてきた父の低く重たい声。嫌でも背筋が伸びてしまう。厳格な父に呼び出されるのは、これが初めてではないものの、今日ばかりは胸の奥がざわついて仕方ない。
扉を開けると、重厚な家具が並ぶ広い執務室の中央で、レオポルド・ローゼンハイム公爵が腕組みをしてわたしを待ち受けていた。横には母、エレオノーラ・ローゼンハイムの姿もある。二人とも浮かべる表情は険しく、一瞬で息が詰まるような空気にのまれてしまった。
「父様、母様」
思わず背筋を伸ばして敬意を表しながら、足早に室内へと進む。けれども父はすぐに椅子を勧めるでもなく、冷たい視線をわたしに向けた。以前より白髪が増えたように見える髪をきっちりとなでつけ、焦げ茶の瞳を険しく細めている。その姿は王族にも引けを取らないほどの威圧感を放っていた。
「座りなさい、フェリシア。……いろいろと話を聞かせてもらうことがある」
「はい」
指示された椅子に腰を下ろす。母はそばで立ったまま、心配そうにわたしを見下ろしていた。何か言いたげだが、父が主導権を握っている以上、口を挟むわけにはいかないのだろう。室内には、重苦しい沈黙が流れた。
やがて父は、静かに口を開いた。
「聞けば……王太子殿下が、おまえとの婚約を一方的に破棄されたそうだな」
「はい」
わたしの声はわずかに震えていたが、どうにかこらえる。公爵令嬢として、幼い頃から鍛えられてきたはずなのに、父を前にするといつも萎縮してしまうのが情けない。それでも、逃げ出すわけにはいかない。
「理由は、おまえが『王家に対して不正を行った』というものらしいが……何も覚えがないと言うのだな?」
「……はい。殿下から提示された『証拠』は、わたしにまったく心当たりのないものばかりです。捏造だとしか思えません」
父は深くうなずき、机に両手を置く。その指先がかすかに震えているのを見て、彼が怒りや苛立ちを必死に飲み込んでいるのだと気づいた。家の面子を潰されたことへの憤怒、あるいは王家との関係が崩れるのではという危機感――さまざまな感情が父の胸中で渦巻いているのだろう。
「フェリシア、おまえが真っ当な娘であることは、私もわかっている。だが、王太子殿下が断固としてお前を断罪された以上、公爵家としてはむやみに反論できない立場にあることを理解しているか?」
「……はい」
「よろしい。余計な動きを見せれば、ますます事態がこじれて、王家との関係が一層悪化する可能性が高い。結果として、我が公爵家が貴族社会の中で孤立することにもなりかねん」
父の言葉には、政治的な打算と危機管理の狭間で揺れ動く、繊細な感情がにじんでいた。わたしの無実を信じたい気持ちと、家を守らねばならない責任感とが、父の中で板挟みになっているのだろう。
「……ですが、何も行動を起こさずにおけば、わたしの名誉は傷ついたままです」
自分でもわかっている。今の父は、わたしよりも「公爵家」を優先している。父が言うことも正しい。ここで王家を逆撫でするようなことをすれば、国全体を巻き込む騒動に発展するかもしれない。でも、わたしはそれでも動かないわけにはいかないのだ。何もしないまま、捏造された罪を押しつけられたままで終わりたくはない。
「それはわかっている。しかし、ひとまずは静観だ。軽率な行動をとれば、さらに厳しい立場に追い込まれよう。……フェリシア、わかるな?」
「……はい」
視線を伏せながら、悔しさを噛み締める。こういうとき、公爵家の娘であるわたしには「家の方針」に従う義務がある。父に背くことは、家を裏切ることに等しい。それでも――わたしの内側では、少しずつ抵抗の炎が燃え上がる。
「レオポルド、公爵家としてはフェリシアが疑いを晴らすのが最善でしょう? このままでは……」
黙っていた母が、控えめな声で口を開いた。しかし、父は苦々しい表情を浮かべ、低く言葉を放つ。
「エレオノーラ、わかっている。だが、派手に動けば王宮との溝が一気に深まる可能性がある。フェリシアの潔白を示すにも、それ相応の策を講じねばならん。……急いては事をし損じるというものだ」
母は何か言い返したそうだったが、父の強いまなざしに言葉を飲み込んだ。まるで家庭ではなく、政略の交渉をしているかのようなよそよそしさが、この場の空気を満たしている。
わたしが求めるのは「守るから安心しなさい」という言葉かもしれない。けれど実際に父から返ってくるのは、「家を守るため、当面は静観」という冷徹な方針だけ。家族のぬくもりを感じられないその態度に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「もし何か進展があれば、すぐに私に報告しろ。不要な噂を立てられぬよう、おまえもなるべく目立つ行動は控えること。よいな?」
「はい……承知しました」
父の厳粛な言葉に、わたしはかろうじて一礼するしかなかった。そこで議論は打ち切られ、秘書らしき男性が公爵家の文書を父に手渡す。すでに、王宮への対応や貴族間の調整など、山ほどの仕事が押し寄せているらしい。
わたしは置物のように扱われたまま、一言の慰めも受けず執務室を退席した。背後で「フェリシア」と声がかけられた気がして振り返ると、母が心配そうにこちらを見ていた。けれど、父の鋭いまなざしに、彼女もまた言葉を失ったままだ。
(……守られていないわけではないけど、きっとわたしは一人で行動を起こさなくてはならない。父様に頼るのは難しそうね)
廊下に出ると、明け方の澄んだ光が窓から射し込んでいるのに、まるで暗闇を歩いているかのように感じた。使用人たちの視線が、いたたまれないほどの同情と戸惑いを含んで注がれる。人の気配に敏感になっているのは、わたし自身が追い詰められている証拠なのだろう。
「フェリシア様……」
「……ご心配なく。大丈夫です」
かけられる小さな声にも、必要最低限の返事をするだけで通りすぎる。心がざわざわして落ち着かない。さりとて、部屋に籠って泣き暮らすなんてことはできない性分だ。
(今のままでは、公爵家の方針に縛られて何もできない。けれど、黙っていると「偽りの罪」が固まってしまう……どうしたらいいの?)
自問しても、すぐに答えは出ない。父のように政治的リスクを第一に考えれば、確かに表立っての行動は危険だろう。でもわたしには、無実を証明しなければならない「理由」がある。それを諦めるわけにはいかないのだ。
(誰か助けて……と嘆いたところで、何も変わらない)
ときおり感じる孤独感は、昨日よりも増している。けれど、それは同時にわたしの闘志を呼び覚ましてもいた。幼い頃から重ねてきた努力を無駄にさせてたまるものですか――わたしのプライドが心の奥で声を上げる。
どこかに糸口があるはず。それに、現に偽りの証拠を仕立て上げた者がいる以上、放っておけばまた別の形でわたしを追い詰めにくるかもしれない。ならば自分から動くしかない。でも、公爵家としては「静観」が方針……。
「だったら、わたしひとりの力でできる範囲を探すわ」
小さくつぶやいて、拳をぎゅっと握りしめる。父や母の冷たさ……いいえ、彼らも家を守るために必死なのだと頭ではわかっている。けれど、結局はわたし自身が何とかしない限り、真実は見つからないだろう。
そう考えると、胸のどこかにかすかな希望が芽生えてきた。孤独という名の闇に飲まれてしまいそうでも、わたしには公爵令嬢としての誇りがある。乗り越える術をきっと見つけられるはずだ。
廊下の突き当たりにある窓の外を見やると、朝日が昇り始めていた。まばゆい光が、いまはやけに遠く感じる。でも、いつかあの光を、再び自信を持って仰ぎ見るときがきっと来る――わたしはそう信じるしかない。
そして、父がどんな方針を打ち出そうと、わたしはわたしのやり方で、この冤罪を晴らさなくてはならないのだから。
「絶対にあきらめない。わたしが真実を見つけ出すわ」
言い聞かせるようにつぶやいたその声は、まだ少し震えていた。けれど、心の奥底には確かな炎が宿っている。たとえ家族の後ろ盾がなくても、王太子殿下に見捨てられようとも、わたしが頑張らなければ誰も守れない。
わたしは、わたしが築いてきたものを、自分の手で取り戻すために――今日からさらに進まなくてはならない。孤独に耐えながらでも、必ずや誇りある道を歩いてみせると、心に誓いながら。