第61話 永遠の誓い
夜会が終わり、煌びやかな喧騒から解放された王宮の庭園には、しんとした静寂が広がっていた。空には月が浮かび、さまざまな星がきらきらと輝いている。夜風が花の香りを運んで通り抜け、さっきまでの熱気が嘘のように涼やかな空気を感じさせた。
わたし――フェリシア・ローゼンハイムは、緩やかに伸びる園路をユリウス・アッシュフォードと並んで歩いている。先ほどまでの夜会で、公衆の面前で婚約を正式に承認されたばかり。胸の奥にはまだ熱い興奮が残っているのに、こうして二人きりになると、不思議と安らぐような静けさを感じられた。
「フェリシア、疲れてない? さっきまで本当に盛大に祝われてたから」
ユリウスが優しい声で尋ねる。わたしは笑みを浮かべ、そっと首を振った。
「ううん、むしろまだ心が高鳴ってるわ。あんなに大勢の前で堂々と『婚約者同士』だと宣言されて……夢みたい」
「そうだよね。俺も同じ気持ちだよ。今でも足元がおぼつかない気がする……。でも、幸せ過ぎて夜会の場にいられなくなっちゃったんだ」
わたしはくすりと笑う。あんなに人前で朗らかに祝われるのは、ユリウスにとっても初めての経験だろう。わたしも同じだ。公爵令嬢として生きてきたけれど、こんな心からの祝福を受けたのは初めてのことだった。
しばらく歩くと、月光が差し込む噴水のそばにたどり着く。水面には星々が揺れて映り、その揺らめきが幻想的な姿を作り出していた。ユリウスはその噴水の縁にわたしを促し、腰を掛けるようにうながす。
「少し座ろうか。夜会の興奮をクールダウンしないと、心臓が持たないよ」
「そうね……そうしましょう」
わたしは素直に従って、ドレスの裾が汚れないよう注意しながら、噴水の縁へそっと腰をおろす。月光がドレスの宝石をひそやかに反射し、昼間とは違う輝きを放っていた。ユリウスもわたしの隣に腰掛け、少しの間、たがいに顔を見合わせる。
先ほどまで夜会で数えきれないほどの祝福を受けたのに、いざ二人だけになると、この時間が尊くてたまらない。心が満たされすぎて、言葉にできない思いが胸を押し上げてくる。
「フェリシア……俺、今日の夜会で正式に君との婚約が認められたわけだけど……実はどうしても伝えたいことがあるんだ」
ユリウスの声が小さく震える。わたしは思わず、ドキリと胸が跳ねる。何か重要な話があるのだろうか。先ほどまでの婚約承認が、すでに“本番”のように思えたけれど、ユリウスの表情を見ると、もう一つ重大なことが隠されていると感じられた。
「どんなこと……? わたしに言いにくい話……?」
「いや、言いにくいというよりは……大事な話。あの夜会の舞台で言おうかと思ったけど、人前では落ち着いて言えそうになかったから、今こうして二人きりの場で……言わせてほしい」
ユリウスは一度息を整え、ポケットに手を差し込む。そこから取り出された小さな箱――まさか、指輪だろうか。わたしは息を飲み、心臓の鼓動が急速に早まるのを感じた。
彼はその箱を丁寧に開けると、月光の下で輝く指輪が姿を現す。キラリときらめく宝石の光が、わたしの瞳にまぶしく映った。
「フェリシア……改めて。俺と結婚してください。必ず、君を生涯幸せにしてみせる。これは、俺の決意の象徴……」
ユリウスはそのまま、箱から指輪を取り出し、わたしの手のひらの上にそっとのせる。心臓が痛いほど高鳴り、わたしは一瞬で視界が涙で霞んでしまった。さっきまでの婚約宣言とはまったく別格の、深い想いが込められたプロポーズの言葉だ。
「ユリウス……そんな……さっきあんなにみんなの前で祝福されたのに、まだ言うことがあるなんて……。わたし、もう涙が出そう……」
「でも、ちゃんと俺の口から、君へ伝えたかった。夜会の公式な発表は、貴族としての婚約だったけど……これは俺個人からの、心を込めたプロポーズなんだ。受け取ってくれるかい?」
指の先がかすかに震える。わたしは指輪の輝きを見つめ、力の抜けた声でささやく。
「もちろん、受け取るわ。嬉しい……わたしは、あなたを愛している。これ以上ないほど……」
「ありがとう、フェリシア。じゃあ、指輪を……君の指にはめてもいいかな?」
「ええ……その、緊張しちゃうけど……」
わたしは笑い涙をこぼしながら、ユリウスに手を差し出す。すると、彼は大切に宝石をつまみ、わたしの左手薬指へそっと滑らせる。その瞬間、胸に込み上げる感情が爆発しそうになって、思わず声を抑えながらすすり泣いた。
「……は、入った……。ユリウス、これ、すごくきれい……」
「君に似合うか分からなかったけど、宝石商に相談して、君のイメージに合わせたものを特注したんだ。ほんの少しでも、君の美しさに寄り添えたなら嬉しいよ」
「ううん、こんなのもったいないくらい……わたし、ずっと大切にするわ、絶対に」
涙が頬を伝っていく。それでもわたしは笑っている。彼がわたしにくれた想いを形にした指輪――それはあの日、夜会で痛めつけられた心を癒やし、未来へ導いてくれる光の結晶のように感じられた。
隣ではユリウスが「フェリシア……ありがとう」とささやき、抱きしめるようにわたしの肩を引き寄せてくれる。まだ傷が癒えきっていない彼の身体を気遣って、わたしはなるべく負担にならぬようそっと身を預ける。
「あなたが言ってくれる『一生幸せにする』って言葉、ずっと信じていたわ。ねえ、わたしも同じ気持ちよ。あなたと一緒に幸せになるために、わたし、精一杯努力する」
「ありがとう。君がそう言ってくれるだけで、俺はもう何もいらないほど嬉しい。だけど、これから先の人生で、もっとたくさんの幸せを君に見せたいんだ。俺はそのために生まれてきたんじゃないかって思うよ」
「わたしこそ、あなたの隣にいて、あなたを支えたいの。ずっと、ずっとね」
二人で月夜の下、抱き合うように寄り添う。冷たい夜風がドレスの裾を揺らすが、まったく寒さを感じない。むしろ胸の内から熱がこみ上げ、夢のような時間に包まれていると思う。
それでも、先のことを考えれば課題は山積み――結婚式の準備や、公爵家と子爵家の折り合い、王太子殿下からのさらなる後押しなど、まだまだやるべきことは多い。けれど、今この瞬間ばかりは、そんなことを忘れてもいいだろう。わたしとユリウス、二人きりの甘い時間だから。
「ユリウス……本当に、ありがとう。あなたが生きてここにいてくれて、こうしてわたしを抱きしめてくれる……それだけでも夢みたいなのに、指輪まで……」
「フェリシア、どんなに感謝してもし足りないのは俺のほうだよ。君がいてくれなかったら、俺はこんなに頑張ろうなんて思わなかったかもしれない。君が俺の光だった」
「そ、そんな……恥ずかしいこと言わないでよ。でも、わたしだって同じ……あなたはわたしの光、命を救ってくれたヒーローだもの」
「はは……じゃあ、お互い様だな。二人で光になれるなら、これ以上は望まないよ」
わたしは肩を揺らして笑いながら、指輪を見つめる。まるで月光を宿したかのように、宝石が小さな光を放っている。その先にはきっと、わたしたちの幸せな未来が広がっているに違いない。
やがて、わたしはそっとユリウスの胸に額を当て、目を閉じる。このまま時が止まればいいのに――そう思うほど甘美な瞬間。けれど、戻ればみんながわたしたちを祝福してくれている夜会が待っているし、次は結婚式という大きなイベントも控えている。
「さ、そろそろ戻りましょうか。もう少し二人だけの時間を過ごしたいけれど、父様や母様、王太子殿下、それにたくさんの人が待ってるわ」
「そうだね。指輪もはめたし、もう逃げられないよ、フェリシア?」
「むしろ、逃げるのはあなたのほうじゃない? わたしは絶対にあなたを離さないから」
「嬉しいな、その言葉……。じゃあ、行こう。二人で手を繋いで、堂々とみんなの前へ」
わたしは小さく微笑み、ユリウスと手を取り合って立ち上がる。夜の庭園を彩る月と星が、まるで祝福のシャワーを降らせているかのように感じられる。心配していた胸の痛みはもうどこかへ消え失せ、熱い幸福感で満たされていた。
こうして夜会後の静かな庭園で、わたしとユリウスは正式なプロポーズと指輪の交換を終えた。幾多の苦難を乗り越えた今、わたしたちは再びこの華やかなる舞踏の世界へ戻っていく。まだ皆の前で大々的に披露しなくても、わたしの左手薬指はこの先ずっと彼の証を携え続けるのだ。
まるで新しい人生の一歩を踏み出すように、わたしとユリウスは腕を組んで歩き始める。指輪が月光を受けてかすかな煌めきを放ち、わたしの頬にはほろりと感動の涙がひとすじ伝った。
「ユリウス……わたし、すごく幸せ」
「俺もだよ、フェリシア。これから先は、ずっと一緒に幸せを積み重ねていこう」
夜風が二人の髪を揺らし、噴水の水面がさらさらと音を立てる。夜会の喧騒が遠くに聞こえるなか、わたしたちは手をつないで灯火のある方向へ戻っていく。
そしてこの庭園で交わした約束――愛の言葉と指輪――が、わたしたちの未来をさらに明るく照らしてくれる。いずれ迎える結婚式まで、わたしたちはもう何も恐れない。月と星がきらめく夜の下で、その揺るぎない絆を固く誓い合いながら、次なる大団円へ向けて歩みを進めるのだった。




