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第6話 決意の兆し

 ドレッサーの前に立ち尽くしたまま、わたしは一瞬、意識が遠のいていた。幼い頃の情景をまざまざと思い出し、あまりにも今の現実と隔絶していることに胸が詰まったのだろう。気づけば、頬がわずかに湿っていて、過去への哀惜(あいせき)が涙となってにじんだ痕跡を残していた。


「……フェリシア様?」


 聞き慣れた優しい声が耳を打つ。振り返れば、そこには心配そうにわたしを見つめる侍女のハンナが立っていた。さっきも訪ねてきてくれたはずなのに、わたしがずっと動かないから、もう一度足を運んでくれたのだろう。


「大丈夫よ。少し物思いにふけっていただけ」


 わたしは浅く微笑んでみせる。けれど、ハンナの瞳は不安げに揺れていた。彼女の純粋な優しさを思うと、胸が痛む。先ほどはどうしようもなく気持ちを保つのが精一杯で、まともに相手をしてあげられなかった。それでも、こうしてまたわたしを案じてくれるなど……。


「本当に、大丈夫なんですか? 今日のことがあまりにも突然で……その、やっぱりお顔色も悪いようにお見受けしますし」


 決して押しつけがましくなく、ただわたしを(おもんばか)る言葉。とっさに「ええ、平気よ」と言いたいのに、言葉が詰まりそうになる。だけど、わたしはぐっとこらえ、自分の中の重たい感情を飲み下した。


「……ありがとう、ハンナ。でも心配ないわ。わたし、そんなに弱くないから」


 精一杯、毅然(きぜん)とした声を出す。実のところ弱音を吐きそうになる瞬間は何度もあったが――この邸の者たちまで暗い顔をさせてしまうのは望むところではない。黙ってわたしを見つめていたハンナは、しばし躊躇(ちゅうちょ)してから、ぽつりとつぶやいた。


「それなら……よかったです。何かお手伝いできることがあれば、なんでも言ってくださいね。わたしは、フェリシア様の侍女ですから」


 その言葉に、胸が温まる。彼女の優しさと献身に甘えたくなる気持ちが一瞬湧くものの、わたしは目を閉じてそれを振り払った。ここで寄りかかってしまうと、きっとわたしは崩れてしまう。今はまだ、崩れるわけにはいかないのだ。


「ありがとう。今は少し、一人で考えたいの。……でも、本当に必要になったら頼らせてもらうわ」


 そう言うと、ハンナは安心したように顔をほころばせた。それでもまだどこか心配そうな表情を浮かべつつ、小さく礼をして部屋を後にする。その背中を見送ってから、わたしは浅く息を吐いた。


(ごめんね、ハンナ。わたし、まだこの混乱をきちんと整理できていないの……)


 部屋に沈む静寂が再び降りてくる。先ほどの回想が胸に(よみがえ)り、苦い気持ちがじわりと広がった。でも――このまま塞ぎ込むだけが能じゃない。わたしを育て上げた幼い頃の努力を思えば、今ここで崩れるわけにはいかないのだ。


 ドレッサーの前に戻り、鏡の中の自分をまっすぐに見つめる。ほんの少し前より顔色が戻った気がする。決意を新たにすれば、不思議と血が通うように頬が温かくなるのを感じた。


「そう。わたし、こんなところで折れるわけにはいかないわ」


 自分に言い聞かせるようにつぶやき、唇をきゅっと引き結ぶ。王太子殿下の不正告発が捏造なら、真実をつかむまで絶対に諦めない。幼い頃のわたしがくじけずに礼法や学問に挑んだように、何度でも立ち向かってみせる。


 ――ギシッ。


 わずかな物音がして、扉の外から足音が聞こえた。きっと母や侍女たちがわたしの様子をうかがっているのだろう。わたしが婚約破棄を宣言されたことで、公爵家全体が大きく揺れている。皆を不安にさせないためにも、強くあるべきだと改めて思う。


「……幼い頃のわたし、今のわたしを見たらどう思うかしら」


 足元に視線を落としながら、そうつぶやいてみる。礼法書の字を追いながら必死に耐えていたあの子は、わたしがこんなことで心折れる姿を想像もしなかったはずだ。むしろここからが勝負だと言わんばかりに、子どもながら奮起するだろう。


 だからわたしも、もう一度踏み出す。ドレッサーに並んだ香水瓶のひとつを手に取り、軽く香りを確かめる。甘く柔らかな香りが鼻をくすぐり、少しだけ心が落ち着くのを感じた。


 この空気を吸い込んだら、もう後には引けない。わたしの負けず嫌いの魂がそう警告している。


「ハンナにも、母にも、みんなにも心配ばかりかけてはいられないもの。どうせなら堂々と切り抜けてみせるわ」


 ぽつりとつぶやくと、鏡に映る自分の顔が決意を帯びてきたのがわかった。ほんの一瞬だけ、唇の端を上げてみる。無理やり作った笑みかもしれないけれど、不思議と背筋に力が通る。


 足音を立てないよう気をつけながら、わたしは部屋を後にする。よく考えれば、やるべきことは山のようにあるのだ。王太子殿下が提示してきた「証拠」という名の書類が本当に正しいのか――そこを突き止めるためには、わたしなりに情報収集を始めなければならない。


「どこかに矛盾点があるはず。それを見つければ、殿下の断罪が間違いだったと証明できるかもしれない」


 書庫へ向かう廊下を歩く間、わたしは自分の思考を整理する。どうしてコーデリア・クロフォードがあんなに得意げだったのか、そこにも何か理由があるだろう。いずれにしても、黙ってじっとしていては何も解決しない。幸い、こういうときのための書簡や記録は公爵家に少なからず蓄えられている。


(まずは、自分で動いてみるのが大事。父が戻られたら、改めて話し合いを……それから、ユリウスにだって状況をちゃんと――)


 ユリウス・アッシュフォード。わたしの幼馴染で、先ほども王太子殿下に直接抗議してくれた人。あの場ではあえて突き放してしまったけれど、彼はわたしにとって必要な存在かもしれない。自分を信じてくれる人がいるというのは、やはり心強いのだから。だけど、彼を安易に巻き込みたくはない。下手をすれば、子爵家にも飛び火しかねない。


 そんなことを考えているうちに、書庫の扉が目の前に現れた。少しひんやりとした空気が漂うこの部屋に足を踏み入れると、どこか気持ちが引き締まる。子どもの頃から、よくここで父の目を盗んで余計な本を読んでいたことを思い出して、かすかな郷愁が胸をくすぐった。


(そうそう、あの頃はもっと小さな手で本を抱え込んで……)


 思い出に耽るよりも、今は現実を直視しなければいけない。わたしは部屋の中央にある机へ向かい、ランプをつける。ざっと見渡せば、法務関連や貴族の系譜、王家に関する記録などが所狭しと並んでいる。まるでわたしを導くように、書庫の棚が静かにそびえていた。


「どれから手をつけようかしらね」


 独りごちる声が広い室内に反響する。胸にあった不安の塊は、まだ完全には消えていない。でも、今こうして動き出したことで、少しずつ光が差し込んできたようにも思えた。


 幼い頃からの努力は、絶対に無駄にしない。アルフォンス様と交わしたあの約束だって、あの笑顔だって、わたしにとっては偽りではなかったはず。もしも、どこかで何かが(ゆが)んだのなら、それを正すのもまたわたしの役目なのだ。


(断罪なんかに屈してたまるものですか。公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイムの誇りに懸けて、必ず真相を暴いてみせる)


 自分の中に熱い想いがこみ上げてくるのを感じながら、わたしは本棚の前に進む。すっかり夜も更けているけれど、まだ眠るわけにはいかない。明日から、きっともっと厳しい道が待ち構えているはずだから――だからこそ今、わたしはやれるだけのことをやり抜くのみ。


 淡いランプの光の下、わたしは一冊また一冊と古い文献を取り出して読み始めた。かじかむ指先をこすりながら、ほんのりと胸に灯った火を消さないように。眼差しには決意を宿して、断罪という暗闇を晴らす糸口を探し出そうと、ページをめくり続ける。


 ――こうして、わたしは静かな夜の書庫で、密かな闘志を燃やすのだった。


 たとえ王太子殿下に背を向けられようとも、わたし自身がこれまで築いてきた誇りと信念は消えやしない。


「負けないわ、絶対に――」


 小さくつぶやいて、わたしはまた一行一行を目で追う。長い夜の幕開けが、ここから始まろうとしていた。

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