第57話 協力の道筋
子爵家の屋敷は、公爵家ほど華美ではないけれど、どこか落ち着いた気品を感じさせる。玄関ホールからほど遠くない応接間へ通されたわたし――フェリシア・ローゼンハイムは、ソファに腰かけながら、一度深呼吸をした。
――今日は特別な日。ユリウスが王宮の傷病棟を退院して子爵家へ戻ったと聞き、さっそく面会の申し込みをしていた。お互い、まだあまり無理はできないし、傷を負った彼を刺激するような長話は避けるべきかもしれない。それでもどうしても、直接その姿を見て確かめたかったのだ。
「フェリシア様、お待たせしました。ユリウス様のご用意が整いましたので……」
子爵家の侍女らしい人が遠慮がちに声をかける。わたしはふわりと立ち上がり、緊張を解すように裾を揃えて礼を返した。公爵家の令嬢であるわたしに、子爵家の使用人たちはまだ少し戸惑っているのが分かる。
けれど、そんな遠慮を気にしていられない。わたしが案内された部屋の扉が開き、そこにユリウスが立っていたのを見た瞬間、思わず胸が熱くなる。杖を片手に、まだ痛々しさの残る姿――それでも、その顔には確かに優しい笑みが浮かんでいた。
「ユリウス……大丈夫なの?」
「フェリシア……来てくれてありがとう。まだこんな有り様だけど、立って迎えたかったんだ」
「そんな……痛みはない? 無理しないで、座って」
わたしは躊躇なくユリウスのそばへ歩み寄り、その身体を支える。彼が「大丈夫だよ」と小さく笑うのを見て、少し安堵する。ともあれ、以前より色が戻っているし、呼吸も落ち着いているように感じられる。
応接用の椅子へとゆっくり腰を下ろし、わたしも隣に座る。ふと彼がわずかに息を整えるのが分かり、胸がきゅっとなる。まだ痛むに違いない。それでもこうして笑顔を向けてくれているのだ。
「ごめんな、フェリシア。ほんとはちゃんと歩けるようになってから会いたかったんだけど……待たせるのも嫌だったし」
「謝る必要なんてないわ。わたしこそ、あなたが退院したばかりなのに焦って押しかけた形だもの。でも、会えない間、ずっと心配で……」
「ふふ……ありがとう。おかげで俺も早く回復したいって思えたよ。実は、今日どうしても話したいことがあるんだ」
ユリウスが気を取り直したように姿勢を正す。その表情は少し興奮気味で、わたしは首を傾げた。彼は杖を片手でつかんだまま、まっすぐわたしを見つめる。
「フェリシア……王太子殿下が、俺たちを支援してくれるって言ってたんだよ。先日、殿下自ら俺に会って、そう申し出てくれた」
「王太子殿下が……わたしたちを?」
驚きのあまり声が上ずってしまう。わたしの胸に浮かんだのは、かつてアルフォンス殿下に婚約解消を告げられ、さらにコーデリアによって貶められたあの日々だ。まさか、あの殿下が積極的に「わたしたちを応援する」という形で動いてくれるなんて。
ユリウスはわずかに微笑みながら、興奮を抑えるように説明を続ける。
「うん。殿下が過ちを痛感していて、俺たちが身分の壁を乗り越える一助になりたいって。真面目に言ってくれたんだ。あれだけフェリシアを苦しめた人だけど……いまは本気で謝罪と協力を申し出てくれてるみたい」
「そう……。わたしも実は最近、父様や母様の態度が変わった気がしてたの。もしや殿下が先に話を通してくれたのかしら」
「その可能性はあるね。俺もお父上に面と向かって交渉するには、まだ力不足だと思ってたから、王太子の後押しは大きいよ。公爵家も、王家の口添えがあれば簡単に無視できないだろうし」
「本当に……嬉しい。あなたと一緒になるためには、わたしたちだけの努力じゃ足りない気がしていたから」
わたしは心の底から安堵して、思わずユリウスの手を強く握る。彼が「あ、ちょっと痛っ」と小さく苦笑するのを見て、慌てて力を緩める。けれどその指先が返してくる温もりが、なんだかとても愛おしい。
「ご、ごめんなさい。力んじゃったわ」
「いや、大丈夫。これくらいなら平気だよ。それより、こうして君と話せるのが嬉しくて……ねえ、これで本当に道が開けると思わない?」
「ええ、わたしもそう思う。父様も『次の夜会や公の場で成果を示せば考える』って言っていたわ。そこに王太子殿下の力添えがあれば、なおさら……」
「つまり、公爵家を説得する大きなチャンスが巡ってくるかもしれないってことだね。今は俺がこんな状態だから、少し先にはなるだろうけど……絶対に活かそう。せっかく殿下も協力してくれるんだ」
「うん。わたしも一緒にがんばる。あなたが完治して、堂々と立てる日まで、わたしもずっと待つわ。怖いものなんてもうないもの……」
ふたりして微笑み合い、ほっと一息。これまで幾度となく暗闇の中をもがき、絶望を味わったはずなのに、今は穏やかで温かい光に照らされている気分だ。
まだあの惨劇の後遺症はある。公爵家が本当に結婚を許すかは分からないし、貴族社会からの風当たりもあるかもしれない。けれど、王太子が手を貸すと決意してくれた。ユリウス自身も、公爵家に相応しい地位や実力を身に着けようとしている。そしてなにより、わたしたちの絆があの地獄のような夜会を通して揺るがぬものとなったのだ。
「ユリウス、わたしたち……ここまでよく耐えたわね。ほんの少し前まで、あなたが刺されて倒れる姿を見て、わたし絶望のどん底だった。だけど、こうしてまた笑い合えてる」
「フェリシアが支えてくれたからだよ。俺、あのとき死んでもおかしくなかったんだ。でも、君が必死で助けを呼んで、何日も眠らずに看病してくれたって聞いた。……その想いに応えたいってずっと思ってる」
「わたしこそ、あなたがいてくれたからこそ名誉を取り戻せたのよ。お互い様。もう……感謝し合うのも照れくさいくらい、いつも支え合ってきたんだもの」
口にしてみると、なんて甘い言葉なんだろうと思う。それでも今は、そう口にせずにはいられない。わたしたち二人にとって、この束の間の幸せを噛みしめるのは大切な時間だ。
やがてユリウスは、杖を少し直すように位置を変え、真剣な面持ちで顔を上げる。
「……さて、これからは、本当に大事な時期になる。殿下の手助けはありがたいけど、それだけに頼るのも違うと思うんだ。俺は俺で努力して、公爵家にふさわしい存在だと認めさせたい。いいかな、フェリシア?」
「もちろん。あなたがそうしたいなら、わたしも全力でサポートするわ。王太子殿下が背中を押してくれるにしても、結局わたしたち自身がしっかりしないと、父様たちは納得してくれないはず」
「そうだよね。君のご両親も、ただの王太子の推挙ってだけじゃ納得しないかもしれない。俺と君の意思と努力を見せれば、きっと心も動くはずだ」
「わたしも父様や母様の前で、堂々と『ユリウスが必要』と言い切るわ。遠慮しないで欲しいの。いずれ夜会の大舞台が待っているから、そのときはきっと……」
「一緒に立とう、フェリシア。今度こそ、誰にも邪魔されずにね」
思わずわたしは胸が熱くなる。言葉にすると、まるで夢のようで信じられないけれど、あの死線を乗り越えたわたしたちが今ここまで来れたのだから、不可能なんてないのかもしれない。
静かに扉の外からノックが聞こえ、侍女が控えめに「お茶をお持ちしました」と声をかける。わたしたちは「どうぞ」と返事をし、部屋の空気が少し和らぐ。穏やかな時間――これがわたしにとって、どれだけ尊いものだろう。
「フェリシア……本当に、ありがとう。わざわざ会いに来てくれて。君の顔を見たら、もっと元気が出たよ。痛みなんて吹き飛んでしまいそうだ」
「わたしも会えてよかった。こんなに心が満たされるなんて……。やっぱりあなたのそばが、一番落ち着くわね」
「ふふ。もうしばらくは、安静とリハビリを続けるけど、その間に具体的な準備を考えておく。君も無理はしないで、時々顔を見せてくれると嬉しいな」
「もちろん。遠慮なく通わせてもらうわ。……それにしても、あなたが回復したら本当に忙しくなりそうね。わたしたちの目標は、『世間にも認められる関係』を築くことだもの」
「そうだね。しっかり頑張ろう。俺と君が同じ未来を見ているなら、きっとできるよ」
二人で視線を交わし、微笑み合う。その笑顔には、長い苦難を経た者にしかない強い光が宿っていた。王太子の協力、父母の態度の軟化――すべてが追い風となり、わたしたちを次のステージへ誘っている。
その一方で、まだ油断はできない。公爵家と子爵家、そして貴族社会の厳しい視線は残っている。今後行われる大きな夜会や、王太子主催の正式な場でわたしたちがどう振る舞うか――それが運命を決する試金石になりそうだ。
「ユリウス、ゆっくり休んでね。わたしはそろそろ失礼するわ。また来るから。そのときはもっとたくさんお話しましょう」
「ありがとう、フェリシア。俺も早く元気になって、君を迎えられるようにする。次に会うときは、もっと良い報告ができるかもしれないよ」
「楽しみにしてるわ。……じゃあ、またね」
わたしはそっと手を振り、名残惜しさを振り払うように部屋を出る。足取りは軽やか――あのときの暗闇とは比べものにならないほど、心が晴れやかだった。
ユリウスとわたしは確かに、今この一瞬だけ幸福な空気に包まれていた。まだ先は長いし、障害も残っている。けれど、わたしたちの愛を後押ししてくれる人々が増えつつある以上、きっと乗り越えられると思える。
こうして、わたしたちはしばしの安堵を得て、次なるステージへの準備を始める。夜会など公式の場で、堂々と二人で並び立ち、周囲を納得させる――それが、これからの大きな目標だ。けれど今はこの喜びと安らぎを噛みしめ、互いに無理をしすぎないように焦らず進むのも大事だと、わたしは心に刻んだ。
――扉の外へ出て、少し離れた廊下で振り返る。ユリウスが見送りに出てこようとしている気配に気づき、わたしは慌てて身振りで「出てこないで」と伝えた。怪我が完治していないから、無理をしてほしくない。
それでも扉の隙間から、ユリウスが「またね」と笑みを浮かべているのが見えて、わたしも同じく微笑み返す。こんな穏やかな日が、いつまでも続けばいい――そう願いながら、わたしは子爵家を後にした。




