第55話 面会
王宮の奥まった区画にある小規模の応接室は、豪華絢爛な大広間とは異なり、必要最小限の調度品だけが並ぶ簡素な空間だった。とはいえ、そこに漂う空気は落ち着きがあり、要人同士が密やかに会談するのにふさわしい品格を帯びている。薄手のカーテンから差し込む光は柔らかく、壁にかけられた静物画もどこか上品な雰囲気を醸していた。
そんな部屋の扉が開き、ユリウス・アッシュフォードが姿を現す。彼は杖をつきながら、まだ痛む脇腹を庇うように少し前かがみで歩いていた。体の奥に残る鈍い痛みは消えきっておらず、無理をすれば血が騒ぐように疼く。しかし、それでもここへ来ることは彼自身の意志だった。
この応接室に招いたのは王太子アルフォンス・エーデルシュタイン――かつてフェリシアを断罪し、結果的に彼女を危機へ追い込んだ張本人である。ユリウスはフェリシアを救うために身を挺して刺され、大怪我を負った立場だ。正直、まだ心穏やかとは言い難い。だが、フェリシアとの未来を勝ち取るためには、王太子を避けては通れない。
扉のそばに立つ侍従が「ユリウス・アッシュフォード様、お入りくださいませ」と静かに告げる。ユリウスは丁寧に頭を下げ、ぎこちない足取りで部屋の中央へ進んだ。そこには、ソファに腰を下ろすアルフォンスの姿がある。貴族社会を担う王家の後継者らしく、姿勢は凛としているが、どこか疲労の色が見えるようでもあった。
「ご無理はなさらずに。――その怪我の具合は、いかがなのですか?」
アルフォンスが声をかける。いつもは堂々とした王太子だが、その表情にわずかな暗さが宿っているのが、ユリウスにも分かった。彼は礼儀を守りつつ腰を折り、しかし痛みが走って顔をしかめる。
「お気遣いありがとうございます、殿下。まだ胸の傷は疼きますが、なんとか歩ける程度には回復しました。わたしのほうこそ、お目にかかるのを延期していただき、申し訳ありません」
「いや、私のほうこそ無理を言って呼び出してしまって……。だが、どうしても直接会って話がしたかったんだ。フェリシアのこと、そして君が大怪我を負った責任に関しても」
アルフォンスの低い声に、ユリウスは胸中で複雑な想いを抱く。自分がこうしてまでフェリシアを守った裏には、断罪を下したアルフォンスの判断ミスがあったのも事実だ。だが、この場で王太子を責め立てても前に進まない。
ユリウスは黙ったままソファの前で姿勢を正す。杖を傍らに立てかけ、痛みに耐えながらできる限りの礼を示した。
「殿下がわたしを呼ばれた理由は、やはりフェリシアのこと、そしてあの夜会の件ですよね。正直、わたしはまだ殿下をどう見るべきか定まっていません。あの断罪が、どれほどフェリシアを苦しめたか……」
「わかっている。君が怒りを抱くのは当然だし、フェリシアに対して取り返しのつかない傷を負わせたのは、私の浅慮だ。……でも、だからこそ償いたい。フェリシアが幸せになるために、私にできることをしたいと考えている」
アルフォンスの声音は沈みを帯び、ユリウスも思わず息を呑む。先日までの王太子ならば、こうして率直に「自分が間違っていた」と言う姿は想像できなかった。コーデリアの陰謀と、夜会での惨劇を経て、彼もまた変わったのだろう。
暫しの沈黙の後、ユリウスが言葉を選んで切り出す。
「フェリシアを幸せにするため……殿下は、何か具体的にお考えがあって、わたしを呼ばれたのでしょうか?」
「そうだ。――まず、君とフェリシアの関係だが、君は子爵家の出身で、彼女は公爵令嬢。貴族社会では、大きな壁がある。王太子との婚約まであった彼女が、今度は子爵家に嫁ぐなんて、周囲からの反発も少なくないだろう」
「承知しています。わたしも、フェリシアが公爵家である以上、相応の地位と実績がなければ両親や周囲に認めてもらいにくい。だからこそ、わたしは自分の力で努力を重ね、家の名を高めようと……」
「そこだよ。君が一人で奮闘しても、いずれ行き詰まるかもしれない。だから、私が支援する。王家として、君とフェリシアが結ばれる道を開くために必要な働きかけをしてみせる」
思いがけない提案に、ユリウスは驚きを隠せない。アルフォンスは、かつてフェリシアとの婚約を結んでいた王太子――言わばユリウスにとっては越えるべき存在と思っていた相手だ。しかし今や、その立場を捨て、彼らを後押ししたいと言う。
「殿下が、そこまで……。正直、驚きました。わたしは自力で公爵家にふさわしい男になろうと思っていましたが、王家の後ろ盾があれば、確かに話が変わります」
「無論、君がプライドを持っているのは承知の上だよ。だけど、君とフェリシアが強い意志で結ばれたいなら、周囲を納得させる手段は多いほうがいい。公爵夫妻をはじめ、保守的な貴族たちを動かすには、王家の影響力が有効なはずだからな」
アルフォンスは疲れたように小さく息を吐き、さらに続ける。
「それだけじゃない。……私自身、フェリシアを心から傷つけてしまったことに責任を感じている。君が命を懸けて彼女を守った勇気を、私は深く敬意を抱いている。だからこそ、私は君たちに幸せになってほしい。これは、私のわがままと言ってもいいかもしれない」
「殿下……」
「もし君が拒むなら、引き下がる。君が望む形で公爵家に認められる道を歩むのを、ただ見守るだけになる。だが、協力を受け入れてくれるなら、王家としてできる限りの力を貸そう」
その言葉を聞きながら、ユリウスは心の奥でさまざまな感情を噛みしめる。かつて、フェリシアを追い詰めたアルフォンスに対し抱いていた怒りや不信は、完全には消えないかもしれない。しかし、彼がここまで頭を下げ、自らの非を認めて協力を申し出るなら、利用しない手はない。フェリシアが幸せになるための道を広げられるならば、ユリウスにとっても悪い話ではない。
「わかりました、殿下。わたしもフェリシアのためにできることは何でもするつもりです。殿下が力を貸してくださるなら、どうかよろしくお願いします」
「……ありがとう、ユリウス・アッシュフォード。君と手を組むことで、私も王家の失墜した威信を取り戻す責務を果たせると思う。君が公爵家にふさわしい男になるためには、資金や政治的なバックアップも必要だろう。私が持つ権限の一部は、確かにそれを助けられるはずだ」
アルフォンスがゆっくりと腰を上げ、手を差し出す。ユリウスは杖を支えに立ち上がろうとし、痛みでわずかに表情を歪めるが、必死にこらえてその手を取った。
「フェリシアの名誉を回復してくれたこと、あの夜会での事件を謝罪してくれたこと――わたしは感謝します。わたしが刺されたのは、あくまでもコーデリアの暴走が原因。しかし、殿下も誤解を解くために動いてくださった」
「誤解を解くまでに時間がかかった。私がもっと早く気づいていれば、君もフェリシアも、ここまで苦しまなかっただろう。……本当に、済まなかった」
王太子の視線には、静かな悔恨の色が浮かんでいる。ユリウスはその姿を見て、少しだけ肩の力を緩める。そう簡単に許せるかどうかは別としても、この姿勢が偽りではないのだろうと感じた。
「わたしは、フェリシアを公爵家から笑顔で連れ出せるように頑張ります。殿下がその後押しをしてくださるなら、わたしも全力を尽くします。――彼女を幸せにするのは、わたしの生涯の誓いですから」
「うん。私も、今度こそは君を見守り、必要に応じて力を貸そう。君が公爵家へ嫁いでいくフェリシアの未来を照らしてくれれば、私も少しは罪滅ぼしになるだろう」
熱い握手の後、アルフォンスが小さく微笑む。その背後では侍従が気を利かせて距離を取り、周囲に余計な者は一人もいない。こうして、貴族社会の大きな波乱を引き起こした二人が、静かに和解を果たし、それぞれの責任を果たそうと決意したのだ。
アルフォンスが少し早足で扉へ向かいながら、「体を大事にな」と声をかける。ユリウスは杖を握り直して軽く頭を下げ、まだ痛む胸を押さえながら呼吸を整えた。
「では、また近いうちに連絡する。しばし休養を取ってくれ」
「はい。お気遣いありがとうございます。殿下も、お体にはお気をつけて」
王太子が部屋を出ると、扉は静かに閉められ、応接室にはユリウスだけが残された。ふと心の奥から込み上げる安堵感。先刻まで感じていたわだかまりは、完全には消えていないが、アルフォンスの本気に近い謝意と協力の申し出は確かに伝わった。
まだ傷は痛むし、公爵家の反対が消えたわけでもない。だが、ユリウスはこの一歩が大きな突破口になると感じていた。王太子の後ろ盾を得られれば、フェリシアとの身分差を懸念する人々を少なからず説得できる可能性が広がる。
そもそもフェリシアが公爵家で受ける重圧は相当なものだろう。ユリウスも子爵家の息子として社会に通じる知識はあるが、その段階を超えた高い壁が存在するのは十分理解している。それでも、王太子が加勢してくれるというなら、遠からずフェリシアを笑顔にできる日は来るかもしれない。
「フェリシア……王太子殿下と和解するなんて、考えてもみなかったが、これも運命かもしれない。君のためにも、俺はもう少し強くならないと」
ユリウスは思わず独り言を漏らす。息苦しさはあるが、心は軽やかだった。フェリシアを救うためなら、身体の痛みなど小さな障害にすぎない。
こうして、男同士の面会は穏やかな形で幕を下ろした。かつて王太子の婚約者だったフェリシアに向けられた感情は、今やユリウスとの幸せを願う形へと変わっている。アルフォンスも己の弱さを痛感し、それを克服すべく責任を果たそうと動き出した。
ユリウスは体の奥に広がる痛みをもう一度確かめ、強く唇を結ぶ。フェリシアとの未来を得るためには、今後もさまざまな試練が待ち構えている。だが、王太子の力を借りられるなら、公爵家や貴族社会の説得はより現実的になる。
部屋を出て行ったアルフォンスの背中を思い返しながら、ユリウスは目を伏せて微笑む。険しい道ではあるが、わずかに見え始めた光に向かって進む覚悟を改めて固めた。フェリシアが隣にいてくれるなら、どんな高い壁だって乗り越えられると信じられるからだ。
――こうして、王太子アルフォンスとユリウスの和解は大きな意味を持つ第一歩となった。かつてライバルのような立場だった二人は今や目指す場所を異にし、それぞれが責任を果たそうとしている。フェリシアという公爵令嬢を巡る困難はまだ続くが、少なくとも王宮の風向きは明るい兆しを見せ始めていた。
ユリウスは杖を支えにゆっくりと立ち上がり、背中を伸ばして痛みに耐える。これから先の展開を思うと、心が熱くなる。フェリシアとの幸せを勝ち取るために、そして周囲を納得させるためにも――今こそ男としての気概を示すときなのだ。




