第54話 使者
痛みこそ残っているが、ユリウス・アッシュフォードの体調は日に日に良くなっていた。長く感じられた王宮の傷病棟での療養も、そろそろ区切りをつけられそうだという。奇跡的な回復力と医師たちの尽力、そして何よりフェリシアの看護の賜物だと、ユリウス自身は感じていた。
その朝、ユリウスはベッド脇に置かれた杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。まだ胸には鈍い疼きが走るが、耐えられないほどではない。なにより自分の足で歩けるという事実が、いまは何よりの励みだった。
「――ここまで動けるようになるとは、思わなかったな」
小さくつぶやきながら、ユリウスは窓際へゆっくりと向かい、木枠を開け放つ。差し込む光はまぶしく、清々しい風が病室に吹き込んできた。大怪我からここまで回復できるとは、本人ですら驚きを隠せない。
軽く脇腹に手をあてる。あの夜会でコーデリアの短剣に貫かれたのが嘘のようだが、完治にはまだ時間がかかる。無茶はできない。――しかし、自らの意志でここまで歩けるという喜びは何物にも代えがたい。
すると、控えめなノックが扉の方で聞こえた。背を向けていたユリウスが振り返ると、入ってきたのはアッシュフォード子爵――ユリウスの父だった。
かつては、子爵は「無謀なふるまいをするな」「身の程をわきまえろ」と口を酸っぱくして言っていた。だが、今の子爵はどこか安堵と心配をないまぜにした表情で、息子の姿をじっと見つめている。
「ユリウス、調子はどうだ? もう自分の足で立てると聞いて、見に来たが……」
「父上……はい。おかげさまで、杖があれば短い距離なら歩けます。ご心配をおかけしました」
ユリウスが杖をつきながら頭を下げようとすると、子爵は慌てて制止の声をあげた。
「余計な無理をするな。せっかくここまで回復してきたのに、また倒れでもしたら困る。……まったく、何てことをしてくれたのだ。だが、こうして立っている姿を見られて、私は安堵しているよ」
「父上……あのときは、フェリシアを守る以外に考えが及ばず……」
「もういい。結果、お前は公爵令嬢を救った。それで深く慕われているんだろう? フェリシア・ローゼンハイムの名を聞かぬ日はないぞ。……無茶をしたにしては、得られたものも大きいかもしれん」
いつもとは違う、どこか拍子抜けした口調に、ユリウスは胸が温かくなった。父が自分の行為を認めてくれたなど、これまでなら考えられなかったことだ。杖をつきながら近くの椅子に腰を下ろすと、子爵も「失礼する」と言って距離を置いたまま続ける。
「公爵家との身分差を埋めるのは容易ではないぞ。だが、お前が命を懸けてやったことを考えれば、私も全否定はできん。これから先、周囲の声は厳しくなるだろうが、それでもフェリシア嬢を迎え入れたいのだな?」
「……もちろんです。俺にとって、彼女は命に代えてでも守りたい相手です。子爵家としての地位を引き上げるなり、俺自身が実績を積むなり……できることは全部やるつもりです」
「そうか。お前なりに覚悟があるというなら、私も手を貸そう。お前が子爵家を大きくして、公爵家と肩を並べるくらいになれば、誰も文句は言えまい。――そのためには、お前が無事でいないとな」
「はい。父上、ありがとうございます」
ユリウスは深く頭を下げる。子爵家との対立まではいかずとも、父が「身の程を弁えろ」と言うのは当然だった。しかし、こうして大怪我を負ってまでフェリシアを守り、なお揺るがぬ決意を示すユリウスに対して、子爵はついに折れたのだろう。
それがユリウスにとって、どれほど心強いか――傷の痛みをこらえながらも、彼は少し笑みを漏らしている。
そこへ、今度は外の廊下から別のノックが響いた。子爵が「入れ」と低く声をかけると、現れたのは王太子の侍従を名乗る男だった。丁寧な礼をとり、淡々と用件を告げる。
「ユリウス・アッシュフォード様でいらっしゃいますね? 殿下――アルフォンス・エーデルシュタイン様が、一度お話ししたいと仰っております。ご都合はいかがでしょうか」
「アルフォンス殿下が……、俺に?」
ユリウスは思わず息を詰まらせる。フェリシアが王太子との婚約破棄に至った経緯、コーデリアの陰謀。ユリウス自身は、その一連の事件であまり好意的に王太子を見られなかった。だが、コーデリアが失脚してからは、アルフォンスが自らの非を認め、フェリシアへの誤解を解いたとも聞く。
それでも、なぜ今、自分を呼ぶのか。侍従はユリウスの表情を伺いつつ、静かに言葉を継いだ。
「殿下は、ユリウス様の怪我が癒えないうちに無理をさせるつもりはないそうです。ただ、機会があれば、直接お会いしてお話を――とのこと。退院された折など、ご都合に合わせて馬車を用意いたします」
「そう……わかりました。まだ本調子ではありませんが、少し落ち着いたころにお伺いするのはかまいません。殿下に、そのようにお伝えください」
「かしこまりました。では、日取りについては追って連絡いたします」
侍従は深々と頭を下げて退出していく。その扉が閉まった後、ユリウスと子爵は顔を見合わせた。
「王太子殿下が、わざわざ呼び出すとはな。どういう腹づもりだと思う?」
「さあ……フェリシアのことを、今さら気にしているのかもしれませんし。あるいは、コーデリアの事件の責任を感じているのかもしれません。俺があの場で刺されたのも、ある意味、殿下の監視不足とも言えますからね」
「ふむ。殿下の内心はわからんが、もし好意的に出てくれるのなら、利用する手はある。公爵家だけでなく、王家からも理解を得られれば、お前の道がさらに広がるやもしれん」
「ええ。もとより、王太子殿下に恨みがあるわけではありません……。フェリシアを断罪した件には怒りも覚えましたが、コーデリアの陰謀が暴かれた今となっては、殿下も被害者と言えなくもないですし」
ユリウスは苦い顔で思い返す。アルフォンスへの不信感は簡単に拭えないが、フェリシアの未来を思えば王家との連携は無視できない。それに、アルフォンスが本当に己の非を悔いているのなら、和解への道もないわけではないだろう。
「お前が決めることだが、よほどのことがない限り、殿下の申し出は受けたほうがいい。公爵家と子爵家の差を超えるには、そういった上位のパイプも大きい。……まあ、まずはここを出て、体をしっかり整えてからだ」
「そうですね。まだ杖がなければしんどい状態ですが、早いとこ子爵家に戻りたい。父上にもいろいろご迷惑をかけて……」
「気にするな。お前はよくやったよ、ユリウス。――では、私はそろそろ失礼する。退院の準備については、医師と相談して日取りを決めるようにな」
「承知しました、父上」
子爵はひとつうなずいて部屋を出ていく。ドアが閉まると同時に、ユリウスは大きく息をつき、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。脇腹の痛みは鈍く続いているが、もうそれに振り回されるほどではない。
コーデリアの刃が深くえぐった傷は、フェリシアへの想いを形にするための代償だった――そう受け止めている。危うく命を落としかけたが、結果として自分を認めてくれる人が増え、フェリシアとの絆も揺るぎないものになったのは不思議な運命だと思う。
「これから先、たくさんやることがあるな……」
ユリウスは窓辺を見やりながらつぶやく。退院して子爵家へ戻れば、まずは休養を続けつつ、自分の今後の立ち位置を固める必要がある。公爵家に対して、フェリシアとの結婚を諦めていないことを示すには、具体的な地位や実績が必要だろう。それが先日の父の言葉にも現れていた。
さらに、王太子殿下の呼び出しにどう応じるか。いったいどんな話をするのか、まったく読めない。アルフォンスがフェリシアとの過去をどう整理しているのかも、ユリウスとしては気になるところだ。下手をすれば、フェリシアとの関係に横槍を入れられる可能性もある。
だが、立ち止まるわけにはいかない。ユリウスは杖をそっと握りしめる。ほんの少し前まで意識さえ危うかった自分が、いまこうして先の展望を考えられる幸運。その背後にはフェリシアの無償の愛があった。彼女がいてこそ、自分は新たな決意を燃やせる。
「フェリシア……絶対に君を幸せにする。そのためにも俺は、王太子とも公爵家とも、正面から向き合わなくては」
窓の外には鮮やかな空が広がり、遠くに王宮の白い塔が見える。そのどこかにアルフォンスがいるのかもしれない――と考えると、ユリウスは一瞬胸がざわつく。彼女を断罪し、傷つけた王太子だとしても、いまは協力してくれるかもしれない。
状況は目まぐるしく変化している。コーデリアの失脚は大きな転機をもたらし、フェリシアは公爵夫妻との話し合いを続けているらしい。一方で、子爵家の父は初めて「協力する」と明言してくれた。今まで遠い夢だった公爵令嬢との未来も、意外と手の届くところにあるかもしれない。
「まだ焦りは禁物か。でも、一歩ずつ前へ進まなくてはな」
ユリウスは小さく微笑む。先の見えない不安よりも、フェリシアという存在が与えてくれる希望のほうが、いまはずっと大きい。体が完全に癒えるまで時間はかかるが、その間にできることは山ほどあるはずだ。
視線を移すと、部屋にはもうフェリシアの姿はない。朝早いうちに見舞いに来てくれたのだが、用事があるとかで一度出ていった。彼女が戻ってきたら、今度は王太子殿下の呼び出しについて相談しなければいけない。
痛む身体をほんの少し動かしながら、ユリウスはベッドの端に腰を下ろして、外の風を満喫する。傷病棟で過ごす時間もあとわずか。子爵家へ帰り、そこからはフェリシアを迎えるための本格的な準備が始まる。王太子の動向も無関係ではいられない。前途は多難だが、それは彼が本当に望んだ道だった。
「準備をするにも、まずは体力を回復させなきゃ……。焦っては駄目だ。けど、やる気は失わない」
ユリウスはそう自分に言い聞かせると、わずかに肩を回し、胸の痛みを意識的に確認する。鈍い痛みはあるが、表情を歪めるほどではない。もう少しで杖なしでも歩けるようになるかもしれない。
彼の頭の中には「公爵家の壁」「王太子殿下の狙い」「子爵家としての発展」――さまざまなキーワードが巡る。しかし、そのすべてがフェリシアとの未来へと繋がっているのだ。
重い扉の向こうで動く運命を感じながら、ユリウスはもう一度、青い空へと視線を投げかける。かつては届かないと思っていた公爵令嬢という存在が、いまや手を伸ばせば繋がれる場所にいる。彼女と心を交わした瞬間から、すべてが変わった。
今度こそ、堂々と彼女の隣に立てる男になる。そのために、命がけの決断を重ねてもかまわない。――そう、ユリウスの眼差しは揺るぎない意志に満ちていた。
こうして、傷病棟での最後の日々を過ごしながら、ユリウスは子爵家へ戻る準備を整えていく。父子爵も協力を申し出てくれた。王太子からの使者という新たな展開も、フェリシアとの未来を切り開く好機になるかもしれない。
まだ痛みに耐えねばならない体をいたわりつつ、しかしユリウスの心は燃え上がる決意で満ちている。フェリシアが待っているのだ――そう思えば、不可能はない。彼はそっと胸の奥でそう誓い、訪れる次の試練へと向けて、前を向いて歩き始めるのだった。




