第53話 二人の決意
父様と母様――レオポルド公爵とエレオノーラ夫人――との話し合いを終え、わたしは王宮の傷病棟へ急ぎ足で向かった。廊下を進む足取りは、どこかぎこちない。彼らが完全にわたしの思いを否定したわけではないけれど、「今は認められない」という事実に変わりはないからだ。
それでも、わずかな望みは残されている。公爵家の娘として生まれた以上、容易に身分差を飛び越えるのは難しいとわかっている。それでもユリウスと共に生きたいという思いは、もう揺るぎようがない。わたしはそのかすかな光を胸に抱きながら、ユリウスの病室の扉をそっと開いた。
「……ユリウス、今いいかしら?」
声をかけると、まだベッドに横になったままのユリウスが、こちらへゆっくり視線を向ける。表情からは大きな痛みこそ見えなくなったものの、身体を動かすのはまだ辛そうだ。それでも、意識が戻ってからは驚くほど穏やかな顔つきをしている。
わたしが扉を閉めて椅子に腰を下ろすと、彼が弱々しく微笑んでみせる。その笑顔を見るだけで、心の奥にあった不安が少しだけ和らいだ。
「どうだった……公爵様たちと、話してきたんだろう?」
「ええ……実は……」
問いかけるユリウスに、わたしはすぐ答えられず、視線を落とす。両手をぎゅっと握りしめ、自分の中で言葉をまとめようとする。けれど、上手く出てこない。そんなわたしの様子を見て、ユリウスはそっと手を伸ばし、やんわりとわたしの手を包んでくれる。まだ負傷した腕には痛みがあるはずなのに、励ますように優しく触れてくれるのが切ない。
「フェリシア……正直に言ってくれていい。何があったって、俺は受け止めるから」
「……ありがとう。――実は、父様も母様も『今はまだ認められない』って。わたしがいくら訴えても、公爵家の責務が大きいことは覆らないって言われたの……」
言葉を吐き出すたび、胸が苦しくなる。公爵家が積み上げてきた格式や政治的な力、周囲の目――どれも簡単に取り払えるものではない。だからこそ、父様たちは「娘の幸せを第一に」と願いつつも、軽々に賛成はできないのだ。
ユリウスはその報告を聞いて、瞳を伏せる。案の定、簡単には受け入れてもらえなかった。だけど、彼の次の言葉は妙に落ち着いていた。
「そう……やっぱり難しいんだな。でも、聞かせてくれてありがとう。フェリシア」
「ユリウス……あなたは、わたしの両親に反対されるなんて、やっぱり嫌じゃないの? 本当に、ごめんなさい……」
わたしは思わず声を詰まらせる。彼が苦しんでいる姿を見たくないし、さらに親からの圧力がのしかかるなんて、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。でもユリウスは首を振り、少しだけ笑ってみせる。
「嫌に決まってるさ。だけど、最初から分かっていたことだろ? 公爵家と子爵家の結婚なんて、そうそう簡単に受け入れられるはずがない。俺も覚悟していたんだ」
「でも……あなたがまた無理をして、傷を悪化させるようなことがあったら……わたし……」
あの夜会での光景が脳裏をよぎる。ユリウスがわたしを庇って刺されたときの衝撃。もう二度と、彼が命を危険に晒すような事態はあってほしくない。その思いが強まれば強まるほど、この先の険しい道が不安に思えてしまう。
けれど、ユリウスはその不安を断ち切るような決意に満ちた眼差しを向けてきた。
「大丈夫。俺は無茶はしない。だけど、必ず公爵家にふさわしい男になるって決めたんだ。子爵家のままじゃ君と並ぶにも勇気がいるだろう? だから、しっかり体を治して、それから家の地位を上げるなり実績を積むなり、やれるだけやってみる」
「……本当に、あなたは強いわね。わたし、あなたに怪我なんかしてほしくないのに……」
「ありがとう。でも、危ないことはもうしないよ。怪我を克服して、名実ともにフェリシアと釣り合う立場になりたいだけだから。焦るつもりはないし、君にも心配かけたくない」
そう宣言する彼の姿は、まだベッドに横たわったままでありながら、確固たる誇りに満ちている。コーデリアの狂気によって受けた深い傷を抱えながらも、この先に待つ貴族社会の壁へ挑むつもりなのだ。わたしはその決意に、少し胸が熱くなる。
「わたしも……あきらめない。父様と母様は、完全に拒絶したわけじゃないの。どれだけ時間がかかってもいいから、わたしたちの意志を見守ると言ってくれた。可能性はあるって思いたい」
「うん。そうだね。フェリシアがそう言うなら、俺も頑張れる。最初からすんなりいくなんて思ってないさ。むしろ、少しでもチャンスがあるなら十分だろ?」
「ええ……そうだわね。わたしとあなたが一緒に行動すれば、道は切り開けるはず。あなたが全快するまでに、わたしだってできることを考えてみる」
わたしはそのままユリウスの手を握り、ベッドの傍に身を寄せる。怪我人に負担をかけないよう気を使うが、どうしても彼の温もりを感じたい。こんなに大きな決意をしてくれているのだから、わたしも寄り添わずにはいられない。
「フェリシア、今まで辛かったろう? 王太子との婚約破棄もあって、家の期待もあって……それでも必死に乗り越えてきたんだな」
「わたしを救ってくれたのは、ユリウスあなたよ。コーデリアの陰謀からも、孤独からも。だからわたし、もう決めたの。貴族社会の常識に負けたりしない。あなたとなら、絶対に大丈夫」
「そう言ってもらえると嬉しい。俺はフェリシアが笑ってくれるのが何より大事だから、ずっと隣でその笑顔を守りたい」
彼の手のひらの暖かさに、わたしは素直に目を潤ませる。両親からの反対という大きな障害を告げるのはとても辛かったし、その事実でユリウスを傷つけるのではないかと不安だった。けれど、こうして彼は前を向いている。むしろ、ますます意欲を燃やしているようにすら感じる。
「本当、あなたって強情なのね。傷ついても諦めないんだから」
「はは、そうかも。君に見捨てられないためなら、俺は粘り強くなれるよ。……でも、まずは回復が先決だから、しばらくはお世話になります」
「何度でも世話してあげる。わたし、看護師さんよりは不慣れだけど、あなたを愛する気持ちなら誰にも負けないんだから」
冗談めいた言葉を交わしながら、二人とも自然に笑い合う。そこにはかつての暗い影が嘘のように感じられた。もちろん、これで問題が解決したわけではない。公爵夫妻をはじめ、貴族たちは厳しい視線でこの関係を見ているだろう。それでも、わたしたちには互いを信じる心がある。
病室の窓から差し込む光がシーツを白く照らし、ユリウスの横顔にも柔らかな明かりが当たる。かつての血みどろの惨劇を思うと、今こうして彼が息をして笑ってくれるだけで、わたしは胸がいっぱいになる。
「そういえば父様と母様、あなたに『無理せず早く治せ』って伝えてほしいって。言葉どおりかはわからないけれど、心配してくれてるのよ」
「それはありがたいな。公爵様と夫人には迷惑ばかりかけてるから……いつか恩返ししないと」
「恩返しか……。じゃあ、わたしがあなたと結ばれて笑っている姿を見せるのが、一番の恩返しかもね」
「そうだね。きっとお二人も、そんな君の笑顔を見たら、何も言えなくなるんじゃないかな」
わたしは控えめにうなずく。さっきまで抱えていた重荷が、ユリウスの言葉によって少しずつ解かされていくのを感じる。自分ひとりで苦しんでいたときとは違い、今は分かち合える相手がいるからだ。
まだこの先には試練が待っている。貴族社会のルールは根深いし、わたしの家族が心底納得するには多くの時間と条件が必要だろう。けれど、ここで挫けてはいられない。
「ユリウス、わたしたち……きっと乗り越えられるよね?」
「乗り越えるさ。君がいて、俺も本気を出して、二人ならどんな壁でも絶対に崩せる。信じているよ」
「……わたしも信じてるわ。あなたを、そしてわたしたちを」
そっと二人は見つめ合う。わたしはユリウスの体を傷つけないように注意しながら、彼の手の甲に自分の頬を当てる。わずかに残る体温は、まだ完全には戻っていない。でも、これから何度でも取り戻すことができるはずだ。
扉の外では看護師の気配を感じるが、遠慮して入ってこないようだ。きっと、わたしたちの大切な時間を気遣ってくれているのだろう。この優しい静寂の中で、わたしたちは再び指を絡ませ、ささやかな確信を深め合う。
「わたし、あなたとなら何があっても大丈夫。両親が反対しても、貴族たちが噂しても、きっと負けない。コーデリアのときと同じように、わたしたちはピンチを乗り越えてみせたんだから」
「うん。本当にあのときは死にそうだったけど……君がいてくれたから生きる力が湧いた。今度はもっと大きな壁に挑む番だね。でも、同じことさ。二人で進めば、乗り越えられる」
「……ええ。二人でね」
フェリシア・ローゼンハイムとして、そしてユリウス・アッシュフォードとして。わたしたちは別々の家柄に生まれながらも、同じ想いを共有している。きっとこの絆は、一度や二度の困難では断ち切れない。
窓の外を見ると、夏の太陽が高く昇り始めていた。かつての夜会の暗雲など嘘のように晴れやかな光景が広がる。反対された現実がある中でも、こうしてわたしたちの心は繋がっているのだと思うと、胸の奥が温かくなっていく。
「わたし……父様や母様にまた話すわ。あなたが回復して、二人でちゃんと行動するって。少しずつだけど、きっと理解を得られるように頑張る」
「ありがとう。俺のほうも、傷が癒えたらすぐに動き出すよ。何より、君と共に歩くために」
「うん。お互いに焦らず、でも着実にね」
そう言い合って微笑むと、わずかな緊張が解けたかのようにお互いの笑顔がこぼれる。看護師が扉をノックする音がして、そろそろ処置の時間が近いことを伝えてきた。わたしは「失礼します」と声がかかる前に、小さくユリウスの手を握り締める。
人目を気にしながらも、その握手には「一緒にがんばろう」という強い意思が宿っていた。両親の反対はまだ続きそうだし、貴族社会を動かすには長い時間がかかるだろう。それでも、今のわたしたちの心は少しの迷いもない。
「ユリウス、わたし……絶対にあなたをあきらめない。たとえ、どれほど公爵家のしがらみが厄介でも」
「俺もだ。フェリシア、君は公爵令嬢で……俺は子爵家の人間だけれど、そういう差を越えて一緒になる。そのためにここまで生きてきたって思えるくらいだよ」
病室の扉が開き、看護師が入ってきた。その場の空気を読んだのか、彼女は微笑みながら軽く会釈をし、処置の準備を始める。わたしは立ち上がりかけたが、ユリウスがもう一度わたしの指を引き寄せた。
「また来てくれるよね、フェリシア?」
「ええ、もちろん。毎日来るわよ。あなたを放っておくなんてできないもの」
「ありがとう……じゃあ、待ってる。無茶しないでね」
「あなたもね」
優しい表情を交わして、わたしは看護師の邪魔にならないよう身を引く。短い時間だったけれど、二人の間にはしっかりと結束が芽生えていることを再確認できた。
これからまだ山ほどの困難がある。公爵家の反対は続き、子爵家としての立場もなかなか向上しないかもしれない。それでも、わたしたちは歩みを止めるつもりはない。
そう心に誓いながら病室を出ると、まばゆい日差しが廊下に差し込んでいた。まるで「がんばれ」と背中を押すように感じられて、わたしはほんの少しだけ微笑む。愛する人と共にあるためなら、どんな壁でも乗り越えられるはず。そう信じて、わたしは今日も前を向いて歩き出すのだった。




