第52話 家の責務
朝の柔らかな陽光が、わたしの家――ローゼンハイム公爵邸の書斎を照らしている。壁にはいくつもの美術品と、ぎっしりと並んだ書物。かつては王太子殿下の妃となるべく勉学に励むため、わたしが度々足を運んだ場所だ。
しかし、今日わたしがここに来ている理由はまったく違う。硬い空気を孕んだこの室内で、父様――レオポルド公爵と、母様――エレオノーラ公爵夫人が待ち受けていた。机越しにわたしを見つめる二人の表情はひどく厳粛で、それでいてどこか苦しげでもある。
「……それで、改めて話があると言ったが、フェリシア。聞かせてもらおうか」
父様がそう切り出す。その声に、わたしは緊張で喉を震わせた。けれど、もう後には引けない。ドレスの裾をぎゅっと握りしめて、腹に力を込める。
「父様、母様……。わたくし、ユリウス・アッシュフォードとの婚約を望みます。正式にそう申し上げたくて、ここに参りました」
意を決して放った言葉に、父様と母様はほぼ同時に息を呑んだ。父様は椅子の背にもたれながら渋い顔をして、すぐに厳しい口調で返してくる。
「やはり、その話か。フェリシア……。子爵家のアッシュフォード家と婚約するということの意味は、わかっているのだろうな。公爵家がそれを認めるのは、並大抵のことではない。家の将来をどう考える?」
「わかっています。……わたしは、王太子との婚約破棄のあと、どれほど家の責務を果たせるか必死に考えました。でも、コーデリアの陰謀や夜会の混乱、そしてユリウスが命を張ってわたしを守ってくれたことで……。結局、家のためだけに生きるのではなく、わたし自身の幸せを追わなければ何も意味がないと痛感したんです」
頭の中には、あの血に染まった夜会の光景が浮かぶ。刺され倒れたユリウスを抱きしめながら、わたしは「彼さえ生きていてくれればほかは要らない」と心から叫んでいた。あれが、わたしにとっての真実なのだ。
「フェリシア……」
母様がかすかに震えた声でわたしの名を呼ぶ。エレオノーラ夫人として貴族の務めをわきまえながらも、一人の母としてわたしを気遣う、そのはざまで苦しんでいるのだろう。
わたしはまっすぐ母様を見返して、言葉を継ぐ。
「わたしは公爵令嬢という立場を放り出すつもりはありません。家の責務が大きいこともわかっています。でも……。ユリウスを失いかけたあのとき、『家のためだけ』に生きていたらわたしは後悔して一生泣いていた。だから、自分の幸せを選びたいんです。ユリウスと共に……」
「だが、フェリシア……。公爵家の婚姻は政治的にも重要だ。先の婚約破棄で、我がローゼンハイム公爵家が王室との縁を失ったのは痛手だというのに……子爵家と結ぶとなれば、周囲からどう見られるか」
父様が厳しいまなざしを向けるが、そこに愛娘を案じる感情がないわけではない。わたしは大きく息を吐き、声を震わせながらも、しっかり言い返す。
「家の利益を重視するのは当然です。でも、そのせいでわたしが生贄のように人生を捧げるのは、もう嫌なんです。王太子との婚約だって、わたしはあれだけ努力して……結果は破棄。あのとき、誰がわたしを救ってくれたと思います? ユリウスです。彼がいなければ、わたしはコーデリアの策謀に押しつぶされていた」
「フェリシア……あなたがそこまで……」
母様がわたしを見つめながら、そっと嘆息する。父様は言葉を失っているが、顔つきからは単純に否定するわけにもいかないという戸惑いが伝わってくる。
ほんのひとときの沈黙が流れ、その重さに胸が苦しくなる。けれど、もう一歩踏み込まないといけないと思い、わたしは続けた。
「ユリウスは、子爵家だからこそ公爵家には釣り合わないと痛感しています。でも、彼は必ずそれを超えてみせると言ってくれています。家督や爵位を上げる努力だって惜しまないと……。わたしもそこに協力したい。時間はかかるかもしれないけれど、それをわたしは信じて待ちます」
「努力、か……。なかなか容易ではないぞ。周囲の貴族たちは手厳しい。子爵家が公爵家と並ぶというのは夢物語に近い。娘よ……。本当に、そこまでして彼を選ぶのか?」
父様の問いかけに、わたしは強くうなずく。
「はい。王太子との道が閉ざされ、コーデリアの謀略で苦しんだわたしを……命懸けで守ってくれたのはユリウスです。もう、わたしの意思は揺らぎません。たとえ公爵家の周囲が反対しても、いつか父様と母様が心から賛成してくれる日を目指します」
「フェリシア……そこまで言うのね」
母様の瞳がうっすらと潤む。わたしは自分の手を合わせるようにして、もう一度深く頭を下げた。
「認めてください、とは言いません。でも、今すぐ拒否だけはしないでほしいの。わたしたちが努力する余地を……わずかでいいから残してほしいんです」
その言葉に、父様は苦しげに唸りながら、机の上で組んでいた腕をほどいた。そして、わたしをまっすぐ見据えてゆっくりと声を出す。
「私も、公爵家の当主として、娘の幸せを無下にしたいわけではない。……ユリウス・アッシュフォードという青年が、ここまでお前を想っているのも事実だ。コーデリア事件での彼の行動も評価せざるを得ん。今は彼が怪我を負っているが、彼自身の決意を見守る価値はあるかもしれない」
「父様……!」
「だが、軽々しく『賛成』と叫ぶわけにもいかない。公爵家としての顔もある。あの青年がどこまで本気で、この格差を覆す道を探せるか……そして、お前がそれを支えられるか。見届けさせてもらうぞ」
充分すぎるほどの前進だった。わたしは驚きのあまり息を詰まらせ、すぐに安堵の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます! わたし……必ずやり遂げます。ユリウスと一緒に頑張って、いつか胸を張ってここへ戻ってきます」
「簡単じゃないわよ、フェリシア」
母様がわずかに微笑みながら、わたしの手をそっと包んだ。まだ不安や課題は山積みだが、こうして少なくとも「娘の意志」を尊重してくれる姿勢を見せてくれたことが嬉しかった。
「母様、ありがとうございます。今はただ、わたしがこの道を進むと決めたことを見守ってください。……もちろん、公爵家の名誉にも泥を塗るような真似はしません」
「……そこまで言われたら、私たちも突き放せないわ。あなたが幸せをつかむなら、私たちも喜びたい。でも、その代わり、気持ちだけでどうにかなるほど簡単な話じゃないのよ。そこは覚悟してちょうだいね」
「はい。承知しています」
わたしは強くうなずく。父様も隣で深く息を吐き、やや苦笑気味に首を横に振った。
「まったく……以前の冷徹なフェリシアはどこへ行ったのやら。だが、それくらいのほうが頼もしいと言えるかもしれん」
その言葉に、わたしも思わず笑みがこぼれた。かつては「公爵令嬢として完璧にふるまう」ことばかりに意識を向け、感情を抑え込んで生きていたのだ。それが今では、こんなに心の内をさらけ出せるようになるなんて。
「ありがとうございます、父様。――わたし、もう迷いません。すべての難題を乗り越えて、ユリウスの隣に堂々と立ってみせます」
「ふん……期待しているぞ。あの青年にも『早く怪我を治せ』と伝えておけ。公爵家の娘を迎えるなら、いつまでも寝てはいられんからな」
父様らしい言葉にわたしはくすっと笑いそうになるが、こらえながら「はい」と返事をした。母様はどこかホッとした表情で、今度は椅子から立ち上がる。
「では、フェリシア。わたしたちもすぐに出かける用事があるから、ここで失礼するわね。あなたも無理をしないように」
「ええ、母様。本当に……ありがとう」
両親が書斎を出ていく背中を見送ると、わたしは大きく息をついて、ドレスの裾を握ったまま肩を落とす。プレッシャーが相当あったせいで、ようやく解放された気分だ。
「フェリシア様、お疲れさまでした。お話、うまくいったようですね」
控えていた侍女のハンナが声をかけてくる。その笑顔に、わたしは自然と頬を緩めた。
「まだ『賛成』でも『結婚を認める』でもないけれど、ひとまず見守ってくれるみたい。父様と母様が、わたしを拒絶しなかっただけでも大きいわ」
「はい……それだけでもすごいことですよ。公爵令嬢が子爵家へ嫁ぐなんて、本当に前例が少ないでしょうから」
「そうね。でも、わたしは諦めない。ユリウスにこのことを伝えなくちゃ。喜んでくれるかしら……ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。ユリウスの傷の具合がどうか、そしてわたしの両親との話し合いの進展がどうか――お互いに気になっていたはずだ。彼が今も王宮の傷病棟で回復に努めている姿を想像すると、早く会いたくてたまらなくなる。
わたしはハンナに軽く目で合図をして、書斎を後にする。そこから王宮まではさほど遠くないし、わたしはできるだけ早くユリウスに報告して、喜びや不安を共有したかった。
「家の責務と自分の幸せ……両方大切にしてもいい、よね。そう教えてくれたのはユリウスなんだから」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、わたしは早足で廊下を進む。まだ先は長いし、周囲の目も厳しい。けれど、両親という最大の障壁の一部が、わたしに「可能性」を残してくれたのだ。
ユリウスと力を合わせれば、きっとこの大きな壁だって乗り越えてみせる。かつてのわたしとは違う。もう「王太子の婚約者」という肩書きはないけれど、得たものはもっと大きい――彼への真っ直ぐな愛と、絶対に諦めないという意志。
廊下の大きな窓から射し込む光がやけにまぶしく感じる。あの暗く閉ざされた夜会の惨劇から、ずいぶん遠くへ来られたような気がして、胸がじんわり温かくなるのを感じた。
「ユリウス……わたし、今すぐあなたに会いたい。父様と母様が、可能性を見守ってくれると言ってくれたの。まだ道のりは長いけれど、きっと二人なら進めるわ」
書斎から吹き抜ける風が、少しだけ背中を押してくれるように感じられた。心なしか足取りも軽くなり、わたしは次第に走り出しそうになる。それほどまでに、伝えたい気持ちがあるし、共有したい喜びがある。
わたしの人生は、ようやく自分で選ぶ道へと動き出した。王太子妃としての道が閉ざされても、まだ大切な幸せがここにある。それをつかむためなら、どんな困難だって乗り越えられる――そう確信しながら、わたしは王宮へ向かう馬車に乗り込むのだった。




