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第5話 回想

 思い返せば――わたしがまだ十にも満たない頃、日々は常に「王太子殿下の許嫁(いいなずけ)として相応しくあるため」の修行の連続だった。


 分厚い礼法の書、難解な学問の書物、貴族としての振る舞いを叩き込む家庭教師の指導。そして何より、父の厳格な眼差し。幼いわたしは、そのすべてにひたすら応えようと必死だった。


「フェリシア。きょうはこの礼法書を暗誦(あんしょう)するのだ。すべてを頭に入れろ」


 父――レオポルド・ローゼンハイム公爵は、いつも堅い口調で命じる。小さな頃のわたしは、言われるがままに「はい、お父様」と答えるしかなかった。分厚くて難しい言葉が詰まった本を覚えきるなんて、本当はとても無理。けれど、「公爵令嬢」という立場と、「王太子殿下の許嫁」になる運命を背負う以上、弱音など許されないという空気がそこにはあった。


「もっと背筋を伸ばして読みなさい。王太子妃になる者が、そのような姿勢でどうする!」


 背中に重みを感じるほど厳しい叱咤。その声を耳にするたび、わたしの幼い心は縮み上がった。でも、それでも頑張らなくちゃいけない――そんな一心で小さな手を机に添え、礼法書のページを一枚ずつめくっていた。ペンを握る手はすぐに痛くなる。まだ指も細く、筆圧をかけるのがやっとの状態で、手首がビリビリと痺れてくる。けれど、それでも書き写し、暗誦(あんしょう)し、覚えられる限りを詰め込んだ。


「フェリシア様、無理はしないでくださいね。まだこれから先、長い道のりが待っていますもの」


 そっと声をかけてくれたのは、わたしの家庭教師だった女性。唯一の味方と言ってもいい存在で、父の厳しすぎる視線をやわらげてくれるクッションのような人だった。彼女の優しい声がなかったら、わたしはもっと早くに挫けていたかもしれない。


「はい。……わたくし、がんばります」


 幼いわたしは、泣きそうになる自分をこらえながらも小さくうなずく。覚えなければいけない文章は山のようにあるし、「王太子妃」になるという言葉だけが先行していて、正直、何が何だかわからなかった。でも、それが「公爵令嬢としての義務」だと言われれば、理解できずとも進むしかない。


 そんな日々が続いていたある夜。わたしは礼法書を閉じて書斎を出たあと、遅い時間にも関わらず廊下に人の気配を感じた。父が大勢の書類を手にして立っていたのだ。


「フェリシア……まだ起きていたのか」

「お父様も……こんなに遅くまでお仕事を?」


 照明の明かりが父の疲れた横顔を照らしていた。わたしは、その姿に少し胸を打たれた。公爵家の当主として、父もまた多くの重圧を抱え、それを当然のごとく背負っている。お互いに苦労している――そう思うと、厳しい指導すら納得せざるを得なかった。


「お前は王太子妃になるのだ。中途半端は許されん。もっと努力しなさい」


 短い言葉。けれどわたしにとっては十分すぎるほど厳しい宣告だった。幼いながら「頑張らなきゃ、頑張らなきゃ」と自分を追い詰めるだけの日々。その原動力は、いつか国を支える大きな役目を果たすのだという、漠然とした使命感だった。


 そんなわたしの生活がさらに変わったのは、はじめて王太子殿下――アルフォンス様とお会いしたときのこと。父に連れられて王宮を訪れたわたしは、大理石の廊下やきらびやかな内装にすっかり気圧されていた。


 そして部屋に通され、初めて言葉を交わした少年が、アルフォンス様。そのときの彼は、まだわたしより少し背が高い程度で、今よりずっとあどけなさが残っていた。それでもすでに王家の血筋を感じさせる威厳を漂わせていて、幼いわたしは敬愛と畏怖の念を同時に抱いた。


「はじめまして。公爵家のフェリシアと申します……」


 慣れない宮廷式の挨拶をどうにかこなしながら、心臓がもうドキドキだった。けれどアルフォンス様は子どもらしい微笑を浮かべ、さらりと言葉を返してくれた。


「フェリシア……君のことは父上からも聞いている。とても優秀なんだって?」

「い、いえ。まだまだ至らないところばかりです……」


 わたしは縮こまるように答えた。優秀だなんてとんでもない。いつも父から「まだまだ」と叱られる毎日なのだから。


 しかし、アルフォンス様はそんなわたしの態度を面白がるように、ふっと笑みをこぼす。どこか柔らかく、温かい光を宿したその笑顔に、わたしは一瞬見とれてしまった。


「君は王太子妃になる子だろう? なら、お互いに勉強しないとね。僕も、まだまだ学ばなくちゃいけないことがいっぱいある。……一緒にがんばろう」


 その言葉が、わたしの胸に強く響いた。「王太子妃になる」という言葉は、父から何度も聞かされていたけれど、実際に本人からそれを肯定され、励ましのように言われたのは初めてだった。恥ずかしいくらい心が浮き立ち、「わたくし、頑張ります」と何度も胸の中で唱えたものだ。


 あの日以来、「将来はアルフォンス様の傍らに立つ」という意識が、幼いわたしの中に確固たる目標として根付いた。親の言いつけだからではなく、「わたし自身の意志」として未来を見据えるようになったのだ。


 だからこそ、もっと礼法を身につけよう、舞踏を完璧に踊れるようになろう、学問だって負けないようにしよう――そんな風に、前向きな気持ちで努力を重ねていけた。たとえ眠気で目が開かなくなっても、ペンを握る手が痛くても、いつか殿下の役に立ちたい一心で耐えられたのだ。


 夜遅くまで書斎の机にかじりつき、時々は涙がこぼれそうになる。でも、「王太子殿下がわたしに笑いかけてくれたあの光景」を思い出すと、不思議と力が湧いた。父の叱咤(しった)がわたしを追い込み、家庭教師の優しさがわたしを支えてくれる。そうして、小さな体が砕けそうになりながらも、諦めずに歩み続けた幼少期……。


 ――それなのに、今、現実はあのころとはまるで違う。王太子妃としての未来は閉ざされ、殿下はわたしをあろうことか「不正を働いた裏切り者」と糾弾した。あの柔らかな微笑を浮かべていたアルフォンス様は、まるで別人のようにわたしを冷酷に切り捨てたのだ。


(いつから、こんなふうに……)


 胸が(きし)むように痛む。けれど、この痛みこそが、幼いころから積み上げてきたわたしの人生の証でもあると思いたかった。あのころのわたしが流した汗と涙、それを踏みにじられたままで終わるわけにはいかない。


 鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。顔色は悪いし、疲労感が漂っている。でも、この姿を見て弱気になっている場合じゃない。だって、わたしは公爵家に生まれ、「王太子妃になる」ために努力を重ねてきたのだから。


(わたしはあの日から、一度だって自分の選んだ道を後悔していない。だから、簡単には諦めない)


 幼いわたしが夜な夜な礼法書を抱えていた姿。アルフォンス様がかけてくれた優しい言葉。両方を胸に抱きしめながら、今度こそ自分の潔白を証明し、真実を見つけ出してみせる。そう誓わずにはいられなかった。


 小さな体で必死に耐えていたあのころのわたし。泣きそうでも決して弱音を吐かなかった自分。まさに今のわたしは、そのときの決意が試されているのだろう。ならば、逃げるわけにはいかない――決して。


「……わたしが積み上げてきたものは、本物。あのころの努力を否定させたりしない。絶対に、負けないわ」


 力ない声で、しかし決意を込めてつぶやく。夜の深い沈黙がわたしを包み込むなか、幼少期の健気さと今の悔しさが入り交じる。けれどわたしは、しっかりと視線を上げた。


 王太子との淡い憧れが、いま大きな試練へと変貌してしまった。だけど、これまでの努力を裏切ることだけはしたくない。その思いが、わたしの背筋をピンと伸ばしてくれる――幼いころと同じように。

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