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断罪された公爵令嬢ですが、幼馴染の彼と幸せになってもよろしいですか?  作者: ぱる子


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第49話 夜明け前

 夜明け前の王宮傷病棟は、まるで深い湖の底にいるかのような静けさだった。澄んだようでいて重たい沈黙が空気を満たし、まばらに置かれた灯火がかすかに廊下を照らしている。わたしはその静寂のなか、ユリウスのベッド脇でかがみ込むようにして座っていた。椅子の硬さが骨に染みるけれど、そんなことを気にする余裕はまったくなかった。


 彼が刺されてから何日経ったのかしら。あれほど壮麗だった夜会の喧騒はすでに幻のように遠のき、わたしの日常はこの傷病棟の一室へとすべてが収斂(しゅうれん)している。ユリウスの上半身に巻かれた大きな包帯、止血や痛み止めのために並んだ器具、時折医師や看護師が交換する薬品のきつい匂い――。すべてが生々しく、彼が今も「生きるか死ぬか」の境界にいることを思い知らせる。


 医師からは「峠は越えたかもしれないが、意識の戻る保証はまだない」と告げられていた。脇腹を深く刺されたのだから、奇跡的に命を取り留めただけでも幸運だと。けれど、わたしはその言葉に少しも希望を見いだせなかった。呼吸はあるのに、あれほど口数の多かったユリウスが動かず、声を発さず、暗い眠りの中に閉じ込められている事実が、何よりも悲しく恐ろしかったから。


「……ユリウス、お願い……。返事をしてちょうだい……」


 声に出しても、まったく反応はない。わたしは彼の指を握りしめ、その温度を確かめるように指先を何度も何度も撫でた。かつてはほんのちょっと触れ合っただけでドキドキしてしまったのに、今はそんなときめきどころではない。ただ、ここに確かに彼がいること――その証を自分の体温で感じたい。


 この数日、ほとんど眠れていない。わたしが席を外すのは、どうしようもない用事や身支度を数分整えるときだけ。食事もとれないわけではないけれど、味わう余裕はなく、ほとんど無理やり口に押し込んでいるだけ。見るに見かねた医師や看護師、侍女のハンナまでもが「少しは休まれては」とすすめてくれるけれど、わたしはどうしてもベッドサイドを離れられなかった。


「フェリシア様、目が真っ赤です。少しだけでもベッドをお離れになって……」


 夜勤の看護師が、いつもと同じように優しく声をかけてきた。けれど、わたしは首を小さく振ってみせるだけ。張り詰めた心が切れてしまわないよう、かろうじて繋ぎ止めている状態なのだ。


「結構です……。もう少し、ここにいさせて……彼が目を覚ますまでは、離れたくないの」


 その小さなつぶやきのあと、わたしの腕をそっと支えていた看護師は申し訳なさそうに引き下がった。よほどわたしの疲弊した姿に胸を痛めているのだろうけれど、強引に追い出す権限もないのだろう。本来なら公爵令嬢がするような行動ではないとわかっていても、今のわたしにはそんな身分の意識などどうでもいい。唯一の望みは、ユリウスが息を吹き返してくれることだけ。


「……ユリウス……」


 彼の名前を何度呼んだか、もう数えきれない。しゃがれた声が出るたびに、自分の喉が痛むのを感じる。それでも、呼ばずにはいられない。そうしなければ、彼が本当にどこか遠くへ行ってしまいそうで――。


 ふと、わたしのまぶたが限界を訴えるように重くなる。隣室の時計が時を打つ音が遠くに聞こえ、闇に近い藍色の夜から、少しだけ薄明が感じられ始める頃合い。長い夜の間、まるで自分が眠ることに罪悪感を抱いていたように、わたしはずっと彼を見つめてきた。だが身体は正直で、もはや気を失う寸前だ。


「……少し……目を閉じても、大丈夫……?」


 自問するようなか細い声。人が意識を失う瞬間って、こんなにも不安に満ちているのだと改めて思う。ユリウスがわたしの手を離れさせまいと指を動かしてくれたら、それだけで起きていられるのに――。そんな淡い願いを抱きつつ、わたしはほんのわずかな瞬間、まぶたを閉じてしまった。


 ――どれぐらい時間が経ったかわからない。もしかしたらほんの数分かもしれない。わずかなうたた寝状態だったはずなのに、不意に指先に感じた「揺れ」がわたしの意識を一気に引き戻した。


「……え……?」


 夢かもしれない。半分眠りに落ちかけていた脳が見た幻覚かもしれない。だけど、今しがたわたしの手を包むユリウスの指が、小さく動いたのを確かに感じた。


 恐る恐る顔を上げてベッドを覗き込むと、今までピクリとも動かなかった彼のまぶたが、かすかに震えるように揺れている。


「ユリウス……? ユリウス……!」


 叫ぶような声を上げそうになって、わたしは急いで口を手で押さえた。大きな音を立てて彼を驚かせてしまうかもしれない、そんな思考が一瞬で脳裏をかすめる。それでも、心臓の鼓動はすでに激しく早鐘を打っていた。


 もう一度――彼の指がわたしの手のひらで動いた。ほんのわずか、でも確かな動き。わたしはたまらず身を乗り出し、ユリウスの顔をまじまじと見つめる。すると、まぶたがゆっくりと開き始めたではないか。


 その動作はまるで重い扉をこじ開けるように、とてももどかしい。それでも確かに彼は目覚めようとしている。蒼い瞳が、うつろな焦点を探すように揺らめいているのが見えた。まるで夜明け前の空が一気に照らされていくみたいに、わたしの心に光が差し込む。


「……フェ……リシア……?」


 かすれた声が、確かにわたしの名前を呼んだ。声というより、息に混ざった弱々しい音。それでも、わたしはその一言で全身に電流が走ったような衝撃を覚える。目の奥からあふれてきた涙が止まらない。夢であってほしくない、でもこれは現実だと実感した瞬間だ。


「ユリウス……! 本当に……目を覚ましたのね……!」


 わたしは椅子を蹴るように立ち上がり、彼の顔を覗き込む。先ほどまで氷のように感じていた頬が、少しだけ温もりを取り戻しているように見える。瞳も、かすかだがわたしの姿を映し出し、焦点を合わせようとしてくれているのがわかる。


「……俺……は……?」


 意識がまだ混乱しているのか、ユリウスは自分の胸元に巻かれた包帯をじっと見つめる。眉を寄せて苦痛に耐えるような顔をしたあと、また弱々しい声を漏らした。


「刺された……のか……?」

「ええ……コーデリアに。あなた、わたしを守ろうとして……刺されて……ずっと意識が戻らなかったの。わかるかしら……?」


 焦燥にも似た感情で言葉を継ぎながら、わたしの中に湧き上がるのは圧倒的な安堵と喜び。ユリウスが息を吹き返し、こうして言葉を発してくれるなんて、正直もう諦めかけていた瞬間もあったから。


「フェリシアが……無事、なら……それで……いい……」


 か細い声だけれど、ユリウスはかすかな笑みを浮かべる。わたしはその表情を見たとき、こらえようのない涙が再びあふれ出るのを感じた。こんなに弱々しい笑顔なのに、どれほどわたしを救ってくれるだろう。今この瞬間、世界にどれだけ大きな輝きをもたらしてくれるだろう――。


「馬鹿……本当に馬鹿ね……。あなたはいつだってそうやって、自分よりわたしのことを優先する……」

「……守りたか……ったんだ……大切、だから……」

「大切、だなんて……。わたしはあなたに何一つ返せてないのに。ありがとう……ありがとう、ユリウス……!」


 息が詰まるほどの感動に、わたしは声を上げて泣きそうになる。看護師が急いで駆け寄り、「今、医師を呼んできます」と言い残して走り去る気配を感じながら、わたしはユリウスの手をぎゅっと握り直す。彼の指先にも、先ほどまでなかった力が戻りつつある。


「フェリシア……泣かないで……。俺、役目果たせて、よかった……」

「泣くわよ……何度も言うけど、馬鹿なんだから……。だけど……本当に、よかった……! あなたが生きて、声を出してくれるなんて……」


 どうしようもないほど涙がこぼれる。ユリウスの瞳も涙に濡れているように見え、彼は口の端をわずかにゆがめて微笑みを作る。


「……ごめん……心配かけた……。でも……君が無事で、よかった……」


 胸がぎゅっと苦しくなり、同時に喜びが爆発する。こんなにも彼の声を聞けることが幸せだなんて。数日前までのわたしは、それを当然のことのように思っていたのに。


 黙ってしまうと制御できない感情が溢れてしまいそうで、わたしは彼を叱るように言葉を投げかける。


「……もういいの。今は安静にしてちょうだい。痛むでしょう? 医師が来るから、ちゃんと診てもらって……」

「うん……少し痛いけど、平気……。フェリシア……ありがとう……」

「ありがとう、なんて……わたし、何もしてないわ。あなたのほうこそ……わたしのために命を懸けて……!」


 胸を締めつける切なさと安堵。それらが混然となって、わたしは言葉にならない嗚咽を漏らす。けれど、ユリウスの手が確かに温かさを取り戻し、指先でわたしの手をそっとなでる。その動き一つひとつが、生きている証拠のように感じられて尊くて堪らない。


 扉が開いて医師が慌ただしく入室してくると、わたしは少しだけ身を引き、彼らがユリウスを診られるようにスペースを開けた。その間も彼の手は離さない。医師は彼の脈や瞳孔を確認し、大きくうなずく。


「ユリウス様、目覚められましたか……本当によかった。これから痛みを軽減する薬を使いますので、しばらくは安静にお願いいたします。フェリシア様、患者様が安定するまで少しお時間を……」

「はい……ありがとうございます。わたしは大丈夫ですから……」


 医師の指示に沿って、わたしは少し椅子を下げる。けれど、ユリウスの指先からは決して離れないようにしていた。彼は横たわったまま、医師の検査に小さくうなずきながらも、時折わたしを見やって「大丈夫だよ」というように微笑みかけてくれる。


 しばらくして薬品の準備などが整い、医師と看護師が「状態は安定している。しばらくは絶対安静だが、意識が戻ったのは大きい」と言ってくれた。その場を離れる前、医師がわたしに向けて優しい笑みを見せる。


「フェリシア様、よくここまで看病されました。まだ油断はできませんが、これからは回復に向けて少しずつ前進されるはずです。あなたも休みながら、共にいてあげてくださいね」

「……はい。ありがとうございます……」


 張り詰めていたものが緩んでいくのを感じながら、わたしは深く頭を下げる。そして、医師たちが出て行ったあと、病室には再び二人きりになった。


 わたしはそろそろとユリウスの枕元に近づき、改めて彼の顔を見つめる。頬の色はまだ青白いけれど、ちゃんとこちらを見返してくれている。


「……ごめんね。あなたがこんな酷い傷を負うまで、わたしは……」

「やめて……もう、謝らなくていい……。フェリシア……ちゃんと……生きててくれて……俺は嬉しい……」


 互いに瞼が(うる)む。まるで、この瞬間を待っていたかのように、わたしの涙腺は決壊寸前だ。思い切り彼に抱きつきたいけれど、まだ胸の傷が痛むだろうし、無理はさせたくない。だからせめて、その手を両手で包む。


「ユリウス……。わたし……言いたいことが、たくさんあるの。あなたが目覚めたら絶対に伝えるって、誓っていた……。でも……ゆっくりでいいわ。今は無理しないで。痛みに耐えるだけでも大変でしょう?」

「大丈夫……少し寝れば、痛みも和らぐ……。でも……フェリシアの声、もっと聞きたい……」


 彼の微笑みに、わたしもほろりと笑みを返す。ほんの少し顔を見合わせるだけで、互いに涙が溢れてきそうになる。数日前まで絶望していたわたしからは想像できない光景が、今ここにある。


「うん……少ししたら、いっぱい話してあげる。その代わり、無茶しないで。……本当に、あなたが戻ってきてくれてよかった……!」


 破顔するように笑ってしまうと同時に、また目尻から涙がこぼれ落ちる。喜びと安堵と、それから彼が刺されたことで味わった苦しさが、すべて入り混じって声にならない嗚咽(おえつ)が出そうだ。けれど、そんな混沌も、今は幸福のなかに溶け合っている。


 夜明け前の冷たい空気が病室の窓に薄い輪郭を与え始める。長かった暗闇が、少しずつ光を帯びていくのがわかる。まるでこの奇跡を祝福するかのように、空が白んでいくのだ。


「……ユリウス、わたし、あなたと一緒ならどんな困難でも乗り越えられる。そう思ったの。だから、今度こそ、わたしもあなたを支えたい……」


 声を震わせながら言葉を紡ぐと、彼は安心させるようにまぶたをゆるりと閉じ、わずかにうなずいてくれた。まだ痛みと疲労は計り知れないだろう。それでも、その反応だけで十分だ。


「……ありがとう……フェリシア……。俺、もう少し……寝るけど……。ずっと……傍にいてくれたんだよね……?」

「ええ、もちろん。これからも、ずっと……」


 すとん、と彼の意識が浅い眠りに落ちる気配がする。けれど、先ほどまでの生死をさまようような昏睡状態ではなく、わずかに呼吸も穏やかで、そしてなにより安心感がある。わたしはその安らかな寝顔に胸を撫で下ろし、ようやくほんの少しだけ息を吐くことができた。


 ――大丈夫、これからは回復に向かっていくはず。わたしがそばで支えられるのなら、今度こそ彼のすべてに応えたい。生きていてくれることがどれだけ尊いか、この数日間で痛いほど思い知ったから。


 消えかけていた希望が、夜明けの光のように鮮やかに蘇る。深く閉ざされていた静寂を割って、ユリウスは戻ってきてくれた。わたしの世界は、彼が目を開けるだけで、こんなにも鮮やかに彩られるのだ。


「ユリウス……本当に、ありがとう。あなたとまた話せるなんて……。夢みたいだけど、これは紛れもない現実よね」


 そっと握ったままの手を確かめるように撫で、わたしは微笑む。瞳からはまだ涙がにじむけれど、それはもう悲しみだけの雫じゃない。医師が言うように、焦らずゆっくりと治していく――そこにわたしは付き添う。


 差し込み始めた朝の光が彼の表情をやわらかく照らし、わたしの涙の跡も淡く照らしている。こうして暗夜を裂くように訪れた奇跡の瞬間を、わたしは生涯忘れないだろう。コーデリアの陰謀や王太子の過ちなど、まだ越えねばならない壁は多く残っている。でも、そんな壁ですら、わたしは怖くないと思えた。


(ユリウス、これからわたしたちの物語はきっと始まるの。あなたが生きていてくれた。それだけで何よりも尊い――)


 想いを胸中で確かめながら、わたしは静かにユリウスの寝顔を見守る。再び訪れるかもしれない辛い出来事も、今は信じられる。彼の温もりが、ここに確かにあるのだから。夜明けを告げる薄明かりが、わたしの頬を温かく照らし始めていた。

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