第48話 親子の対話
まるで時間が止まってしまったかのような静寂のなか、わたしはユリウスの病室で付き添いを続けている。ベッド脇の椅子に腰掛け、彼の手を握りしめたまま、外の光の加減すら意識せずに過ごしていた。
扉がそっと開く音がしても、最初はなかなか反応できなかった。ユリウスが眠ったまま目を覚まさないという現実が重くのしかかり、わたし自身がまともに動ける状態ではなかったのだ。けれど、入ってきた人の気配に気づいて顔を上げると、そこに立っていたのは父と母――レオポルド公爵とエレオノーラ公爵夫人だった。
夜会の一件が片づいたとはいえ、貴族社会はまだ混乱の渦中にある。わたしの断罪騒動からコーデリアの逮捕、そしてユリウスの重傷と、重苦しい問題が山積みのはず。ふたりがこんなふうに時間を割いて病室まで来てくれたのは、それだけ娘のわたしを心配してくれているからなのだろう。
「フェリシア……」
父であるレオポルド公爵が低く、重苦しい声音でわたしの名を呼ぶ。
わたしは返事をする代わりに、ユリウスの手をぎゅっと握りしめたまま、かすかに顔を上げるだけだった。そんなわたしの姿を見て、母のエレオノーラは胸を痛めるように眉を寄せる。
「こんな姿になるなんて……フェリシア……少しは休んでいるの? 本当に大丈夫なの?」
「……父様、母様……わたくしは平気です。でも、ユリウスは……まだ目を覚まさなくて……」
自分の口から出た声はひどくかすれていた。鏡など見なくとも、今のわたしがどれほどやつれているのかは想像がつく。髪は乱れ、目は真っ赤に腫れ上がって、昔の「完璧な公爵令嬢」などどこにもいない。
母はわたしの顔をのぞきこみ、そっと肩に手を置いてくれた。その柔らかな温もりに、少しだけ涙腺が緩む。
「フェリシア……ユリウス様が刺されて以来、あなたがずっと看病していると聞いたわ。まともに眠らず、飲食もままならない状態だって……」
「わたし、離れたくないんです……。もし、ここを離れている間に、ユリウスが息を引き取ったりしたら……それだけは絶対に耐えられなくて……」
言葉が喉で詰まった。ベッドの上のユリウスをちらりと見る。腹部には大きな包帯が巻かれ、医師が置いていった器具が並べられている。意識が戻らないときは戻らない――その事実がこんなにも恐ろしいなんて、わたしは今さら思い知らされている。
ふだんは決して取り乱さないわたしが、今や弱々しい声を漏らす姿に、母は驚いたようだった。父もまた、わたしのその変わりように少なからず衝撃を受けているように見える。
「まさか、あの冷静なフェリシアが……これほど取り乱すなんてな……」
父の言葉は苦い響きを帯びていた。公爵家の娘として、いつもわたしが感情を理性的に抑え、決して弱さを見せなかったからだろう。
けれど、わたしはそんな誇りやプライドなど、とうに捨て去ってしまっている。コーデリアの陰謀による断罪から解放されても、ユリウスがこんな状態ではすべてが空しく思えるのだ。
「ごめんなさい、父様、母様……。こんなわたしの姿、見せるべきではないとわかってる。でも、ユリウスが死んでしまったら、わたし……何のために生きているのかわからなくなる……」
目の奥が熱くなり、声が震えてしまう。父と母も、公爵家の責務を担ってきた者として、娘がこんな深い苦悩の渦に巻き込まれている姿は相当堪えているはずだ。しばらく重い沈黙が流れたのち、母が小さく溜息をついて言った。
「フェリシア……王太子妃になるために、あなたが積み重ねてきた努力は誇らしかった。でも、もしそれがあなたをこんなにも追いつめるものなら……母として、娘の幸せを願いたいとも思ってしまうのよ」
「母様……」
その言葉は、ほんの一瞬わたしの心を揺らした。しかし、続く母の言葉は現実を突きつける。
「でも、相手が子爵家のユリウス様だなんて……身分の差を考えれば、簡単に認めるわけにはいかないの。王太子妃教育を受けてきた公爵令嬢が、どう生きていくべきなのか……それは、父様も悩んでいるわ」
「わかっています……。わたしだって、公爵家としての責任があることは理解しているの。でも、今は……ユリウスが生きてくれるならそれだけでいいんです。王太子との婚約破棄や名誉回復なんて、どれだけ意味があるのか……彼の命がなければ、何も……」
言い終わらないうちに涙が落ちる。父は深く息を吐き、わたしの正面に回ってゆっくりと目を合わせてきた。
「身分の差は大きい。わが公爵家には、もともと王太子を支える高い地位が期待されていた。だが……フェリシア、お前がここまであの子爵家の男を想っているとはな」
父の声には戸惑いが混ざっている。わたしが王太子妃となる道を歩むものだとずっと信じ、そこへ向けてわたし自身も努力してきたからだろう。
けれど、今のわたしは迷うことなく口を開く。
「ごめんなさい、父様、母様……。だけど、もしユリウスがいない世界なら、わたしにとってすべてが無意味なんです。これがどんなにわがままだってわかっていても、そう感じてしまうの」
まっすぐな言葉に、母はわたしの背を優しくさする。父もまた眼を伏せて小さくうなずき、苦悶の表情を隠せない。
「娘の幸せを優先すべきか、公爵家としての責務を全うするか……正直、わたしも答えが出せないのです。だけど、身分の差を乗り越えるのが容易でないことも事実。あなたがどれほど辛くても、それを跳ね返すだけの力がないと……」
「そうだ。フェリシア、お前には本来もっと高い役割が期待されていた。だが、まだ何も結論を出す段階ではないだろう。まずはそのユリウスが本当に生き延びるのかどうか……」
父の厳しい声に、わたしはユリウスの顔をちらりと見つめる。意識不明のまま眠り続ける幼馴染。その命が救われるかどうか、それこそが第一だということに疑いはない。
その思いをはっきりと示そうと、わたしは両手でユリウスの手を覆い、震えた声で言う。
「父様、母様……ユリウスが目を覚ましたら、わたしは……いろいろ伝えたいことがあります。もしあなたたちが反対でも、わたしは引き下がらないつもりです。こんな姿をさらしてまで言うのですから、覚悟はできています」
わたしの宣言に、両親は驚いた様子で顔を見合わせた。これまでなら考えられない大胆な発言だと、自分でも思う。けれど、ユリウスのことになると、それぐらいの覚悟を示さなくてはならないと感じるのだ。
母は小さくうなずきながら、わたしの手をそっと握り返した。
「そう……まずはユリウス様が無事に回復されるよう願いましょう。その後で、どうするかをゆっくり話し合えばいいわ。あなたの本当の気持ちや、公爵家としての在り方……すべて含めて」
「母様……ありがとう」
「私も驚いたが……今は何も言うまい。ユリウスが生還するかどうか、それがすべてだろう。フェリシア、お前がそこまで強い思いを持っているのはわかった」
父は苦々しい顔でそうつぶやきつつ、ベッドに近づいてユリウスを見下ろす。王太子妃の座を目指して育てた娘が、子爵家の青年のもとへ心を傾けている――公爵家の立場を考えれば決して受け入れやすい話ではないだろう。
けれど、今のわたしははっきりと言える。ユリウスの存在こそが、わたしにとって最も大切なものだと。
「ユリウスがもし助かったら……責務のことも重々承知のうえで、わたしは彼への気持ちを貫きたい。どうあっても譲れないの」
自分がどんな道を歩むことになるのか、まだわからない。けれど、一度きりの人生を、王家や周囲の思惑だけで潰していいとは思えなかった。
両親はわたしの決意を受け止めたのか、何も言わずに小さく息をついた。そして、退室しようと扉に向かう父が、最後に振り返ってこう告げる。
「もし……この男が生き延びたら、改めて話し合おう。フェリシア、お前自身の幸せ、そして公爵家としての責務。二つをどう両立させるか……答えを見出さねばならん」
「はい、父様……」
わたしは力のこもった声で答え、両親を見送った。扉が閉まると同時に、また静寂が病室に戻ってくる。けれど、その静寂は先ほどまでよりも少しだけ優しいものに感じられた。
不安定な均衡の上に成り立つ未来。それでも、わずかでも望みがあるなら、わたしはそこに希望を見出したい。王太子妃となる道を失った今、わたしは新しい道を歩めるかもしれないのだから。
「ユリウス……あなたが生き返ってくれさえすれば、きっと何とかなる。父様や母様を、ちゃんと説得してみせる。だから……どうか目を開けて」
声はかすれ、涙がにじむ。けれど、わたしの言葉は以前よりもはるかに強い意志を帯びていると感じる。
まだ意識不明のユリウスは微動だにしない。その静かな寝顔は、悲しげにも、安らかにも見える。けれど、わたしは彼を呼び続けるのだ。幼馴染なんかではなく、大切な存在として。「公爵令嬢の幸せ」などと呼べるかはわからないが、わたしの心はもう、彼との未来を諦めきれない。
「あなたが戻ってきたら、全部打ち明ける。自分でも抑えきれない、この想いを。だから……お願い……」
瞼を閉じて深く息を吐き、彼の手をぎゅっと握りしめる。両親の苦悩を知りながらも、それでもわたしは自分自身の想いを曲げないと決めた。あとはユリウスが目覚めてくれれば、もっと強く前を向けるはずだ。
王太子妃となる運命が崩れ去り、コーデリアの陰謀は暴かれたものの、ユリウスは重傷――状況は厳しいままだ。それでも、わたしの胸には小さな光がともった。両親が全否定ではなく、一緒に考える姿勢を示してくれたのだから。
わたしは椅子に深く座り直し、ユリウスの包帯をそっと見やる。遠くで鳥のさえずりが聞こえ、夜明けが訪れつつあるのがわかる。眠気はまったく感じない。今はただ、彼のぬくもりを失わないように祈り続けたい。
「ユリウス……もしあなたが目を開けてくれたら、わたし……何度でも言うわ。あなたと一緒にいたい。あなたがわたしのすべて……」
その言葉は、まだ声にならないほど小さく震えていた。けれど、胸の奥で確かに何かが動き出す。未来がどう転ぼうと、わたしはもうユリウスを見捨てないと、心に誓っている。
重苦しかった病室の空気が、少しだけ柔らかく変化しているように思えた。父と母も、わたしがここまで変わってしまうなど想像しなかったかもしれないけれど、親として娘の幸せを考えざるを得ない部分もあるのだろう。
だからこそ、わたしは一歩ずつ進める――ユリウスの命が無事であれば、いつか必ず両親に、そしてこの国に、自分の選んだ道を示してみせる。そう確信しながら、わたしはユリウスの手の甲にそっと額を寄せ、声には出せぬまま心の中で繰り返す。
――目を覚まして、ユリウス。あなたがいれば、わたしは何度でも立ち上がれる――。




