第47話 祈り
あの夜会の惨事から、どれほどの昼夜が過ぎ去ったのだろう――わたしは数える気力さえ失い、ただ王宮の傷病棟の一室にこもりきりで過ごしている。
優雅な調度品が並ぶはずの王宮とは思えない、まるで戦場の仮設施設のように質素で実用的な医療器具ばかり置かれた空間。そこに運び込まれ、意識の戻らないまま横たわるユリウス・アッシュフォードのそばから、わたしは一歩も離れられずにいる。
ベッドのそばに置かれた椅子の上で、わたしは彼の手を握りしめたまま、何度も彼の名を呼びかけた。最初のうちは、応急処置から続く緊迫した時間の流れを、ただ必死に追うだけで精一杯だったけれど、今はそんな切迫感よりも、痛むほどの孤独と不安が胸を押しつぶしている。
医師たちいわく、「峠は越えたようにも見える。しかし、まだまだ油断はできない」とのこと。意識を取り戻すかどうかも、正直なところ不透明だそうだ。脈はある、呼吸もある、それだけがかろうじて彼が生きている証。けれど、このまま昏睡状態が続いたら……いったいどうなるのか、考えるだけで息が詰まる思いだった。
「ねえ、ユリウス……まだ痛い? 苦しい? ごめんなさい……。わたしには、あなたの痛みを取り除く術もわからないの。こうして手を握ることぐらいしかできないなんて……」
声をかけても、返事はない。彼の瞼は重く閉ざされ、動く気配ひとつ感じられない。わたしは指先で彼の手の甲をなぞる。冷たいわけではないけれど、かすかな体温がどこか頼りなく思えた。これ以上の温もりが感じられないときが来てしまうのではないか――そんな不安が、胸の奥にじくじくと広がっている。
重い沈黙が病室を満たす。窓から差し込む淡い陽光が、床にぼんやりとした四角形を描いている。わたしはふと、まぶたを閉じる。すると、遠い昔の記憶が色鮮やかに甦ってきた。
――まだ幼かったころ。公爵令嬢という地位に縛られる以前の、無邪気な少女だったわたしと、子爵家の子息として同じように幼いユリウス。
公爵邸の庭は広大で、花壇がいくつもあり、木陰で遊べるスペースも豊富だった。わたしとユリウスはよくそこへ飛び出しては、ドレスや衣服を泥だらけにして追いかけっこをしたものだ。今ならとても考えられないような姿で転げ回り、使用人たちに叱られると、ユリウスは必ず「ごめんなさい、僕が誘ったから」などと言ってかばってくれた。
「……あなたは、昔から変わらない人だったのね」
つぶやいてから、苦笑がこみ上げる。あのころは、ただ一緒に遊ぶのが楽しくて、わたしが泣きそうになれば、ユリウスが「大丈夫、フェリシア、泣かないで」と言って頭をなでてくれた。それだけで胸がぽかぽかして、また笑い合えたのだ。
けれど、成長するにつれて、わたしは「王太子妃候補」という立場を意識するようになった。王太子との婚約が公表され、公爵家の威厳を守るためのあらゆる教育が日常を支配していった。ユリウスとわたしの立場が違うことも、まざまざと知らされるようになった。
「わたし……あなたに甘えてはいけないと思ってた。幼馴染だからといって、公爵令嬢であるわたしが、あなたに頼るのはおかしいって……。あのころは、そう思っていたのよ」
あまりにも不器用だった。完璧な「令嬢」を演じなくてはならないという思い込みが、わたしから素直に心情を吐露する力を奪っていった。特にユリウスのような優しい人にほど、踏み込みたがらなかった。
だけど、王太子がわたしを断罪したとき、ユリウスだけが庇ってくれた。それからも、陰謀の証拠を必死に集めてくれた。最後に身を挺して、こんな大怪我を負った。――そのすべてを思い返すたび、後悔が押し寄せてくる。
「お願いよ、ユリウス……わたし、今度こそあなたに思いを伝えたいの。あなたがどれほど大切か、何をしてくれたか、全部……ちゃんと言葉にしたい。だから、目を開けて……」
かすれた声に、自分でも驚くほどの震えを感じる。わたしはベッドへ身を寄せ、ユリウスの顔の近くに手を伸ばした。彼の頬は血色が悪く青白い。頬に触れると、ほんの少しだけ熱があるようにも思えるが、それは健康的な温かさではない。むしろ不安をかきたてられる熱だ。
「あなたを失うかもしれないと思うだけで、こうして呼吸するのも苦しい……。愛する人がこの手を握り返すこともなく眠り続けるなんて、こんなにも辛いのね」
ふと、涙がこぼれ落ち、彼の胸元のシーツを濡らしていく。わたしはハンカチを探そうとするが、どこかに落としたのか手元になく、仕方なく袖口で涙を拭う。公爵令嬢としての品位など気にする余裕はもはやない。
周囲には、医師や看護にあたる人々の気配がかすかにあるが、みな申し訳なさそうに距離を保ってくれている。わたしが必死にユリウスを引き留めようとする姿を見れば、かける言葉もないのだろう。誰も声をかけずに、そっと見守っている。
「ねえ、ユリウス……また昔みたいに、わたしの手を握り返してくれないの? 幼いころはそうして、泥だらけになったわたしを笑って支えてくれたのに……」
思い返すのは、いつもわたしが泣きそうになるとき、ユリウスが差し伸べてくれた手。その手は小さかったけれど、不思議と心強かった。あの暖かさこそが、今のわたしにとって何よりも欲しいものだ。
「あなたの『助けてあげる』って言葉に、どれだけ救われていたか……伝えたくてたまらないの。わたしがプライドを捨てて、もっと早く素直になれたらよかった……そうすれば、あなたはこんな大怪我を負わずに済んだのに……」
自責の念が重くのしかかる。王太子の断罪を受け、コーデリアの陰謀が暴かれて、名誉は取り戻したというのに――そんなものは空虚に思える。大事な人が今こうして苦しんでいるのだから。世間がわたしを「公爵令嬢として完全復活だ」などと評価しても、ユリウスがいなくなれば何の意味もない。
「ごめんね、ユリウス……何もできなくて。わたしはあなたがいないと、もう立ち上がれないの。だから、どうか戻ってきて……死んでしまわないで……」
その言葉は、自らの弱さをさらけ出すようで苦しい。けれど、今はそんな理想的な「公爵令嬢」を演じている場合ではない。ありのままの脆い姿で、わたしは必死にユリウスを呼ぶ。
当たり前のように傍にいると思い込んでいた幼馴染。どれほど彼に支えられていたか、こんな形で思い知らされるなんて――わたしは涙をこらえきれず、嗚咽が喉を突いた。
「ユリウス……わたし、あなたと一緒にいる未来を思い描いてもいいの? かつては、王太子殿下との婚約があったから、そんなこと考えもしなかった。でも、もう何もいらない。あなたさえいてくれれば、わたしは……」
込み上げる想いをどう言葉に変えていいのか、うまく整理がつかない。ただ心の中の声を垂れ流しにして、すがるように彼の名を呼ぶしかないのだ。
ふと、窓の外で小鳥のさえずりが聞こえた。夜会から数日が経っているが、わたしには昼夜の感覚が薄れている。外界では時間が流れているのに、ここは止まったまま。ユリウスの意識が戻るまで、すべてが停滞しているように思えてならない。
「ねえ、ユリウス……あなたが起きたら、ちゃんと『ありがとう』って言わせて。わたしはあなたに何度も何度も助けられてきた。わたしを守るために、血を流すまで……本当にあなたは馬鹿みたい」
あまりに身勝手だと、わたし自身わかっている。でも、これ以上失いたくない。偽りの誇りや立場なんてどうでもいいから、ユリウスの生きる姿だけがわたしの望みだ。彼の笑顔に何度も励まされたことを、どんな形であれ返したい。
それなのに、当の彼は黙ったまま、どんな問いかけも受け止めてくれない。苦し気な呼吸音すらほとんど聞こえないように思えて、わたしの心は焦燥に焼かれる。
「……この手を、どうか握り返してみせて。あなたが生きてさえいれば、わたしはまた立ち上がれる。お願いだから……もう少し、がんばって……」
わたしは祈るように彼の手を持ち上げ、唇を寄せた。ほんの少しだけ、皮膚に触れる温かさがあるように感じる。――それが幻覚であろうと、本物であろうと、わたしは信じたい。ユリウスはまだこの世に繋ぎ止められていると。
ベッド脇のテーブルには、医師が置いていった血止めの薬や包帯の残骸が散らばっている。その光景を見ただけで痛みが胸を突く。いくら医師が努力を続けているとはいえ、刺された傷がどれほど深かったか、わたしにははっきりとはわからない。ただ、言えるのは――その傷が、ひょっとすると命を奪ってしまうかもしれない深刻なものだった、ということだけだ。
「……もう少しだけ、泣かせて。あなたをこんなふうにしてしまった罪悪感と、あなたが戻ってくれないかもしれない恐怖で、心が押し潰されそう……」
再び溢れる涙が止まらない。わたしは口元を抑え、声にならない悲痛を噛み殺す。普段であれば、人前で泣くなんてみっともないと叱咤していたかもしれない。でも今はそんな意地も捨て去った。ユリウスが生きていない世界など、わたしには考えられないのだ。
彼と歩んだ記憶。幼いころの笑い合う日々、距離ができたときの寂しさ、そして夜会までの奔走……すべてが頭の中をぐるぐる回り、熱を帯びている。わたしの人生で、これほど大きな存在だったことに、ようやく気づいたというのだろうか。
「ユリウス……わたし、本当は気づいてたのよ。あなたがいつもわたしを見てくれていたこと。何があっても味方でいようとしてくれたこと。……わたしはその想いを、ずっと無視してた」
視界の端を、ぼんやりとした光が漂う。どんどん涙で霞んでいく景色の中、わたしはユリウスの顔を覗き込む。かすかに動きがないかと期待してみるが、彼はどこまでも静かなまま。
それでも、わたしは呼びかけることをやめない。何度でも彼の名前を口にして、今まで言えなかった感謝と後悔と愛情のすべてを、どうにかして届けようとしている。
「どうか……戻ってきて。今度こそ、わたしは素直になるから。あなたの存在が、わたしにとってどれだけ大きいか……ちゃんと伝えたい」
生きてさえいてくれれば、きっといつかは笑い合える日が戻るはず。わたしが傍にいれば、あなたはまた「フェリシア、泣くなよ」と言ってくれるかもしれない。そんな儚い希望をぎゅっと抱きしめながら、わたしは彼の息づかいを感じ続ける。
もしも、奇跡が起きるなら――この長い眠りから、ユリウスが微笑んで目を覚ましてくれるなら。わたしはもう二度と、不必要な高慢や意地を張ったりしない。そう誓いながら、涙に濡れた唇を引き結ぶ。
「ユリウス……あなたがいない未来なんて、わたしには耐えられない。だから、どうか……どうか……」
言葉が尽きた。声にならない嗚咽だけが、静かな病室の空気を震わせる。時計の針が進む音さえ聞こえないほど、世界は静かだ。わたしが握り締める彼の手は、小刻みにも動かない。
それでも、希望の灯が消えたわけではない。彼はまだ生きている。弱いながらも鼓動を保っている。その事実だけを信じ、わたしは祈り続ける。――幼いころ、笑い合った日々のように、もう一度あの穏やかな笑顔を見たい。それはわたしの偽らざる願いであり、今の人生のすべてだ。
こうしてわたしは、ユリウスの枕元で泣き崩れながら、過去の記憶と後悔、そして愛しさを繰り返し思い出している。声が枯れ果てるほど名前を呼び、どれだけ涙を流しても尽きない想いがある。わたしが何を犠牲にしても、ユリウスの命を取り戻したい――それだけが、わたしの切実な祈りとなっていた。




