第46話 拒絶
夜会での惨劇から、どれほどの時間が経ったのか、わたしにはもうよくわからない。白み始めた朝の光が、王宮傷病棟の長い廊下を、薄い灰色で包み込んでいた。ここは大勢の騎士や衛兵が、戦いや事故で傷ついたときに搬送される場所のはず。けれど今は、わたしの大切な人――ユリウス・アッシュフォードが意識不明のまま運び込まれている。この現実に、胸をえぐられる痛みを感じずにはいられない。
あの恐ろしい事件――コーデリアの逆上による刺傷は、すべての人を混乱に陥れた。名誉を回復したはずのわたしも、何一つ喜べないまま、ただユリウスの無事を祈り続けている。夜会場から医師たちの指示で連れ出され、半ば強引に応急処置室へ向かったのは一瞬だったけれど、その後も容態が不安定で、より適切な治療ができるこの傷病棟に運ばれたのだ。
けれど、わたしは病室の扉からほとんど離れられずにいる。医師に「治療に集中したいから、少しの間だけ外で待っていてほしい」と言われ、こうして廊下に出ても、足が動かない。――ユリウスのもとを、離れることがどうしても怖い。もし、わたしが見ていないところで彼が最後の息を吐いてしまったら――そんな悪夢ばかりが頭をよぎる。今はせめて、扉越しにでも「そこにいる」ことを感じていなければ、胸が張り裂けそうなのだ。
「フェリシア様、ほんの少しでもお休みになりませんか……。このままでは、フェリシア様が倒れてしまいます……」
わたしの隣にいる侍女のハンナが、気遣わしげに腕をそっと取ろうとするが、わたしは首を振る。夜会で着ていたドレスは血の跡や埃でひどく汚れているし、髪も乱れたまま。普段なら恥ずかしくて人前に立てない姿かもしれない。でも、わたしにはもうそんなことどうでもよかった。
「ごめんなさい……ハンナ。でも、いま休むわけにはいかないの。ユリウスが――何かあったら、わたし、どうしたらいいの……」
声が震え、意識がまた泣き崩れそうになる。でもこらえなきゃ、と必死に唇を噛む。あんな悲劇を招いてしまったのは、わたしがコーデリアを追い詰めたからかもしれない。わたしの罪なのだ――そう思うと、安らぎなど得られるはずがない。
そのとき、足音が聞こえた。わたしの名を呼び、近づいてくる気配。振り返らなくてもわかる。――アルフォンス・エーデルシュタイン。かつてのわたしの婚約者、そしてあの事件の引き金を引いた人物。胸が軋むように痛むが、彼がここに来るのは、わたしが想像もしたくない話をするためだろう。
「フェリシア……」
小さくかすれた声。夜会のときの豪華な装いではなく、どこか荒んだ様子のアルフォンスが、わたしの前に立ち止まる。ぐしゃぐしゃになった彼のシャツの襟や、瞳の下の濃い隈から、夜をほとんど眠れずに過ごしたことが見て取れた。――でもわたしは、そんな彼を直視する気にはなれなかった。やっとの思いで顔を上げても、病室の扉が視界の端に映るだけ。まるで、ユリウスから目を離したくないかのように、わたしの意識はそちらへ向いてしまう。
「……ユリウスの状態はどうなんだ。医師から聞いたが、まだ意識が戻らないと……」
「――ええ、そうね。あなたが聞くまでもなく、意識は戻らない。まだ生きているのか、いつ息を引き取るか、それさえ微妙な状態よ」
わたしは刺すような口調で答える。アルフォンスが何か言葉を尽くして申し開きをしても、今のわたしには無意味だ。大夜会でわたしを断罪したときの無慈悲さ、コーデリアの陰謀に踊らされた事実、その結果ユリウスが深い傷を負った現実は消せないのだから。
「……本当に、すまない。コーデリアの言葉を信じてしまった私が悪い。君を疑い、傷つけたうえ、ユリウスまで……こんな状況になって……」
アルフォンスは唇を噛みしめ、後悔に満ちた表情を浮かべる。ここで頭を下げられても、わたしの心は揺れない。なにしろ、謝られてどうなるものでもない。ユリウスがこのまま命を失ったら、すべてが手遅れなのだ。
「謝って済むなら、こんな惨劇は起きていないわ。……コーデリアが逮捕されて、わたしの汚名は晴れたって、ユリウスが死んだら意味がない。あなたも、それがわからないはずがないでしょう?」
「フェリシア……それでも、私はどうしても謝りたかった。君を誤解して、君を苦しめたのだから……」
「黙って」
一言で切り捨てる。わたしの心には、王太子への情など残っていない。彼が後悔に苛まれようと、今さら関係ないのだ。
アルフォンスの顔は、わずかにゆがむ。多くの貴族が見てきた、あの尊大で冷たい王太子の姿は、ここにはない。代わりにいるのは、どうしても取り返しがつかない過ちを犯した哀れな男――そんなふうに見える。けれど、わたしは同情する気持ちも起きない。
「……わたし、もう扉を離れたくないの。ユリウスのところへ戻るわ。もし意識が戻ったら、少しでも早く駆けつけて声をかけてあげたいから。あなたの言葉を聞いている暇などないのよ」
わたしは言い捨てると、アルフォンスのそばをすり抜けようとする。彼がなにか言いかける気配を感じたが、わたしは構わず足を進めた。ハンナが心配そうに「フェリシア様……」と声をかけるが、わたしはそのまま廊下を歩く。
扉の前に戻り、ゆっくりとノブに手を掛けると、後ろのほうでアルフォンスが息を飲んだような音が聞こえる。きっと、わたしの態度に打ちのめされているのだろう。でも、そんなことまで気を回してやる余裕など、今のわたしにはない。
「あなたがいくら謝罪の言葉を重ねても、ユリウスは戻らない。命を落としたら、それで終わり。だから、わたしにはもう、あなたの言葉は何一つ響かないの」
静かに最後の言葉を吐き出す。すると、後ろでアルフォンスが「フェリシア……」と低く呼ぶのが聞こえるが、わたしは扉を開けて中へ入る。まるでこれ以上、彼を拒絶する意思をはっきり伝えるかのように。
――病室に足を踏み入れれば、ユリウスの横顔が目に飛び込んできた。青白い肌、閉じたまぶた、その奥にかすかな息づかい。わたしは何も言えなくなる。心が痛みでいっぱいになり、ドアをそっと閉めて背を預けるように立ち尽くす。
「フェリシア様……大丈夫ですか?」
ハンナが付いてきてくれたらしい。わたしはわずかに首を横に振る。大丈夫なんかではない。でも、アルフォンスと話し合うつもりも、赦すつもりも、今は何もない。この世界には、ユリウスの存在しか大切に思えないのだ。
「殿下がどんなに後悔したところで、ユリウスがいなくなれば、わたしの人生には何の意味もない」
声は驚くほど冷たく聞こえた。以前のわたしなら、このまま王太子と仲違いすることに恐怖を抱いたかもしれない。けれど、もうそんな感情は残っていない。彼よりも、コーデリアよりも、わたしの心を占めているのは――このベッドに横たわる幼馴染ただ一人。
わたしはユリウスのそばに歩み寄り、その手にそっと触れる。まだ冷たい。でも、かすかな体温を感じられる。それだけを頼りに、わたしは何度でも願い続けよう。どうか、彼が生きていてくれますように、と。
「すべてが終わったあとでいい。王太子が何をしようと、わたしには関係ない。ユリウスが目を開けてくれるまで、それだけがわたしの世界」
自分の声が震えているのがわかる。けれど、涙はもう枯れたように出てこない。代わりに深い悲壮感が、わたしの胸の奥を満たしている。ハンナも黙ってうなずき、わたしの横で同じようにユリウスを見つめている。
廊下の外で、アルフォンスが去っていく足音がかすかに聞こえた。もう、あの人は何もできないだろう。わたしを救い得るのは、ユリウスの意識が戻ることだけ。それ以外に、わたしが望むものはない。
「ねえ、ユリウス……わたし、あなたがいないと生きていけないの。王太子とか、誇りとか、名誉とか……そんなものより、あなたが大事……」
無言の彼に向かって、わたしはかすれた声でそっと話しかける。返事はない。だけれど、何度でも呼びかけるしかない。それがわたしの罪滅ぼしであり、希望でもあるから。
こうして、わたしは王太子アルフォンスの謝罪を完全に拒絶した。心の扉を閉ざし、ユリウスを守ることにすべてを注ぐ。それが彼の命を救うかどうかはわからない。けれど、今わたしができる精一杯の意志表明だった。
夜明けに近い静寂の中、薄暗い病室には切ない光が差し込み、ユリウスの顔を白く照らしている。わたしの耳には、彼のかすかな呼吸音が届くかどうか――それだけが全世界だ。アルフォンスがどれほど後悔し、コーデリアがどれほど断罪されようと、わたしはここを動かない。
……もし、奇跡的にユリウスが目を開けてくれたら。わたしはどんな言葉を伝えようか。王太子殿下のことで苦しんだ日々に、どれほど救われたか。あなたを巻き込みたくないと言ったのに、結局あなたに支えられた自分の弱さを謝りたい。――そんな想いばかりが頭を巡る。
わたしは椅子に腰を下ろし、ユリウスの指を丁寧に握りしめる。彼の体温を失わずに済むように。そうして、わたしの世界から王太子の存在は遠のいていき、代わりにユリウスへの願いだけが深く大きな海のように広がっていった。




