第45話 止まらぬ涙
王太子殿下による謝罪の言葉など、今のわたしにはまったく耳に入らなかった。夜会でコーデリアが身柄を拘束され、わたしの名誉が回復されるという結末を迎えても――それが何の意味を持つというのだろう。
わたしがただ一つ願うのは、ユリウスが生きていてくれること。彼をこの手の中で失わないこと――それだけだった。
あの凶行が起きてからどれほどの時間が過ぎたのか、はっきりしない。最初は応急処置室で治療が行われたが、そこでは十分な設備が整わないということで、王宮の「傷病棟」に移された。ここはもともと負傷した騎士や衛兵を緊急で治療するための施設らしく、普通は貴族が使う場所ではない。けれど、ユリウスの命を救うためには少しでも適切な器具や薬が必要だとして、医師たちが即断してくれた。
そして今――わたしは、意識不明のまま横たわるユリウスの枕元に張りつき、彼の手を握りしめている。息苦しいほど染みつく血の匂いと、消毒液の刺激臭が入り混じったこの部屋では、決して華やかなドレスなど似つかわしくない。それなのに、わたしは大夜会のときのままの姿で、服のあちこちが赤茶色に染まっている。服を替えるように勧める声は聞こえるが、すべて拒んでしまっている。
「フェリシア様、どうかお休みを……このままでは、あなたも倒れてしまいます……」
そばにいる侍女のハンナが、痛々しい顔で腕を取ろうとしてくれる。けれど、わたしは無理やり振り払ってしまう。頬を伝う涙はもう乾く暇もなく、視界がずっとぼんやりにじんだままだ。
「放っておいて……わたしが離れれば、ユリウスが……いなくなってしまうような気がして……」
自分でも、何を言っているのかわからないくらい頭が混乱していた。とにかく、わたしが目を離したらユリウスの呼吸が止まってしまう。そんな漠然とした恐怖が、わたしの全身を支配しているのだ。
医師がわたしを心配そうに見つめながら、書類を広げるような仕草をする。どうやら、ユリウスの傷の深さや治療の進行状況を確かめているらしい。けれど、時折聞こえる「内臓付近への深い損傷」「まだ出血が止まりきらない」といった言葉に、わたしの心は更なる絶望に沈んでいく。
「ユリウス……どうか……答えて……」
震える声で呼びかけても、彼はまぶたを閉ざしたまま、ほとんど動かない。ときおり乱れる呼吸が聞こえるたび、「今、息をしてくれている」と、わたしは淡い希望をつかむしかない。
そこへ、父と母が焦った様子で病室に駆け込んできた。夜会が終わった後すぐに駆けつけてくれたのだろう。レオポルド公爵は荒い息のままわたしを見て、「フェリシア……!」と声をかける。エレオノーラ夫人も、「大丈夫なの、あなたは……」と震え声で寄り添ってくる。けれど、わたしは彼らを正面から見られない。
「父様……母様……わたしは、無事。だけど……ユリウスが……」
わたしはどうしようもなく視線を落とす。すると、母がわたしを抱きしめようとするが、わたしはその腕の中で「ごめんなさい」と繰り返すだけ。どうにもこうにも、言葉にすることができない。大事な幼馴染の命が今まさに失われようとしている現実を、わたしは受け止めきれずにいたのだ。
「お前は何も悪くない。むしろ、コーデリアと王太子殿下が……いや……」
父の言葉が喉で詰まる。きっと怒りで何かを吐き出したいのだろうが、わたしの惨状を見ると何も言えなくなるのだろう。深い息をつき、母と視線を交わすと、二人は医師に状況を尋ねる。「ユリウス・アッシュフォードの容体は?」「助かる見込みはあるのか?」など、まくし立てるように質問していた。
「止血を試みていますが、やはり短剣の傷が深く、いまだ意識が戻らないのが気がかりです……」
医師の困惑した返答に、父も母も顔をこわばらせる。母はしばらくの沈黙のあと、「フェリシア、あなたも少し休んで。きっとユリウス様も、あなたが無理をするのは望んでいないわ……」と優しく言ってくれるが、わたしは首を横に振る。
「母様……わたしは、ここを離れません……。ユリウスが目を開けるまで、ずっと待っていたいの……」
声はかすれている。自分でさえ情けないと思うほど弱い声。でも、いくら「公爵令嬢」として誇りを掲げてきたわたしでも、この状況で気丈でいられるはずがない。名誉を取り戻したところで、ユリウスがいなくなったら何の意味もない。泣いてばかりいるわたしを見かねたのか、母がぐっとわたしの肩に手を置いてささやいた。
「わかったわ。あなたの心のままにしなさい。……ただ、どうか身体だけは壊さないで。食事も休息も必要よ」
「……ありがとう……母様……でも、まだ……」
わたしはそれだけつぶやき、再びユリウスの手に意識を戻す。その手は、一度は守るために差し出された勇敢な手だったのに、いまはあまりに冷たく、握り返す力も感じられない。もっと早くわたしが事態に気づいていれば、こんな惨劇にはならなかったのかもしれない――そう思うと涙があふれるばかりだ。
エレオノーラ夫人は医師から細かく話を聞き、深く溜息をついている。レオポルド公爵は「王太子殿下に、改めて詫びをさせる……」などと口にしつつも、フェリシアのそばに長く留まるわけにはいかないらしい。王宮内では緊急の手続きや、今回の事件の処理が山積みだからだ。しばらくして両親はわたしに「決して無理はするなよ」と繰り返し言い残して部屋を出る。
残されたわたしは、すすり泣きに似た呼吸を繰り返しながら、ユリウスを見つめ続ける。ハンナが傍らでタオルや水を差し出してくれるが、わたしはほとんど手を伸ばさない。ここで何か口にしたら、ユリウスと離れてしまう気がする。わたしがほんの少しでも気を緩めたら、彼の魂が遠くへ行ってしまう……そんな不安が頭を巡るばかり。
「ユリウス……もう一度……あの優しい声で、わたしの名を呼んで……」
何度願っても、答えは返ってこない。医師が「脈はかろうじて維持しています」と言うたびに少しだけ安堵するが、それで大丈夫だという保証にはならない。いつ息が止まるかもしれない――その恐怖が、胸に鋭く突き刺さるのだ。
――そういえば、王太子殿下がわたしに謝罪しようとしたのは、さっき聞こえた。けれど、そんなものはどうでもいい。「わたしが公の場で名誉を取り戻す」というのも、今では霞んでしまった。ユリウスが生きてくれないと、何の意味もない。
どれだけ涙を流しても、彼はまぶたを開けてくれない。わたしは無力で、手を握ることしかできないのがもどかしくて仕方がない。
「お願い、ユリウス……どうか……どうか死なないで……。わたしを置いていかないで……」
喉がヒリヒリするほど叫びたい思いを噛み殺し、ただ涙を落とす。周囲の医師やハンナが遠巻きにわたしを見守る中、わたしは彼の顔にそっと触れ、熱を伝えようとする。けれど、その指先はむなしく震えるだけだった。
時折、廊下のほうから衛兵の慌ただしい足音が聞こえてくる。コーデリアが完全に拘束された話や、王太子が今後どう対応するかなど、さまざまな情報が飛び交っているらしい。だが、どれもわたしには関係のない遠い世界の出来事だ。
「ねえ、ユリウス。あなた、ずっとわたしを守るって言ってくれたのに……だから、守られたくなんてなかったわけじゃないけど、こんな形で庇われるなんて……どれほど辛いかわかる……?」
独り言のように訴えても、彼の反応はない。わたしは啜り泣きが止まらず、まるで世界に二人きりで閉じ込められたように感じる。背後でハンナが必死に支えてくれるが、彼女も言葉をかけられないようで、ただそっとわたしの髪を撫でてくれるだけ。
「ユリウス……いつ目を開けてくれるの……? わたしは……あなたが……いなくなったら……」
自分の口から出てくる言葉があまりにも弱々しくて情けない。けれど、このどうしようもない不安を抑えられない。大夜会の幕が、こんな悲劇で下りてしまうなんて信じたくなかった。わたしが求めたのは真実の証明だけで、ユリウスを犠牲にするつもりなど一度もなかったのに。
「……お願い……生きて……」
声が小さく途切れる。医師がそばを通り、「傷はひとまず止血しましたが、これからが峠です……」と誰かに言っているのが耳に入る。わたしはもう何も考えられない。ただ「峠」という言葉の響きに胸が凍える。
いくつもの想いが絡まり合い、呼吸まで苦しくなる。歯を食いしばっても涙が止まらず、ユリウスの冷たい手を必死で温めようとする。もしかして、彼の手をずっと握っていれば、戻ってきてくれるかもしれない、と藁をもすがる思いで。
――こうして夜は果てしなく長く続く。わたしの誇りも、名誉も、いまは何の力にもならない。夜会の華やかな音楽も嘘のように消え去り、傷病棟という静寂の中で、わたしはユリウスの呼吸の微弱な乱れに怯えながら過ごすしかないのだ。
誰もがコーデリアの断罪や、王太子殿下の謝罪を語るだろう。しかし、わたしにとっては――ただユリウスが生きていてくれるかどうか。それだけがすべてだった。
もし、彼が命を取り留めてくれたなら、わたしは何度でも「ありがとう」と伝える。そして、すべてを守りきれなかった自分の未熟さを詫びて――。そんな未来を願いながら、今この瞬間も彼の名前を呼び続ける。夜が明ける頃まで、わたしは一度だって彼の手を離そうとは思わなかった。




