第44話 断罪
一方、応急処置室とは対照的に、王太子アルフォンス・エーデルシュタインが主催した大夜会の会場では、痛々しい刺傷事件の余波が冷たい波紋となって広がっていた。先ほどまで美しく音楽が流れていた空間には、重苦しい沈黙と人々のざわめきが同居し、あちこちで「こんなことが起こるなんて……」「あのコーデリア令嬢が、まさか――」と低いささやきが漏れる。
数分前まで、そこには血の匂いを伴う修羅場があった。コーデリア・クロフォード伯爵令嬢が、周囲の度肝を抜くほどの凶行に及んだのだ。結果として、子爵家のユリウス・アッシュフォードが深手を負い、フェリシア・ローゼンハイムが応急処置室へ駆けつけたまま戻ってきていない。大広間の装飾や照明はまだ華麗に輝いているが、その光も虚ろな印象を与え、人々の視線は一斉に「王太子とコーデリア」がいる場所へ注がれている。
宙を漂う緊張の中、コーデリア・クロフォード本人は衛兵によって強引に取り押さえられ、拘束された格好で床にひざまずいていた。彼女のドレスの裾には、自分の行為によってついた血の跡がわずかににじんでおり、かつて多くの令嬢たちの羨望を集めた「伯爵令嬢の美貌」は失せ、荒い呼吸と血走った眼をむき出しにした姿だけがそこにある。
周囲では取り巻きの令嬢たちが、まるで自分たちが巻き添えを食わないように必死に保身を図るかのように、「あれはコーデリア様が勝手に決めたんです」「私たちは従わされただけで……!」と口々に訴えていた。会場にいる貴族たちがその言葉を聞くたび、「なんという卑劣な陰謀……」「これがフェリシア嬢を陥れた手口だったのか」と眉をひそめて噂し合う。
「……なんという醜態だ」
王太子アルフォンスは壇上を下り、大勢の視線を一身に受けながら、コーデリアのもとへ静かに歩み寄った。まだ事件の余韻とユリウス負傷の衝撃で、彼自身の面差しも蒼白だが、その瞳には決意と怒り、そして後悔までもが混ざり合っている。ひときわ冷たい視線をコーデリアに注ぎ、侍従や衛兵たちへ短く指示を出す。
「クロフォード伯爵令嬢……ここまで罪深い行為を重ねていたとは。人を傷つけ、無実の公爵令嬢を陥れ、国の秩序を乱すなど……。貴族社会に大きな汚点を残したと言わざるを得ない」
アルフォンスの声は低く震えていた。そこにはかつてコーデリアと取り交わしてきた社交上の穏やかなやり取りなど、微塵も残っていない。隣では衛兵がコーデリアの腕を締め上げるようにして制止しているが、彼女はまだ錯乱したようにうわごとを漏らしている。
「違う……私は悪くない……フェリシアが全部、私から大事なものを奪った……! あの女さえいなければ、私が王太子妃になるはずだったのよ……!」
ひび割れたような声を上げるコーデリアを、取り巻きの令嬢たちは視線をそらしながら震えていた。もう誰も彼女の味方をする気はないのだろう。人を傷つけるまでに執着した彼女の行為は、常軌を逸し、誰の同情も受けられないほどのものだった。
「コーデリア……これほどの罪を犯しながら、まだ言い逃れをするつもりか。――衛兵長、すぐに身柄を拘束し、厳重に監視せよ。近く、正式な審問を行う」
王太子がそう命じると、衛兵長は深く一礼して「かしこまりました、殿下」と答えた。衛兵数名がコーデリアを両脇から押さえ、立たせるようにして連行の準備を進める。彼女は激しく首を振り、「やめて、こんなの納得できない!」と叫ぶが、その声は誰も相手にしない。むしろ見物人のようになっていた貴族たちが「最悪の令嬢ね……」「ここまでして王太子殿下に近づきたかったのか……」などと、どよめき交じりに嘲るような眼差しを向けていた。
そのとき、侍従が血のついた布切れや書簡らしき束を抱えて王太子のもとへ駆けつける。どうやらユリウスが事前に用意した証拠や、今回の凶行を裏付ける物品らしく、彼の仲間が急いで集めたらしい。侍従は重たい表情でそれらを差し出し、王太子に言葉をかける。
「殿下、こちらはフェリシア様の潔白を示すためにユリウス・アッシュフォード様が用意した書類でございます。さらに、クロフォード伯爵家の取り巻きから押収した記録なども含まれており、コーデリア令嬢が犯した偽造の実態が明確に……」
「……そうか。やはりフェリシアは何も悪くなかったのだな。それどころか、私は……」
アルフォンスはその書類を一瞥した後、悔恨の面持ちで視線を落とす。先ほどコーデリアの陰謀が明らかになった瞬間、フェリシアへの断罪が誤りだったと知り、衝撃を受けたばかり。だが今は、その上にユリウスが刺されるという惨事が重なり、王太子としての責務と自責がさらに圧し掛かっているのが伺えた。
(フェリシアを無実のまま断罪していた……あのとき、もし自分がしっかりと話を聞いていれば、ここまでの悲劇には至らなかったのではないか……)
そんな痛烈な思いが、アルフォンスの胸をえぐる。かつて、「公爵令嬢フェリシア」に対する無理解を抱いたまま婚約を破棄してしまった過去がある。今さら後悔しても遅いが、ユリウスが身を挺してフェリシアを守った姿は、アルフォンスにとって重くのしかかる現実だった。
ほどなくして、レオポルド公爵とエレオノーラ夫人が駆け込んできた。もともと夜会に来ていたが、一連の騒動でフェリシアが姿を消したうえ、ユリウスが刺されたと聞かされて大慌てしている。会場に娘の姿がないことに動揺し、「フェリシアは無事なのか?」と必死に問いただす。その姿には公爵家当主ならではの威圧感と、親としての不安が入り混じっていた。
「殿下……フェリシアは? あの子はどこだ! もしものことがあったら……」
「落ち着いてください、公爵。フェリシアは応急処置室へ行かれたようです。ユリウスが……深手を負い、今は医師が治療にあたっているとの報告を受けています。おそらくフェリシアもそちらで……」
「そんな……フェリシアは大丈夫なのか!? 傷を負ったわけでは……」
「ええ、ご本人は刺されてはいません。ただ、精神的なショックが大きいかと思われます」
重々しい言葉を交わし合ったあと、公爵夫妻は一目散に応急処置室へ向かっていった。その背中には、娘を心配する親の切実さが滲んでいる。会場に残った貴族たちも彼らの姿を目で追いながら、ひそひそと状況を推測しているようだ。
「……騒ぎは収束していないが、ひとまずコーデリアを連行する」
衛兵長が一声かけると、まだ錯乱状態のコーデリアが連行されていく。しがみつくように抵抗しながら、「許せない……フェリシアが憎い……!」と吐き捨てる姿はもはや狂気に染まっており、恐怖と嫌悪が会場の空気を支配する。これまで「完璧な令嬢」を演じていたコーデリアの末路を目の当たりにして、貴族たちは戦慄していた。
「どうやら、これで決まりですね。フェリシア様は無実で、コーデリアがすべて裏で糸を引いていた」
「王太子殿下もお認めになったのだから、フェリシア様の汚名は完全に晴れたということだろう。……ただ、ユリウス様が気がかりだ」
人々がささやくなか、アルフォンスは場の中央に佇み、傷ついた面差しで自らの手をじっと見つめていた。やがて大きく息を吸い、意を決したかのように声を張り上げる。侍従が周囲の注意を促し、会場の貴族たちがざわめきを止めた。
「皆の者、話を聞いてほしい。……まず、フェリシア・ローゼンハイムに対する断罪は、間違いだった。私は、彼女を誤って貶め、結果として長らく苦しませてしまったことを心から謝罪する」
まばゆいシャンデリアの光が照らすなか、王太子の口から発せられた「謝罪」という言葉に、会場の貴族たちは大きく息を飲んだ。アルフォンスはさらに続ける。
「フェリシアを陥れる捏造の証拠が、クロフォード伯爵令嬢によって仕組まれていたと判明した。私自身が見極めを怠り、フェリシアを守れなかった責任は重い。……いずれ、皆の前でフェリシアに直接詫びたいが、今は彼女が応急処置室に向かったままだ。ユリウス・アッシュフォードが負傷し、命の危険にある。……私は、その犠牲を、簡単に取り戻せるとは思えないが……」
声を詰まらせながら、アルフォンスは言葉を探す。視線を落として握り締めた拳がわずかに震え、心の底にある後悔や悲しみが透けて見えるようだった。周囲に立ち尽くす貴族たちも、それ以上何を言えるはずもなく、ただ黙って王太子の発言を受け止める。
「本来なら、私がフェリシアを守るべきだった。だが、それを果たせず、ユリウスに大きな負担を……。……これ以上、言葉が見つからない。すべて終わったあと、フェリシアにきちんと顔を合わせて謝罪するしかないだろう」
それだけ言うと、アルフォンスは深く頭を垂れる。王太子として、こんな場で頭を下げるなど前代未聞だが、それほどの覚悟と後悔がないと示せないのだろう。貴族たちはその姿に動揺しつつも、悲劇に巻き込まれたフェリシアとユリウスを思いやり、誰も軽々しく声をかけられない。
こうして、コーデリア・クロフォードの陰謀は完全に暴かれ、フェリシア・ローゼンハイムの無実は白日の下に晒された。しかし、その代償として、ユリウス・アッシュフォードが重傷を負い、フェリシアは応急処置室で彼の生死を案じながら泣いている。夜会の余韻などまったくなく、貴族たちも夜を迎えたこの宴に言葉を失うばかりだった。
アルフォンスが自責の念に苛まれ、コーデリアが身柄を拘束され、フェリシアが血の涙を流しているこの結末――。誰もが「いつかはこのような惨事が起こり得たかもしれない」と思いつつも、あまりに容赦ない現実に息を呑んでいた。
かくして、大夜会は皮肉なかたちで幕を閉じる。コーデリアは「貴族社会における大罪人」として断罪され、フェリシアの汚名は雪がれた。だが、ユリウスの命が今どうなっているのか、フェリシアの嘆きはどう解消されるのか――その結末はまだ、誰にもわからないままであった。




