第41話 告発
しばらくの時が流れ、夜会は佳境へと入っていた。
あれほど騒がしかった開幕のざわめきも落ち着きを見せ、代わりに音楽の調べがゆるやかに盛り上がっているのがわかる。貴族たちの間には、次に王太子殿下がどう動くか――という期待が満ちているようだった。まるで舞踏曲が、近づく運命の瞬間を告げるかのように、ゆっくりとテンポを変えている。
わたしは控室で身支度を整えながら、心を落ち着けるよう何度か呼吸を繰り返していた。鏡に映る自分の表情は硬く、ドレスの胸元も小さく上下に波打っている。噂好きの貴族たちが、きっとわたしが何をしに戻ってきたのかを面白がっているだろう。けれど、その好奇の視線さえ今はかまう余裕がない。
「フェリシア様……まもなく王太子殿下のご挨拶が始まるようです。そろそろ出られますか?」
控室の扉のそばで待機しているハンナが、小声で教えてくれる。わたしはうなずいて、テーブルに並べていた書簡や資料を最後に確かめた。わたしを陥れた「捏造」の証拠。ユリウスが仲間と協力してまとめ上げた書類。これまで疑いの目を向けられ続けたわたしを救う、いや、わたし自身が戦い取るための切り札だ。
「ええ、行くわ。……ありがとう、ハンナ。あなたがいてくれるから心強いわ」
「わたしこそ、フェリシア様がここまで決意を固められたことを誇りに思います。ユリウス様も最終確認をしているみたいです」
ハンナの言葉が胸に沁みる。ほんの少し前、わたしはこの場に立つことを恐れていたはずなのに、いまは自分から舞台に上がろうとしている。深く息を吐き、ドレスの裾を優雅に持ち上げながら席を立つと、ハンナが扉を開けてくれた。
会場に戻ると、そこには華麗な舞踏がいったん中断され、視線を集める王太子アルフォンス殿下の姿がある。
照明が一段と明るくなったのか、彼の立つステージが浮かび上がるようにくっきり見えた。わたしの胸が高鳴る。あの人はかつてわたしを――公衆の面前で――婚約破棄という形で断罪した。それを思い出すだけで、背筋が泡立つような痛みを感じる。けれどいまは、わたしのほうが「決着」を付けるためにここにいるのだ。
アルフォンス殿下が重々しい声で口を開く。
「……皆さま、今宵はご多忙の中、王宮の夜会にご出席いただき感謝します。国の繁栄を祝うこの催しが、皆さまにとって意義あるものになるよう――」
そこまで述べてから、殿下はわずかに言葉を切った。まるで何かを探すかのように、その視線が会場のあちこちを見回っている気がする。周囲の貴族たちは殿下の公式挨拶を待ちわびていたようで、緊張に満ちた静寂が広がった。
「……王家の責任者として、わたしは諸侯との結束をさらに強くし、国を安定へ導く所存です」
形式ばった言葉が続くが、どこか精彩を欠くようにも思える。彼の近くには――やはり、コーデリアが立っている。薔薇色の華麗なドレスに、どこか高飛車な笑みを浮かべながらも、その目には焦りのようなものが見え隠れしているのが気になった。
(コーデリア……あなたも、自分の策略が暴かれると知って、落ち着かないのかしら?)
わたしは視界の端で彼女の様子を探りつつ、ゆっくりとフロアの中央へ向かう。これ以上隠れている必要はない。ユリウスからの合図を待たずとも、わたしは堂々と姿を示すべきだと悟っている。そして、ちょうどステージの近くで人々がわたしに気づき、ざわっと小さな声が上がる。
「フェリシア様……?」
「まさかこの場で何を……?」
視線が一斉に集まるのを感じ、わたしはドレスの裾をなびかせながら壇上に近づいた。ハンナが直前まで一歩後ろで控えてくれていたが、わたしがステージに足をかけようとすると、彼女もユリウスへ視線を送り、動き出すよう合図を送っている。
アルフォンス殿下はわたしの姿を認め、眉を寄せて戸惑ったように息を飲む。しかし、ここで殿下が「出ていけ」と言うわけにもいかない。なぜなら、わたしは公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイム。かつて殿下の婚約者だった存在なのだから。
「殿下……失礼を承知で申し上げます」
わたしが高らかに声を放つと、演奏がぴたりと止み、周囲の人々の意識が完全に集まるのが分かる。コーデリアは「何の真似?」という視線を投げかけつつ、わたしのほうへ足を踏み出すが、わたしは動じずに続ける。
「わたくし、フェリシア・ローゼンハイムは、過去に王太子殿下から『裏切り者』として断罪され、婚約を破棄されました。しかし、本日ここで、いくつかの証拠を提示させていただきたいと思います。わたくしが罪人などではなく、『捏造された証拠』によって貶められたのだということを」
大広間が大きくざわめいた。貴族たちが「捏造?」「そんな話が……」などと口々にささやく。コーデリアが「馬鹿なことを言わないで!」と叫ぼうとするが、ちょうどそこへユリウスが姿を現し、わたしの隣にそっと寄り添うように立った。
「殿下、こちらをご覧ください。これは、クロフォード伯爵家の周辺で流通していたとされる文書です」
ユリウスが指し示すのは一冊の綴じられた資料。そこには、王太子殿下の署名を真似た印影と、実際の王宮で使われる印章と微妙にずれた紋が並んでいる。その不自然さを説明するユリウスの声ははっきりと響き、周囲の耳目を奪う。
「……こ、これは何を意味するのです? ユリウス様、あなたが王太子殿下を貶める文書を勝手に作っているのではなくて?」
わたしを遮ろうとするコーデリアが言い放つが、ユリウスは一歩も引かない。むしろ余裕さえ感じられる口調で、返してみせた。
「いいえ、こちらは逆に、『王太子殿下を偽装した書簡』が広められていたことを示す証拠です。紙の質や印刷の手法が正規品と異なり、紋章の刻印も王宮のものとはわずかに違う。これがコーデリア様の周辺から出回っていたと、多くの証言があるんですよ」
「そんな、証言とはいえ……でっち上げかもしれませんわ! わたくしがいつ書簡を配ったというの?」
「あなたが直接配ったとは限りません。しかし、あなたの取り巻きが積極的に『フェリシア様こそ裏切り者だ』と書かれた書簡を吹聴していた事実は、今ここにいる複数の方が証言してくれるはずです」
ユリウスがそう言った瞬間、ざわつく人々の中から何人かが身を乗り出し、「あれは確かにおかしかった」「コーデリア様の令嬢仲間が殿下の名を使って文書を見せていた」と声を上げ始めた。わたしはそれを聞き逃さずに、強くまぶたを閉じて安堵する。
(よかった……わたしの言葉だけじゃなく、目撃者もちゃんと勇気を出して言ってくれるんだ。これでコーデリアの仕業だと立証できる。もう逃げられないわ……)
コーデリアは蒼白な顔で取り巻きに目をやるが、取り巻きたちも怯えたように目を逸らすばかり。これまでの冷静な笑みはどこへやら、その姿はただ狼狽しているだけに見えた。
アルフォンス殿下は資料を手に取り、まじまじと眺めながら深刻そうに黙り込んでいる。わたしはその横顔を見つめながら、胸の奥が重たくなるのを感じた。彼自身がこの捏造を見抜けず、あの日わたしを断罪したのだ。どれほどの後悔を抱いているだろう。
「殿下……どうか、今この場で、ご判断を下してください。もしわたくしが本当に裏切り者だというのなら、改めて罰を受けることを受け入れましょう。ですが、捏造の事実が明らかになった今、わたくしの名誉を回復していただけるなら――」
わたしは言葉を絞り出すように告げる。かつては王太子の婚約者として彼を支えるはずだった身が、こうして真っ向から迫らなければならないことに切なさを覚えつつ、もう後戻りはできない。
アルフォンスは苦渋に満ちた表情で、コーデリアに視線を投げかけた。彼女はなおも小さく首を振り、必死に抗議しようと唇を震わせる。
「ち、違う……こんなの、全部嘘……! 殿下をお守りしようとしただけのわたくしが、どうしてこんな疑いを……!」
「コーデリア……。君に裏切られたとすれば、私はフェリシアにどう償えばいい?」
殿下の声には、抑え切れない悲痛が混ざっている。その瞬間、コーデリアの瞳が何かに怯えたように揺れる。わたしはその動揺から、彼女がついに「追いつめられた」のだと確信する。
「これで、わたしの――わたしたちの戦いは勝ったも同然……」
そう胸にわずかな勝利の余韻が広がりかけた。ユリウスと目を合わせ、ほっと小さく息をつく。周囲の貴族もまた、この急展開に息を呑んでいるようだった。王太子を偽装する書簡という前代未聞の不正が明るみに出るなど、誰も予想していなかったのだろう。
――だが、そんな余韻に浸るまもなく、事件は起きた。




