第40話 運命の夜会
夜の王宮は、いつにも増して華やかな熱気に包まれていた。
わたしは馬車を降りてから、広大な庭園を横目で見渡す。そこには、まるで夜空の星々を地上に映したかのように、無数のランタンの灯りが浮かんでいた。石畳を進んで回廊を抜ければ、あたりはすでに貴族たちの熱気と、きらめくドレスの彩りで満ちている。しんとした夜の空気よりも、濃厚な香水の香りと人々の視線がわたしの肌を刺激してくるようだ。
今宵の大広間は、年に一度、王太子アルフォンス殿下が主催する盛大な夜会。毎年のことながら豪華絢爛な演出だと聞いていたけれど、今年はどうにも空気が張り詰めている気がする。わたしの存在、そしてコーデリア・クロフォードが「新たな婚約者候補」と噂されることが、貴族たちの期待と不安をより膨らませているのだろう。
ひんやりとした夜風が背中を押すように、大広間の入り口へと歩を進める。そこにはすでに、きらびやかな衣裳を纏った貴族たちが大勢集い、王太子殿下の夜会を盛り上げていた。高い天井には荘厳なシャンデリアがいくつも吊り下げられ、床に映る輝きがまるで星の海のように揺らめいている。
わたしは、公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイムとして、今宵に重々しい決意を胸に秘めている。かつて婚約を破棄された身でありながら、今ここに姿を現す意味。それは、ユリウスをはじめとする仲間の力を借りて、コーデリアの陰謀を暴くため……そして、わたし自身の名誉を取り戻すためだ。
身につけているドレスは、濃紺を基調とした落ち着いたデザイン。けれど、銀糸を用いた繊細な刺繍が胸元から裾にかけて流れるように施されていて、地味には見えないよう工夫してある。華やかすぎず、しかし「公爵令嬢」としての威厳を保つには十分。襟足までしっかりまとめた髪には、同色のリボンと小ぶりの髪飾りをつけた。こうしてわたしは、先日の断罪などなかったかのように堂々と振る舞おうと意識している。
けれど、周囲の視線はやはりわたしを捉えて離さない。「あのフェリシアが、よくもまあ現れたものだ」「殿下にあれほど厳しく断罪されていたのに」……そんなささやきが聞こえてくる気がする。内心、胸が痛まないわけではないが、わたしは腰に力を入れて歩みを止めない。
「フェリシア様、大丈夫ですか?」
隣を歩いている侍女のハンナが、気遣わしげに耳打ちしてくる。わたしはわずかに微笑んで答えた。
「ええ、問題ないわ。視線くらい、今となってはどうということもないもの」
そう、本当に今さらだ。婚約破棄を王宮で突きつけられて以来、わたしはそれ以上の屈辱をいくつも味わってきた。だからこそ、ここでひるむわけにはいかない。わたしはあくまで、公爵令嬢としての誇りを示すため、この場に立つのだ。
円形の舞踏スペースを見やると、すでに何組もの貴族が軽やかなステップを踏み、優雅な演奏に合わせて踊っている。ドレスやタキシードの裾が翻るたびに、絵画のような光景が繰り広げられていて、本来なら心を奪われそうな美しさだ。
だけど、今のわたしには余裕がない。視線を少し先にやれば、いちばん目立つ位置に高座が設けられていて、そこにアルフォンス殿下とコーデリア・クロフォードが並んで立っているのが見えた。
「……やはり、あの人が王太子殿下の隣にいるのですね」
ハンナが小さくつぶやく。わたしも目をそらさずに、あの二人の姿を見つめる。まるで既定路線だとばかりに、コーデリアは腕をそっと殿下に添えている風にも見える。今日の彼女は、薔薇色の豪華なドレスを纏い、取り巻きらしい令嬢たちに囲まれていた。その表情は誇らしげだ。
けれど、殿下――アルフォンスの横顔は、どこか浮かない様子に見える。張り付いたような笑顔で周囲に応対しているが、その瞳はかつてわたしが知っていた「優しくも真っ直ぐ」なアルフォンスの面影を取り戻せずにいるようで、わたしの胸はざわつく。
(いまさら、あの人が何を考えているかなんて……気にしても仕方ない)
そう自分に言い聞かせ、足をもう一歩進めたときだった。
「――フェリシア」
聞き慣れた声に振り返ると、そこにはユリウス・アッシュフォードが静かに立っていた。正装姿で、やはり緊張感が顔に浮かんでいるが、その瞳には確かな意志が宿っている。わたしはわずかに笑みを返し、声を潜めて彼のそばへ。
「ユリウス。準備はうまくいっている? わたしは大丈夫よ、覚悟は決まっているから」
「もちろんだよ。仲間たちが控え室で資料を保管していて、いざというときにすぐ動けるようにしてある。焦る必要はないけど、タイミングを見誤らないようにしよう。――夜会の後半で殿下が挨拶をするとき、そのときが勝負だ」
「ええ。……あなたがそう言ってくれるだけで、心強いわ。いろいろありがとう、ユリウス」
わたしは彼にそっと礼を述べる。つい最近まで、わたしはユリウスを巻き込みたくない一心で拒み続けていた。それでもなお、彼はわたしを救おうと全力を尽くし、捏造書簡の証拠などを集めてくれたのだ。
「いいんだ。俺が助けたいと思ったから、勝手に動いただけだよ。……さあ、俺はもう少し会場を回ってくる。殿下の正式な挨拶が始まる合図があるまで、君はここで堂々としていて。みんな、君を注目してるからね」
「ええ、わかってる。あとでまた声をかけるわ」
ユリウスがすれ違う貴族たちに軽く会釈しながら姿を消していく。わたしは深呼吸をして、ほんの少し胸を張る。この場で萎縮してしまえば、噂に飲み込まれて終わるだけ。わたしは公爵令嬢であり、この勝負を挑みに来たのだ。
「ごきげんよう、フェリシア様」
突然の声に、わたしは身構える。気づけばそこにコーデリアがいた。ドレスの裾をなびかせ、にこやかに微笑むその姿は、まるで舞台女優のよう。しかも、その隣にはアルフォンス殿下までいる。取り巻きの令嬢たちが楽しそうにささやき合い、こっちを値踏みするように視線を投げかけてくる。
「あら、コーデリア。……相変わらず華やかね。王太子殿下の隣は、よほど居心地がいいみたい」
わたしは嫌味を隠さず返す。彼女はくすっと笑って、わざと殿下の腕に触れるしぐさを見せつけるようにする。その動きに、アルフォンス殿下は困ったようにわたしを見つめるが、何も言わない。
「まあ、わたくしも殿下のお役に立てるなら光栄ですもの。だけど、フェリシア様……ずいぶんと余裕なのね。殿下にあれほど酷く断罪されておきながら、今日のこの夜会に来るとは」
「残念だけど、わたしは自分の名誉を守るためにも、こういう場に出ることをやめる気はないわ。公爵家がそんなに簡単に潰れると思わないでちょうだい」
「ふふ、そちらこそ『必死』なんでしょうけれど……。殿下、ご覧になって。フェリシア様はまるで何もなかったかのように振る舞っていますよ」
コーデリアが殿下に問いかけるも、アルフォンスはかすかな苛立ちを見せ、「コーデリア、口を慎め」と低く叱るように言い放つ。わたしはその瞬間、ほんの少しだけ意外に感じた。殿下がコーデリアをたしなめるなんて、初めてではないかしら。
(アルフォンス、あなたは何を思っているの……?)
そう問いかけたくなったが、わたしは沈黙を続ける。やがてそばにいた侍従が「殿下、ご来賓へのご挨拶をお願いいたします」と促し、アルフォンスは不機嫌そうなまなざしをわたしに向けたまま、仕方なくその場を離れていった。コーデリアも続いて離脱する直前、嫌みたっぷりの笑みをわたしに投げかけてくる。
「勝手に注目を浴びようとしても無駄よ、フェリシア様。あなたの行き着く先はもう決まっているんだから」
わたしは唇を結び、何も言い返さない。心底、わたしを見下しているのが伝わるその態度に、胸が熱くなるほどの怒りを覚えるが、今はまだ感情をぶつけるときではない。ここで無駄にコーデリアと言い合いになるより、最後の瞬間まではわたしのほうが優位に立つ準備をすべきなのだ。
(そう……「最後」はもうすぐ。わたしは絶対に負けない)
大広間の中央では、貴族たちが舞踏に興じ、周囲から響く音楽は優美な調べを奏でている。しかし、その華やぎの裏側にはピリついた空気が漂い、わたしやコーデリア、そしてアルフォンスを見つめる人々の視線が交差しているのを感じる。
――ユリウスはここで動じないで、と言っていた。わたしは彼を信じ、深呼吸をして落ち着きを取り戻す。まだ夜会は始まったばかり。今は一時、控室に下がり、後半に用意された王太子殿下のあいさつの瞬間を待つだけだ。あそこでわたしが堂々と前に出て証拠を突きつければ、きっと誰もが無視できなくなる。
そう、この華麗なる大舞台で、わたしは決着をつける。
もし失敗すれば、二度と立ち上がれないかもしれない。それでも「公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイム」としてここにいる限り、コーデリアの嘲笑にも、周囲の懐疑的な視線にも屈しはしない。わたしには、ユリウスや仲間、そしてこれまで積み上げてきた誇りがある――それこそが、わたしを支えているのだから。
静かに握りしめた手のひらに、かすかに力がこもる。たとえコーデリアがどんな策を巡らせていようと、わたしたちが用意した捏造書簡の証拠を突きつければもう言い逃れはできないはず。あの王太子殿下だって、かつて自分が下した断罪が誤りだったと知れば、黙ってはいられないに違いない。
(どうか、ユリウスが無事に動けるように。わたしにも、少しの勇気を……)
そう祈りつつ、わたしは人目を避けるようにして控室へ向かう。遠くでコーデリアの笑い声が耳に残るが、もう振り返らない。
長く苦しかった日々の先に、わたしはようやく「光」が見え始めている。この夜会で、真実を示す――名誉を失いかけたわたしが、誇りを取り戻すための最後の挑戦。
大広間の外へ出るとき、わたしはもう一度だけ拳をきゅっと握った。この先にあるのは勝利か、それともさらなる破滅か。だけど、もう怖がる暇はない。わたしが自分でつかまなければ、未来などやって来ないのだ。
わたしの視線がまっすぐ向かう先には、コーデリアを追いつめるための筋書きがはっきりと浮かんでいる。王太子殿下が過去の断罪を悔い改めることになるのか――その運命の一瞬が、いよいよ近づいているのを感じた。
(あなたを信じていたのに裏切られたわたしに、もう一度生きる力をください。どうか……最後はわたしが笑っていられますように)
そう胸中でつぶやき、階段の手前で背筋を伸ばす。わたしのドレスの裾が揺れ、豪華な装飾に彩られた王宮の一角を優雅に映し出す。控室への長い廊下を踏みしめながら、わたしは決して揺るがない決意を噛み締めていた。
――そして、この大夜会の後半に起こるであろう「真実の暴露」と、「名誉の奪還」を想像するだけで、胸が激しく高鳴るのだった。




