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第4話 誇り

 王宮からの帰り道、わたしはほとんど意識がぼんやりとしていた。頭が痛いわけではないのに、まるで身体と心が別々になってしまったかのような妙な感覚。馬車の振動がいつもより重たくて、胸の奥をガンガンと叩かれているようだった。


(わたし、本当に婚約破棄……されたんだ)


 そんなありえない現実を、まだ受け止めきれないまま、何度も反芻(はんすう)する。心は絶叫しているのに、不思議と涙は一滴も出てこない。わたしの中で何かが壊れてしまったかのように、感情が麻痺しているのだろうか――。


 気づけば馬車は公爵邸の正門をくぐり、なじみ深い中庭へと進んでいた。いつもなら品のある花々や丁寧に刈り込まれた植木が目を楽しませてくれるのに、今日はそれらがまるでモノクロの景色に見える。


 扉が開いて、従者が静かに「お嬢様」と声をかける。わたしはほとんど反射的に足を動かして外に降り立った。玄関ホールでは多くの使用人が出迎えてくれたが、いつもするような軽い挨拶を返す気力が湧かない。軽く会釈するだけで、足早に屋敷の中へ進んだ。


「フェリシア様、お帰りなさいませ」


 真っ先に駆け寄ってきたのは、侍女のハンナ。可愛らしい小柄な子で、幼いころからわたしを慕ってくれている。いつもは「お嬢様、今日もお綺麗ですね」なんてにこにこ笑って声をかけてくれるのに、今日は明らかにおどおどしていた。


「フェリシア様……その、お顔がすごく青ざめていらっしゃいます。何か……」

「……ごめんね、ハンナ。少し部屋で休みたいの。あまり人と話す気力がないの」

「そ、そうですよね。ええ、もちろんです。何か必要なものがあれば、すぐ呼んでくださいね」


 優しく気遣ってくれる彼女を見ていると、わたしは胸が痛んだ。何も説明しないまま、「王太子殿下との婚約破棄」という衝撃的な事実だけが、いずれ公爵家中に知れ渡る。そうなったとき、ハンナはどう思うだろう。そう考えると、胃のあたりが重くなり、さらに言葉が出なくなってしまう。


「ありがとう。……少し一人にしてほしいの」

「かしこまりました、お嬢様。ごゆっくりお休みください」


 ハンナの遠慮がちな声が後ろで聞こえたが、わたしは振り向かずにそのまま廊下を進んだ。使用人たちも、みな心配そうな顔をしている。けれど、かけられる言葉に答える余裕がない。無言で通り過ぎるわたしを見て、誰もが戸惑ったようだった。


 そして、自室のドアを開けると――


 そこにはわたしの母、エレオノーラ・ローゼンハイムが待ち構えるようにソファに腰掛けていた。いずれ誰かから情報が入り、こうして迎えてくれることは覚悟していた。けれども、母の深刻そうな表情は想像以上で、わたしの胸がまたきゅっと縮こまる。


「フェリシア……帰りましたね」


 落ち着いた口調だけれど、瞳の奥に不安が宿っているのがわかる。母は公爵夫人として常に完璧な振る舞いを心がけている人だけれど、そんな彼女の声にはわずかな震えが混じっていた。


「ただいま、母様。……ごめんなさい、騒がせているわね」

「さっそく耳にしました。式典の途中であなたが帰ってきたこと、それから……王太子殿下の『婚約破棄』の話。フェリシア、本当なの?」


 母の問いに、わたしは目を伏せる。なんて答えればいいのだろう。


 もし「何もしていない」と言っても、この事態を母が納得できるとは思えない。けれど、わたしは事実を隠すつもりもなかった。そこで意を決して口を開く。


「……ええ、真実よ。わたしとアルフォンス様の婚約は、王宮で公式に破棄されました」


 息を飲む母の仕草が、やけにゆっくりに見えた。部屋の空気が一段と重くなった気がする。いつもなら柔らかな香りが漂うわたしの部屋すら、今は陰鬱な色彩に染まっているかのようだ。


「一体何があったの? 王太子殿下はわたしたち公爵家を敬ってくださっていたはず。どうして急にそんな――」

「わかりません。……殿下から、一方的に『証拠』と称する書類を突きつけられて、わたしが不正を働いたと糾弾されたの」

「不正……そんなのありえないわ。あなたが、王家の財務を動かすだとか、他の令嬢を(おとし)めるだとか、そんな話を耳にしましたけど……本当に?」


 母の焦るような声。きっと、わたしが何か弁解しないかと期待しているのだろう。わたしはうなずく代わりに、小さく息を吐いた。


「母様、わたしは何もやっていません。断言できます。けれど……殿下はそうは思っていないようで……」

「……そう。あなたを信じないわけじゃないけれど、こんなこと、父上が聞いたらどうなるか……」


 そこまで言うと、母は立ち上がり、わたしの肩に手を置いてくれた。その手が震えているのを感じる。きっとわたし以上に、不安や怒りを抑え込んでいるのだろう。父――レオポルド公爵がこの話を知れば、ただで済むわけがない。公爵家の威光に泥を塗られたのだから。


「ねえ、フェリシア。あなた、一人で抱え込まないで。わたくしたちは家族でしょう?」

「……わかってる。でも、今は少し休ませて。気持ちの整理がつかないの」

「……そう。わかったわ。無理はしないで、しっかり休むのよ」


 母が部屋を出て行ったあと、ふうっと大きく息をついて、わたしはベッドに腰を下ろした。頭がじんじんと痛む。ほんの少しでも横になれば楽になれるかと思ったが、不安や屈辱が渦を巻き、まるで心が休まらない。


「お嬢様、失礼いたします」


 そこへ再び、恐る恐るという様子でハンナが入ってきた。よほど心配してくれているらしい。けれど、今のわたしには彼女の優しさに甘えることすらつらかった。


「ハンナ、ありがとう。大丈夫よ、ゆっくりしているから」

「で、でも……お水かお茶をお持ちいたしますか? それとも、毛布を――」

「大丈夫。何もいらないわ。少し一人になりたいの」

「……わかりました。お気持ちが落ち着いたら、いつでも呼んでくださいね」


 ハンナは名残惜しそうに一礼してドアを閉めた。その音が妙に大きく響いて、わたしはごくりと喉を鳴らす。これが「婚約破棄」という現実なのだと思い知らされるようで、胃が痛くなった。


 ベッドから立ち上がって、ドレッサーの前へ向かう。そこにはいつもと変わらない香水やブラシが整然と置かれていた。だというのに、わたしの心はまったく落ち着かない。


(わたしは、いったい何を間違えたんだろう……?)


 ふと、鏡の中に映る自分の顔を見て、思わず息を呑む。かつては「完璧な公爵令嬢」と言われたわたしの姿が、まるで別人のようにやつれている。唇には血の気がなく、頬も心なしかこけて見える。こんな顔、初めて見るかもしれない。


「……あんなに、努力してきたのに」


 ぽつりとつぶやく声が、静かな部屋に虚しく溶けていく。父や母、そして使用人たちの期待に応えるために、ずっと――本当にずっと、わたしは頑張ってきた。王太子妃になるためだけに、礼法や舞踏、音楽、学問……あらゆることを詰め込んできたのに。


 それらが、あの一瞬の「裁き」で全て否定された。王太子殿下に、「お前は嘘つきだ」と一方的に宣言され、貴族たちの面前で恥をかかされ、挙句の果てには婚約破棄――。


 思い出すほどに怒りと悲しみがない交ぜになり、どうにかなってしまいそうだ。けれど、涙はまだ出てこない。心が強張っている証拠だろうか。


 ぼんやりと鏡を見つめていたわたしの目に、ふとドレッサーの片隅に置かれた古い髪留めが映った。淡い花模様の飾りがついた、小さなリボンのついたもの。幼いころに母が買ってくれた、お気に入りの品だった。


(そういえば、あのころはまだ……)


 自然と、意識が過去へ(さかのぼ)り始める。父の厳しい指導、母の優しい励まし、そして初めて王宮に出向いた日のこと――。あんなに小さかったわたしが、父に連れられて豪奢な宮殿を見上げ、眩しさに目を細めながら舞踏の練習をしていたことを思い出す。


 アルフォンス様とも、初めて会ったときはまだお互い幼かった。彼は居心地悪そうな表情ながらも、真面目に学問に取り組んでいて、意外と几帳面な子だと思った。


 ――そんな淡い記憶が、この髪留めに結びついている。


 わたしは髪留めをそっと手に取り、その冷たさを確かめるように指先でなでた。すると、不思議なほど当時の光景が頭の中に浮かんでくる。夜遅くまで書を学び、礼法を練習し、それでも父に「まだ足りない」と叱咤(しった)され。悔しくて泣いたこともあったっけ……。


(わたし、ずっと努力してきたじゃない。どうして、こんな理不尽なかたちで全てを失わなきゃいけないの……?)


 胸に湧き上がる悔しさとやるせなさ。それでも諦めるつもりはない。このまま「フェリシア・ローゼンハイム」としての誇りを踏みにじられて引き下がるなんて、わたしにはできない。


「……わたしが間違っていないなら、いつか必ず真実は明らかになる。絶対に諦めたりしないわ」


 そう決意を口にすると、ほんの少しだけ肩の力が抜けた気がした。婚約破棄という苦い現実は変わらないけれど、まだ終わりではない。


 わたしは改めて鏡を見据え、深呼吸をする。血の気がない自分の顔は見るに耐えないけれど、いまは仕方ない。少しでも休んで、気力を取り戻そう。いずれ、父が帰ってくる。そこで改めて話し合うことになるだろうし、きっとまた厳しい言葉を浴びせられるに違いない。


 ――でも、それでも。わたしは足を止められない。だって、それが公爵令嬢として育ったわたしの宿命なのだから。


 幼いころからひたむきに努力してきた自分を裏切らないためにも、ここで折れるわけにはいかない。


 そうして、暗く重苦しい空気を抱えたまま、わたしは髪留めを握りしめ、そっと目を閉じた。部屋の外では、母やハンナが心配そうにわたしの名を呼んでいるのがかすかに聞こえる。だけど、いまは少しだけ、一人で過去を振り返らせてほしい。


 ――この断罪の嵐の始まりを超えるために、まずはわたし自身の原点を見つめ直すことが必要な気がしたから。

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