第39話 招待状
少し暑さが増してきた初夏の光が、わたし――フェリシア・ローゼンハイムの部屋のカーテンを透かして差し込んでいた。さわやかな朝の訪れも、胸の奥で芽生えた気持ちにかき乱され、どこか心が落ち着かない。そんなもどかしさを振り払うように、わたしは窓辺で深呼吸を繰り返す。
――先ほど、公爵家の執事が慌ただしく届けてくれたもの。それは、きらびやかな王紋をあしらった封書だった。差出人の名前には、王太子アルフォンス・エーデルシュタイン殿下。想定外のその名に、わたしは思わず眉をひそめる。
「フェリシア様、まさか王太子殿下から直接、夜会の招待状が届くなんて、驚きです。断罪後のフェリシア様に、再び公的な場への参加を呼びかけるなんて……」
侍女のハンナが、手紙を読み上げながら困惑気味にわたしを見つめる。けれど、わたしはその文面を流し読みしてから、机の上にそっと置いた。心の底ではわずかに動揺を感じているのに、なるべく表情には出さない。
「確かに意外ね。わたしのことを完全に切り捨てたのだと思っていたのに、こうして正式な夜会へ誘うなんて。……何を考えているのかしら、アルフォンスは」
「もしかしたら、殿下もなにか思うところがあるのではないでしょうか。コーデリア様との婚約を急ぐ話が出ているとも聞きますが、それでもフェリシア様を無視できない……そんな状況にあるのかもしれません」
ハンナがそう推測するのを聞きながら、わたしは招待状を一瞥する。あのアルフォンスから――断罪したはずのわたしを呼ぶ。それがどんな意図であれ、わたしが取る道はひとつだ。断るわけにはいかない。なぜなら、わたしにはこの夜会こそが「最後の舞台」になると確信できる理由があるからだ。
「ユリウスが言っていたわ。『大夜会の場でこそ、堂々と証拠を出してコーデリアの陰謀を暴くことができる』って。……まさにその夜会に、王太子殿下がわたしを招くなんて、タイミングが良すぎるわね」
「フェリシア様、ここが勝負ですね。コーデリア様が王太子殿下との縁談を確実にしようとしている状況で、フェリシア様がこの夜会に出れば、否が応でも二人が正面衝突する形になりますし」
「ええ。そうなれば、わたしの無実を証明するために用意した証拠を披露できる。コーデリアが何を仕掛けようと、あの場で殿下に見てもらえば、さすがに黙殺はできないはず」
胸の奥で、熱いものがふつふつと沸き上がる。怖い。正直に言えば、怖さはある。夜会という華やかな舞台で敗北すれば、わたしの名誉は完全に失墜するかもしれない。けれど、ここまで来た以上、下がるわけにはいかない。
机の上に置かれた招待状を、改めて拾い上げる。やはり王太子直々の署名が誇らしげに描かれていて、かつての婚約者としてその名を懐かしく思う反面、断罪され傷ついた記憶が胸を掻きむしる。
「……これが、アルフォンスの本心かどうかは知らない。もしかしたら、わたしをさらに追い詰めるためかもしれない。でも、それでも構わない。あの日のわたしとは違う。いまはユリウスや、ハンナたちの助けを借りられる」
「そうですね。フェリシア様がユリウス様に『共闘』を正式に申し入れたのも、ちょうど先日のこと。証拠も十分集まりましたし、コーデリア様を一気に追い詰めるには絶好のチャンスじゃないでしょうか」
「うん。ユリウスも言ってた。『夜会で殿下が皆の前にいるときこそ、一番効果的だ』って。わたしの名誉を取り戻すには、この大勢の前で証拠を突きつけるしかない。コーデリアがどれほど準備してきても、わたしは負けないわ」
口にした言葉は、自分への励ましでもある。喉の奥が乾くような緊張を覚えながらも、視線は確固たる意志を宿している。わたしはフェリシア・ローゼンハイム、公爵家の令嬢として生まれ、王太子に仕える人生を当たり前に信じてきた。その夢が砕かれた今こそ、誇りを取り戻す瞬間が迫っているのだ。
「フェリシア様……夜会まであとわずかですよね。ドレスのご用意はいかがされます? 以前のものを使われるか、新調なさるか……?」
「ああ、そうね。夜会が近いなら、やはり新しいドレスを考えたほうがいいかもしれない。公爵家の令嬢として、最高の姿を見せる必要があるし。それに……ユリウスからも『当日、目立って注目を集めよう』と言われてるから」
ハンナが「わたし、ドレスの調達もお手伝いします!」と意気込むのを見て、わたしは小さく微笑んだ。こんなときに、彼女の存在は本当にありがたい。
わたしは再び招待状を見やり、アルフォンスのサインを指先でなぞる。王太子殿下がわたしを夜会に招く理由――それが心の奥でどこか気になるのも否めない。あの人が本心ではわたしを救おうとしているのか、それとも最後まで弁明の機会を与えるだけなのか。
「でも、決意は変わらない。もしアルフォンスがわたしを完全に切り捨てるつもりなら、そこでもう一度決戦を挑むだけ。ユリウスやハンナ、みんなのためにも負けないわ」
「フェリシア様……! どうか、堂々とやってください。あのコーデリア様にずいぶん泣かされてきましたけど、逆転の時はもうすぐです」
「ええ。わたしたちが集めた証拠を組み合わせれば、きっとコーデリアは逃げられない。殿下がどう受け止めるか次第だけれど、何もしなければ結果は同じだもの」
言葉を発するたび、胸の中の不安と期待が交差する。王太子殿下へのわだかまり、コーデリアへの怒り、わたしが積み重ねてきた努力、そしてユリウスとの共闘――それらがすべて混ざり合い、わたしを前へ押し出している。
「そういえば、ユリウスは夜会での作戦をさらに詰めるために、近々また来てくれるって言っていたわよね? そのときに細かい段取りを決めておきましょう。タイミングや資料の出し方、万が一の保険まで……」
「はい。ユリウス様も余念がないご様子でした。子爵家のご友人が裏で尽力してくれているようですし、フェリシア様には当日の勇姿を見せていただくだけになるかもしれませんね」
「勇姿……ふふ、そうね。わたしが堂々としていないと、周囲はコーデリアの味方につくでしょうし。王太子殿下にも『フェリシアは侮れない』と思わせるくらいの覚悟がいるわ」
微笑みながらも、その笑みはどこか儚い。わたしは内心、アルフォンスへの複雑な感情を抑えきれずにいた。かつては敬愛していた相手に、婚約破棄で断罪されるという屈辱を味わい、今なお心が痛む。だが、そんな思いをぶつけるより先に、まず名誉を取り戻さねばならない。
そんなわたしの心情を知ってか知らずか、ハンナが隣で手を差し伸べてくれる。
「では、ドレスやアクセサリーの準備に入りましょうか。公爵家の威厳を示すような、一番美しくて強さを感じさせるものを選びたいですね」
「そうね……今回は絶対に負けられないから。母様も、あまり前面に出ようとはしないけど、わたしのドレスの相談くらいは快く受けてくれるでしょう。わたしの本気を見てもらわないと」
そう言いながら、わたしは招待状を改めて手に取り、細かい字面に目を走らせる。夜会の日時、場所、そしてアルフォンスの名――かつて隣に立つのが当たり前だと思っていた相手。そこに、あのコーデリアが控えている今の状況を思うと、怒りと切なさが胸を満たす。
けれど、もう後ろは振り向かない。ユリウスと誓った「共闘」がわたしの軸になっているのだ。
「アルフォンス……もしあなたがあの日、本当にわたしを信じていなかったなら、それはそれで仕方がない。今さら何を思ってこの招待状を送ってきたのかは知らないけど、わたしは自分の名誉を取り戻すために、あなたの前で戦うわ。もうあなたに振り回されるだけのわたしじゃない」
心中でそうつぶやいてから、わたしは手紙をそっとしまい込む。その動作ひとつにも決意がこもっているのを感じる。ハンナが「よろしければ、すぐドレスの候補を見に行きましょうか?」と耳打ちしてきたので、わたしはうなずいて立ち上がった。
王宮の夜会まで、残された時間はさほど多くない。この間にコーデリアがどんな先制攻撃をしてくるかもわからない。だが、それでも「公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイム」として、失われた名誉を奪還する瞬間を思うと、不思議と力が湧いてくる。
「そうね。ハンナ、ドレスを見に行きましょう。最高の装いで、最高の勝負を仕掛ける。そのために、少しでも悔いが残らないように準備するわ」
「はい、フェリシア様! わたくしも全力でご協力いたします。絶対に勝ちましょう!」
「勝利」――普段の社交界ならそんな言葉を使うことはないだろうが、今のわたしにはぴったりだ。まるで、わたしの人生がかかった最終決戦でもあるのだから。夜会で王太子殿下に真実を突きつけ、コーデリアの陰謀を暴く。もしそれに失敗すれば、わたしが一生“裏切り者”と呼ばれるだろう。
それでも「勝てる」と信じられるのは、ユリウスや仲間が築いた証拠と、わたし自身が取り戻したい誇りがあるからだ。
「何があっても、絶対に屈しない。……アルフォンス、コーデリア、待ってなさい。わたしは、あなたたちの前で堂々と真実を示すわ」
そう胸の中で固く決心し、わたしは重い扉を開けて廊下へ足を踏み出す。空気が少し動き、わずかに冷たい風が頬をなでていった。
これがわたしの最後のチャンスかもしれない。いつまでも隠れていても、汚名は晴れない。行く先に光があるなら、自分の足でつかみ取らなくてはいけないのだ。
――こうして、王太子殿下から届いた大夜会への招待状を手に、わたしはついに心を決めた。彼とコーデリアが待ち受ける、華麗なる夜会という最終決戦の舞台。そこでわたしは、隠された陰謀を暴き、無実を証明し、自分の未来を取り戻すのだ。
逃げない。何があってももう一歩も引かない。ユリウスと共闘を約束したわたしは、誇り高き公爵令嬢として、失われた名誉と新たな自由をかけて戦いに挑む――その舞台が今、はっきりと姿を見せ始めているのだから。




