第38話 静かな約束
あの日、ユリウスに「共闘しましょう」と申し出てから、わたし――フェリシア・ローゼンハイムの周囲はめまぐるしく変化している。コーデリアの陰謀を暴くために、ユリウスを中心とした子爵家の仲間たちがどんどん証拠を集め、公爵家のわたしもそれに呼応するかたちで奔走していた。
ふと気づけば、夜会まであまり時間がない。けれど、頼もしい協力者がいることで不安よりも闘志が湧いてくる。わたしを支えてくれるのは、何もユリウスだけではない。侍女のハンナや、友人のリディアもいる。
――だけど、その中でも突出してわたしの心を支えているのは、紛れもなくユリウス・アッシュフォードだ。
今日も公爵邸の応接室に、わたしたちは集まった。ユリウスが見つけてきた書簡の詳細を精査し、紙商の怪しい動きをさらに洗い出し、コーデリアが裏でどのように手を回しているかを確認する。わたしとハンナは資料を見比べながら、事実関係をきっちりとまとめる作業に没頭し、ユリウスは時折アドバイスをくれたり、子爵家のネットワークを通じて探りを入れたりと、常に有能なサポート役をこなしていた。
「フェリシア様、こちらをご確認くださいませ」
「ありがとう、ハンナ。……うん、なるほど。紙の購入ルートをしっかり押さえておけば、コーデリアが言い逃れできないはずね」
わたしたちはテーブルに広げた資料を睨み、ここをどう突けばコーデリアに痛手を与えられるかを話し合う。わずか数分ごとにページをめくり、時々ユリウスが持っている複写書類と照らし合わせて、疑問点を検証していく。それはまるで、王宮に向けて最終的な戦略を練り上げる軍議のようだった。
しばらくして、ハンナやリディア、そして子爵家の仲間も数人交えて情報を共有し終わったころ、時計の針はかなり遅い時刻を指し示していた。さすがに皆疲れを見せている。
「――では、今日はこのあたりでお開きにしましょうか。夜会の準備期間もあとわずかですし、各自ができることを再確認しておきます」
わたしの言葉に、ハンナと他の仲間が素直にうなずく。
「わかりました、フェリシア様。では、わたしはお部屋で書類を整理いたします。ユリウス様、また連絡事項があればお知らせくださいませ」
そう言ってハンナは軽く会釈し、仲間たちと一緒に応接室を出ていった。入れ替わりに、執事が紅茶のポットとカップをトレイに載せてやってくる。打ち合わせが長引いていたので、遅い時間とはいえ気遣ってくれたらしい。わたしは「ありがとう」と微笑んで受け取り、執事を下がらせる。
――気づけば、部屋にはわたしとユリウスだけ。いつもなら誰かしら侍女が残っていることが多いのに、今日は何故か誰もいない。ちょうど皆、疲れて早く休みたいか、あるいはほかの作業が山積みなのだろう。ほっと息をつきながらも、二人きりの空気に胸が少しだけ高鳴ってしまうのを感じる。
「……ふう。ユリウス、お疲れさま。今日も一日中、走り回ってくれてありがとう」
わたしは紅茶をカップに注ぎながら、椅子に腰掛ける。ユリウスも向かいの席で静かにくつろぐように腰を下ろし、「こちらこそ」と柔らかい微笑みを返す。
「フェリシアもお疲れさま。きっと大変だっただろう? それでも、一緒に準備ができるのは俺も心強いよ。昔は、こんなふうに協力する日が来るなんて想像していなかったけれど……」
「そう、ほんとに。わたしもまさか、あなたとこんなふうに――しかも夜遅くまで公爵邸で打ち合わせなんてするだなんて、考えたこともなかったわ」
言いながら、無意識に微笑んでしまう。先日までわたしは、ユリウスを遠ざけてばかりだった。それなのに今は、こうして普通に会話をして、互いに協力し合っている。思い返せば、子どもの頃に隣の子爵家に遊びに行ったり、その逆に彼が公爵家の庭に来たりしていたあの頃を思い出す。
「……ねえ、覚えてる? わたしがまだ子どもだった頃、あなたと公爵家の庭を走り回って、母様から『レディがそんなに活発に動き回るものではありません!』なんて叱られたことがあったの」
笑いながら振り返ると、ユリウスは「ああ、もちろん覚えてるよ」と頬を緩める。
「あのときは、フェリシアのドレスの裾が泥まみれになって、それを見た侍女さんたちが大騒ぎしていたっけ。俺が先に『ごめんなさい』って頭を下げたら、フェリシアは『あなたは悪くないわ』って言ってくれたんだよな」
「そうそう。あれはわたしが『領地を案内する』なんて言って、勝手に裏庭のほうへ走り回ったのが原因だったのよね。あなたが謝る必要はなかったのに……」
懐かしさで胸が温かくなる。わたしは当時、本当にやんちゃで、華やかな社交の場よりも庭で駆け回るほうがずっと好きだった。ユリウスも、そんなわたしの勢いに巻き込まれながらも、一緒に笑って走ってくれた。距離があったはずの公爵家と子爵家の子どもが、なぜか自然に打ち解けていたのは、あの自由な日々があったからかもしれない。
「おかしいわよね。本来なら公爵令嬢と子爵家の跡継ぎなんて、それだけで距離を感じるはずなのに……昔は、そんなもの一切気にしなかったわ」
わたしがしみじみそう言うと、ユリウスは小さく息を漏らして笑う。
「君が公爵令嬢だっていう自覚が希薄だっただけかもしれない。いや、俺らがまだあまり物事を分かっていなかっただけかな。それでも――あの頃から、俺にとってフェリシアは特別だったよ」
「特別……。――わたしも。あなたは他の子とはどこか違うなって思ってた。なんだか、波長が合うような気がして……」
わたしの声が、自然と小さくなる。二人だけの時間。静かな応接室。周りに誰もいないせいか、妙に心が落ち着かない。
「フェリシア……」
ユリウスの優しい声に、わたしはまるで誘われるように彼の瞳を見つめ返す。その瞳はまっすぐこちらを映していて、昔の子どもじみたユリウスとは全然違う。あのとき一緒に走り回っていた少年が、こんなにも頼もしく、そしてやさしくわたしを見守ってくれているのだ。
「あなたが……こうして側にいてくれるから、わたしは頑張れる。ユリウスが『証拠がある』って言ってくれたとき、本当に救われたの。もう誰も、わたしを信じてくれないんじゃないかって思っていたから……」
わたしは手のひらをぎゅっと握り込む。コーデリアに陥れられて以来、公爵家の周囲の目は常に冷たかった。王太子殿下にも裏切り者扱いされたままだったし、家の中でもわたしの味方だと公言できる人はいなかった。でも、ユリウスだけは違った。
「フェリシアが苦しんでいるのに、俺は黙って見ていられなかった。それは昔から変わらない気持ちだよ。――俺は、君が笑っている姿を守りたい。どんな形であっても、君が幸せに生きられるように、少しでも力になりたいんだ」
「……ありがとう」
その言葉を聞いた途端、胸が熱くなる。さっきまでの打ち合わせでは見せなかった、ユリウスの個人的な想い。はっきり「愛している」と告げられたわけではない。だけど、いまの言葉はまぎれもなく愛情にも似た響きがある。
「実は……わたしも同じ。あなたがいてくれるから、わたしも自分の居場所を見失わずにいられる。ユリウスがいなかったら、きっとこのままコーデリアにやられっぱなしで、いつかは本当に心が折れてしまっていたと思う」
「そんなこと、俺は耐えられないよ。君がいなくなるなんて……絶対に嫌だ」
彼の言葉が、わたしの胸を打つ。まるでこの部屋だけが世界から切り離され、わたしたち二人の鼓動だけが響いているような感覚だ。
「……ねえ、ユリウス。あなたもわたしも、今はまだコーデリアをどうにかしないと先へ進めないし、わたし自身の名誉を回復しなければ、あなたにこれ以上迷惑をかけてしまうわ。だけど――」
「だけど?」
「全部……全部終わったら、ゆっくり話してみたいの。わたしの過去、あなたの過去……そしてこれからのこと。いろいろ、ちゃんと向き合いたい」
真っ直ぐ見つめ合うわたしたちの間に、静かな決意が生まれる。告白と言うには不十分かもしれない。身分の差もあるし、わたしにはいまだに王太子殿下との断罪という大きな問題が横たわっている。けれど、ユリウスの「守りたい」という気持ちと、わたしの「あなたがいるから頑張れる」という思いが、しっかりと響き合っていることは間違いない。
「わかった。俺も、フェリシアが落ち着いてからでいいと思う。まずはコーデリアの陰謀を暴いて、君の名誉を取り戻そう。それから……改めて、ちゃんと気持ちを伝えさせてほしい」
「伝えて、くれるの……?」
「うん。絶対に。――だけど、いまはまだ……いや、いまは言えない。これ以上フェリシアに負担をかけたくないし、俺自身もちゃんと胸を張れる状態で言いたいんだ」
その言葉を聞いて、わたしは思わず微笑みを浮かべる。まるで、心の中で温かな光が灯ったような感覚。わたしは自分の手をそっと伸ばし、テーブル越しにユリウスの指先に触れる。
「ありがとう、ユリウス。わたし、あなたがいるから立ち上がれる。きっとコーデリアが何をしてこようと、もう負ける気がしないわ」
「俺だって、君が傍にいてくれるなら、どんな困難でも乗り越えられる。……フェリシア、俺たちは仲間じゃなくて、きっと……それ以上、だよね」
「そう……思ってもいいのかしら? でも……」
わたしがためらうように言うと、ユリウスは首を横に振る。
「何も急ぐ必要はない。あの頃の庭で一緒に走り回ったように、少しずつでいいから、また歩み寄っていこう。――だから、夜会で必ず勝とう。君が笑って未来を選べるように、俺は全力を尽くす」
「ええ。わたしも――わたしも、全力でコーデリアの企みを暴くわ。わたしだけのためじゃない。あなたやハンナ、リディア、みんなが動いてくれた努力を無駄にしないためにも」
テーブルの上で重なるか重ならないかの距離にある手。はっきり「愛している」と言わなくても、既に通じ合っている気がする。――だけど、それは決着がつくまでおあずけ。夜会でわたしの名誉を取り戻し、すべてが落ち着いたとき。わたしたちは改めて、この気持ちに向き合う。
「……ユリウス、ありがとう。わたし、あなたが支えてくれるなら絶対に負けない」
「うん、君がそう言ってくれるだけで俺は頑張れる。――大丈夫、勝てるさ。君と俺が力を合わせれば、絶対に」
部屋の中に満ちていた緊張が、少しずつ和らいでいく。わたしはゆっくりと紅茶を飲み干し、軽く息をつく。夜はすでに更けているけれど、不思議と疲れは感じない。むしろ、明日に向けて新たな活力が湧いてくるようだ。
「……そろそろ、わたしも休まなくちゃ。あなたも帰りが遅くなりすぎると、ご家族が心配するわよ」
「そうだね。俺も気をつけるよ。でも、フェリシアの寝顔を見るまでは帰れないな――なんて言ったら、怒られるかな?」
「ふふ、それはさすがに公爵家の警備兵が許さないわよ。わたしを守るどころか、あなたが捕まっちゃうかもしれないわね」
「はは、そうだな。……それじゃあ、今日はもう帰るよ。君もちゃんと休むんだよ? 夜更かしは身体に毒だから」
「わかってる。あなたこそね」
照れ隠しに軽く笑い合い、わたしはユリウスを玄関先まで見送る。夜の公爵邸は静寂に包まれ、廊下のランプが揺れる影がユリウスの足元を照らしている。扉を開けると、涼しげな夜風が流れ込んできた。
「それじゃあ、また近いうちに。夜会の準備も大詰めだから、何かあればすぐに連絡して」
「もちろん。……フェリシア、今日はありがとう。話せてよかったよ。おやすみなさい」
「おやすみなさい、ユリウス。――あと少しだけ、頑張りましょうね」
彼の後ろ姿が夜の闇に溶けていくのを見送りながら、わたしは胸に大きく息を吸い込む。今はまだはっきりと口にできない想い。でも、コーデリアを倒して、王太子殿下の誤解を解いて、わたしの名誉が回復されれば――その先には、きっと新しい未来が待っている。
「……名誉を取り戻したら、わたし……」
心の中でつぶやく。すべてが終わったら、あの人にちゃんと気持ちを打ち明けられるだろうか。――いいえ、それだけじゃない。ユリウスが「伝えたい」と言ってくれたこの気持ちを、どれだけ大切に受け止めることができるだろうか。
わたしはそっと扉を閉じ、公爵邸の静まり返った廊下を引き返す。ハンナがきっと心配して待っているはずだ。まだやることは山積み。だけど、不思議と気持ちは軽い。高鳴る鼓動とともに、一人きりの夜を迎える。まるで、もう怖いものなんてないかのように思えるくらい、ユリウスの存在がわたしを強くしてくれる。
「あと少し……あなたが側にいてくれるなら、必ず勝てる」
そう心に誓って、わたしは自分の部屋へと足を進めた。明日からも忙しくなるけれど、どんな困難でも乗り越えてみせる。それは「公爵令嬢」としての誇りだけではない。わたし自身の、そしてユリウスとの未来をつかむための戦いなのだ。すべてが終わったら、ちゃんと二人で向き合える日が来ると信じて――胸に小さな炎が灯ったまま、わたしは夜の帳の中へ消えていく。




