第37話 誓い
夜が更けたアッシュフォード子爵家の書斎で、ユリウス・アッシュフォードは机に広げた資料を黙々と整理していた。だが、ページをめくる指先にはどこか落ち着きがなく、時おり視線を宙に泳がせる。部屋の中はすでに静寂に包まれ、机上のランプだけが小さく灯っている。
昼間は仲間たちと共に幾つかの商家を回り、コーデリアの疑わしい動きを探るべく奔走していたユリウスだが、この夜もなお休む間もなく証拠の精査に取り組んでいた――正確には、集中しようとしている「はず」なのに、別の想いが胸を占めているのだ。
手元にあるのは、コーデリア・クロフォードがどの紙商を通じて怪しい書簡の偽造を行ったのかを示唆する、いくつもの書類。フェリシアの無実を証明するためには、これらを整合性のある形で王太子殿下に提示せねばならない。そう頭ではわかっている。
しかし、ユリウスが資料の文字を追えば追うほど、心の中には違う面影が浮かび上がってくる。――それは、先日公爵邸で「共闘しましょう」と自分に手を差し伸べてくれたフェリシア・ローゼンハイムの姿。
王太子殿下の隣に立つことが当然だとまで噂された公爵令嬢が、今こうして自分を頼ってくれる。その事実が嬉しくて、誇らしくて、同時に切なかった。
ユリウスは机の縁に置いてあった小さな木箱を開け、そこにしまい込んだ紙片を一枚取り出す。そこには子どもの頃のフェリシアが書いた簡単な手紙――というより、走り書きに近いお礼の言葉が残っていた。筆跡は不揃いで幼さが目立つ。それを見つめながら、ユリウスは遠い日の記憶を呼び覚ます。
――まだ幼かったころ、アッシュフォード子爵家とローゼンハイム公爵家は隣接する領地同士ということもあり、何度かお互いの領地を行き来する機会があった。
父が公務の一環で公爵家を訪問するときは、ユリウスもついていくことが多かったし、逆に公爵家の馬車が子爵家を通り抜けて王都へ向かう場面に遭遇することも珍しくなかった。ときに、親が社交の話をする隣で、ユリウスはまだ背の低いフェリシアと庭を走り回ったり、館の片隅で一緒にお菓子を食べたりしていたのだ。
あの頃のフェリシアは今よりずっと幼く、当然のように無邪気だった。公爵家の令嬢でありながら、ユリウスが何か失敗して落ち込んでいると「大丈夫?」とすぐに声をかけてくれる優しさを持ち合わせていた。ユリウスがドレスの裾を泥で汚してしまったときも、笑いながら「気にしなくていいの。お洗濯すればきっと落ちるわ」と、まるで小さな友達同士で話すみたいに励ましてくれたのを覚えている。
そのとき、ユリウスははっきりと「自分はこの子が好きだ」と思った。子どもなりに感じたそれは、ただの友達以上の特別な好意だった。当時はまだ恋心など理解できない年頃だったが、いつしかフェリシアと会える日が楽しみで仕方なくなり、彼女と話すたびに胸が温かくなるのを感じていた。公爵令嬢と子爵家の跡継ぎという立場がなんなのか、幼いユリウスにとってはそこまで深刻な問題ではなかったのだ。
しかし、成長するにつれて、ユリウスは嫌でも身分差という現実を思い知らされるようになる。ローゼンハイム公爵家とアッシュフォード子爵家――隣接する領地といっても、その格はまったく異なる。公爵家は王家に次ぐほどの影響力を持ち、いずれは王族との縁談だって起こり得る地位にある。一方の子爵家は、数ある貴族の中では下位に分類される存在。年端もいかない少年少女だった二人の間には、どうにもならない社会的な溝があった。
それでもユリウスは、ひとたびフェリシアと目が合えば、嬉しさが込み上げるのを抑えられなかった。いつも隣にいることが「当たり前」ではないからこそ、幼馴染のように無邪気に言葉をかわす瞬間が何よりも尊く思えたのだ。
やがて、フェリシアが王太子殿下の婚約者に内定したと聞いたとき、ユリウスは静かな衝撃を受けた。もともと高貴な血筋と評判の公爵令嬢である彼女には、社交界のほとんどが「王太子殿下の未来の伴侶になるのだろう」と期待を寄せていた。その流れは自然で、ユリウスもまた「やはりそうなるか」と、どこか納得したフリをするしかなかった。幼いころに抱いていた淡い恋心は、とうに破れるとわかっていたはずなのに、心は意外なほど揺らいだのを覚えている。
だが――その婚約が破棄され、しかもフェリシアが「断罪」というあり得ない仕打ちを受けて孤立していると聞いたとき、ユリウスは居ても立ってもいられなくなった。子どもの頃から知っている、あんなに優しくて気品のあるフェリシアが、なぜそんな目に遭うのか。噂の真偽を確かめようと必死に動き、情報を集めるうちに、フェリシアが無実を叫んでも誰も耳を傾けないことを知った。
公爵家からも支援を得られず、コーデリア・クロフォードという令嬢が王太子殿下の隣を奪い取ろうとしているらしい――そうした事実が浮かび上がるにつれ、ユリウスは自分の中にくすぶる怒りと悲しみを自覚せずにはいられなかった。
「フェリシアを……放っておけるわけがないじゃないか」
幼馴染。幼い頃の淡い恋心。今のユリウスは、それらの言葉だけでは片づけられないほど、フェリシアに対して強い想いを抱いている。「彼女を守りたい」という感情は、かつての小さなときめきをはるかに超え、誰にも止められないほど大きくなっていた。
身分差だの社交界の体裁だの、そんなものは関係ない。もし彼女が孤立し、涙を流しているのなら、助けに行かなければ――まるで当たり前の衝動のように、ユリウスの心は動いた。
こうして仲間を募り、陰ながら証拠を集め、コーデリアの手の者たちが裏で糸を引いている事実を少しずつつかみ始めた。気づけば、ユリウスが一番に願っていたのは「フェリシアの笑顔を取り戻したい」ということ。彼女ともう一度隣り合って笑い合えるなら、それで十分だと思った。
もしその先に、彼女が自分の存在を受け入れてくれる余地があるなら、それは奇跡に近い幸運なのだろう――そうユリウスは自分に言い聞かせている。
――ペンを置き、ランプの炎に視線を落とす。
書斎の壁掛け時計がじりじりと音を立て、静かな夜の深まりを告げる。ユリウスは立ち上がり、部屋の窓へ歩み寄った。子爵家の領地に広がる夜闇の向こうには、おそらく公爵家へと続く道筋が見えるはずだ。そこに暮らすフェリシアのことを思うと、胸が切ないほど熱くなる。
幼い頃は、あの屋敷の庭を勝手に走り回ったり、庭木に登ろうとして一緒に怒られたり、何かと面白おかしく過ごしていたというのに、今では簡単に昔のようには戻れない――そう痛感する。
だが、先日、フェリシアはユリウスに「共闘」を正式に申し入れてくれた。長い間遠ざけられていた立場からすれば、それは驚くほど大きな前進だ。あのときの彼女は、子どもの頃のように天真爛漫に笑うわけではなかったけれど、それでもはっきりとした意志を宿した瞳で「あなたの力を貸してほしい」と頼んだ。その声を聞いた瞬間、ユリウスは全身に力が漲るのを感じた。
「……俺は、絶対にフェリシアを救う。幼馴染の情とかそんなものじゃなく、ちゃんと『彼女を想う男』として」
小さくつぶやくと、自分の心が熱を帯びるのを覚える。まだ子どもだったころにうっすらと感じた恋心。それは多分、ずっと胸に残っていたのだ。彼女が王太子殿下の隣に立とうとも、華やかな舞台を歩もうとも、否定しようがないほどに彼女を好きだった。
この想いをどこに置けばいいのかもわからないまま、身分差に尻込みしてきたのは事実だ。けれど今は、守るべきものがある以上、ためらっている暇はない。まずはフェリシアの名誉を回復する。すべてはそこからだ。
ユリウスは窓から目を逸らし、もう一度机に戻る。視界には、先ほど開いた資料の束が飛び込んでくる。そこには、コーデリアの取り巻きたちがどのように噂を広めたかを示す書簡の写しや、紙とインクの製造元がどの貴族と関係しているかを示す証拠が並んでいる。これらを王太子殿下が主催する大きな夜会の場で提示すれば、コーデリアもさすがに弁解しきれないはずだ。
「まずは、名誉を取り戻すこと。それがすべての第一歩だ。フェリシアが堂々と胸を張れるようになれば、幼いころのような輝きを取り戻すかもしれない。そして、あの頃みたいに笑ってくれたら……」
しかし同時に、頭の片隅では「公爵令嬢の彼女が自由を得た先に、俺のような子爵家の跡継ぎを選ぶ余地はあるのだろうか」といった不安が首をもたげる。社交界という場所は、思った以上に地位や血筋を重んじる。たとえ幼馴染であっても、それが許されないこともある。ましてや、フェリシアのような優秀な令嬢なら、きっと数えきれないほどの縁談が舞い込むに違いない。
けれど、ユリウスは資料をつかんだまま首を横に振る。それは自分の使命を忘れまいとするような動作だった。恋心は事実だが、それ以前に「フェリシアを孤立させたままにできない」という強い決意がある。幼い頃から、彼女がまっすぐこちらを見てくれることがどんなに嬉しかったか。
――その素直な笑顔を取り戻すためなら、身分差などどうでもいい、と本気で思えるのだ。
「俺は、フェリシアが公爵令嬢であろうと、誰かと婚約しようと、最後まで力を尽くす。彼女が苦しみを抱えたままなんて、絶対に許せない」
強い気持ちを込めて書類のページをめくり、必要な部分に鉛筆で印を入れる。これからさらに証拠の裏付けを取るために、仲間と連絡を取り合わねばならない。慌ただしい日々は続くだろうが、フェリシアと「共闘」を決めた以上、ユリウスに迷いはない。
机の端には、ふとしたはずみで落ちてしまった幼いころのメモが転がっていた。そこには、フェリシアが幼い字で「つぎはおはなばたけであそぼうね」と書いてある。まだ読み書きも十分でなかった子ども同士が、ぎこちない文字で交わした約束――くすりと笑みがこぼれそうになるほど懐かしい。結局あの頃は公務やお互いの学習で忙しくなり、約束が果たせなかった気がする。
「……あのときは果たせなかった約束、今なら何かの形で叶えられるかもしれない。俺たちはもう子どもじゃないから……もっと大きな戦いに向かっているけれど、昔と変わらない想いだってあるんだ」
そうつぶやいて、ユリウスはメモをそっと閉じ込め、小箱に収める。そして筆を握り、改めて証拠資料の整理に取りかかる。フェリシアとの回想に浸っている余裕はないと言い聞かせながらも、胸の奥には希望が灯っている。
――もしフェリシアがすべてを取り戻し、周囲に邪魔されない未来をつかんだとき、その未来のどこかに自分が立てるのなら。それは夢のような幸せだ。かつて幼馴染だった二人が、いつしか離れ、そして今また同じ方向を向いている。そんな奇跡を噛み締めながら、ユリウスは深夜の書斎で一人、書類にペンを走らせ続ける。
静まり返った屋敷の廊下に、風のざわめきが少しだけ聞こえる。隣接する公爵家の方角には、同じ夜を過ごすフェリシアがいる。彼女もきっと、不安や期待を胸に抱えていることだろう。子どもの頃のようには戻れなくても、互いに手を差し伸べ、見事コーデリアの策謀を打ち砕く。その先にある光を信じて、ユリウスは今日もまた一人、覚悟を新たにしながら夜を明かすのだった。




