第36話 秘めた想い
夜の帳が公爵邸をすっぽりと覆い尽くす頃、わたし――フェリシア・ローゼンハイムは自室の中で、一人静かに呼吸を整えていた。
夕刻にユリウスを見送り、その後ハンナと簡単な打ち合わせをしてからずいぶん経つが、どうにも胸のざわつきが収まらない。いつもなら使用人たちが夜の挨拶に来る時間帯だが、今夜は皆に「しばらく一人にしてほしい」と告げて部屋を閉ざしている。扉の向こうの廊下はすっかり静まり返り、耳を澄ませば、夜警の足音が遠くかすかに聞こえるだけだ。
窓の外にはかすかな月明かり。薄いカーテン越しに広がる闇を見つめながら、わたしは昼間の出来事を振り返る。――ユリウス・アッシュフォードに「共闘」を申し出たこと。それはわたしの人生を大きく左右する決断だったと思う。名誉を取り戻すためとはいえ、あれほど強い意志を持って彼と手を組む道を選んだのは、少し前のわたしからは想像できないほどの飛躍だ。
だけど、いまこの静かな夜に胸にわき起こるのは、決して後悔ではない。むしろ安堵に近い感情が占めている。それと同時に、戸惑いもある。この数日のあいだに、ユリウスは本当にわたしを支えてくれる心強い味方になってくれた。そう――わたしが周囲から白い目で見られ、王太子殿下から断罪され、味方がほとんどいないなかで、彼だけが必死に証拠を集め、わたしに手を差し伸べようとしてくれたのだ。
「……共闘、か」
つぶやいてみると、その言葉の響きがどこか心地よく感じられた。ずっと孤独だったわたしにとって、誰かと肩を並べること自体が新鮮だ。わたしを追い詰めるコーデリアに対抗するための協力関係――そう思っていたのに、胸が高鳴るのはどうしてだろう。あまりにも純粋に、ユリウスがわたしを救おうとしてくれる姿を思い出すと、その優しさに心が温かくなる。それはただの「助力者」を見るときの感情ではない。
わたしはそっと椅子を引き、窓辺に腰掛けた。夜風がカーテンを揺らし、肌に触れる。涼しげな風なのに、不思議な熱が自分の胸中で渦巻いているのを感じる。――これが、恋なのだろうか。
かつて、王太子殿下に対しては尊敬と憧れの念を抱いていた。婚約者として彼の隣に立つことが、当たり前の将来図だと思っていたからだ。けれど、彼との関係が破綻して以降、わたしの心は深く傷つき、もう誰かを好きになる余裕などなかった。むしろ「王太子殿下のものだったはずのわたし」に、恋愛など許されない気がしていた。にもかかわらず、今のわたしはどうしてこんなにユリウスの存在が大きく感じられるのだろう。
「ほんの少し前までは……ただの子爵家の跡継ぎで、しかもあまり目立たない人だと思っていたのに」
自嘲気味に笑いながら、深くため息をつく。ユリウス・アッシュフォードは、たしかに子爵家の生まれだ。公爵家のわたしとは身分が違う。もしわたしの名誉が回復されたなら、再び公爵令嬢として社交界に戻ることになるし、新たな縁談なども浮上するだろう。それを考えると、ユリウスはわたしにとって「対等」になれる相手ではないはず……いや、そんなことを言うのはわたしが彼を見くびっているのかもしれない。
「ユリウスは、身分の差にひるむような人じゃないわ」
いつも柔和な笑顔を浮かべているけれど、その奥には強い意志があると感じる。子爵家という決して恵まれた地位とは言えない状況の中で、わたしのために行動してくれているのは、その強さの証拠だ。身分の差を盾にわたしを断罪した王太子殿下とは、まるで正反対に思える。わたしとユリウスのあいだにある「公爵家と子爵家」という壁は、実は彼の前ではあまり意味をなさないのかもしれない。
ふと、机の上に視線を移す。昼間にユリウスから受け取った資料の一部が置かれている。コーデリアの陰謀を示す証拠――どれもわたしを救ううえで欠かせないものだ。彼はこの数週間でここまで動き、こんなに大量の情報を集めてくれたのだと考えると、その献身ぶりに胸が熱くなる。
そればかりではない。ユリウスと顔を合わせるたびに、わたしの気持ちは少しずつ変化していたのだ。最初は「彼に迷惑をかけてはいけない」という罪悪感しかなかったのに、今は「彼の力になりたい。彼に微笑んでいてほしい」とまで思う自分がいる。
「どうして……こんなふうに思うようになったのかしら」
自問しながら、窓の外を見つめる。夜空には雲が浮かんでいて、月の光をときおり隠してしまう。わたしの心もまるで雲が行き来するように、揺れ動いているようだ。少し前までは、自分の名誉を回復することだけが最優先で、恋や将来の幸せなど考えられもしなかった。けれど今日、彼に共闘を願い出て、受け入れてもらった瞬間――ほんの少しだけ、先の未来が頭に浮かんだ。
もしコーデリアの陰謀を暴き、王太子殿下の誤解が解ければ、わたしは再び公爵家の令嬢として胸を張って生きられるようになる。そうして、自分の居場所が取り戻せたなら……その先にある「わたしの幸せ」を見つめ直してもいいのではないか。そんな考えが、一瞬、頭をよぎったのだ。
「わたしの幸せ……」
そっと唇を噛む。王太子殿下との婚約が破棄されたとき、わたしは「もう二度と幸せにはなれない」とまで思い詰めた。だけど今は、わたしの中の小さな灯火が言うのだ――「まだ人生は終わっていない。名誉が戻ったあとにも道はある」と。
その道にユリウスの姿を想像する自分がいることに、気づいてしまった。
「でも……」
そこで思考が止まる。身分の差だけじゃない。わたしは公爵令嬢であり、社会的には王族やそれに準ずる立場の人間と結びつくことを当たり前と思われてきた。一度は王太子殿下の婚約者に選ばれたほどの家柄だ。そこに子爵家の跡継ぎとの将来を、わたしが本気で考えてもいいのだろうか――そんな疑問が、わたしを足止めする。
もっとも、これはわたしの勝手な思い込みかもしれない。わたしが勝手にユリウスのことを意識しているだけで、彼自身はわたしを「守るべき女性」としか見ていないかもしれない。そんなことを考えると、いっそう胸が苦しくなる。
「だめだわ、こんなことで立ち止まっていられないのに……」
わたしは両手で頬を押さえ、深呼吸する。今はまだコーデリアとの戦いの途中。王太子殿下の前で潔白を証明するために、準備すべきことは山ほどある。わたしの名誉回復が最優先――そう自分に言い聞かせなければ。
それでも、頭の隅ではどうしてもユリウスのことを考えてしまう。最近のわたしは、彼と話すとき、どこか自然に笑顔になれている。コーデリアを打ち破るための作戦を語り合いながら、いつの間にか心が安らいでいるのを感じる。頼もしく、優しく、そしてどこか危うげなほど無私の情熱を燃やす彼。そんなユリウスの存在が、わたしにとってはただの「協力者」以上のものになりつつある。
「もし、わたしがこの戦いに勝利して、名誉を取り戻せたなら……」
一度は胸のうちで否定しかけたその想像を、思い切って再び描いてみる。勝ち取った名誉を足掛かりに、わたしはもう一度自分の幸せを探すことができるのだろうか。そのとき、ユリウスはわたしの隣で笑っていてくれるだろうか。
だけど、甘い空想ばかりしてはいられないと、わたしは首を振る。今のわたしには戦うべき現実がある。ユリウスに迷惑をかけないためにも、わたし自身がしっかりと立ち向かわねばならない。王太子殿下への想いや怒り、コーデリアへの対抗意識、そして公爵家の令嬢として背負う責務――あまりにも複雑なものが絡み合い、それらがわたしを奮い立たせると同時に、心を乱している。
「……それでも、がんばらなくては」
静かな自室に響いたのは、わたしの小さな決意の声。ユリウスの存在がわたしを前へ進ませてくれるのは間違いない。だけど同時に、その気持ちは名誉回復後の未来への期待に繋がる。恋なのか、ただの恩義なのか、それとも両方なのか――まだはっきりとはわからない。でも、心のどこかでわたしは彼を特別視している。それだけは確かだ。
夜はますます深まり、わたしの部屋の中には月明かりだけが微かに差し込んでいる。今日はもう眠るべきなのに、ユリウスの顔が脳裏を離れず、胸が高まって眠れる気がしない。
「……ユリウス。あなたは今、この夜をどう過ごしているのかしら」
思わず口にしたその名が、夜の静寂に溶けて消える。子爵家に戻った彼が何を思っているのか気になって仕方がない。かつてのわたしなら、こんな気持ちになること自体、想像もできなかったはずだ。彼の中で、わたしはどんな存在になっているのだろう。身分のこと、コーデリアのこと、王太子殿下のこと――いろんな不安要素が絡み合っているのに、それでもわたしは期待してしまう。
そんな自分の心を持て余すように、わたしは再びカーテンを少し開いて夜空を仰ぐ。黒々とした空は相変わらず雲が多く、星もはっきり見えない。それでも、わずかな隙間からは月の光が届いていた。それはちょうど、どんなに閉ざされた状況でも希望の光が射すように感じられる。きっとわたしは、ユリウスと共にコーデリアの陰謀を暴ける。彼がいてくれるのなら、どんな困難にも立ち向かえる気がするのだ。
「……まずは、王太子殿下の前でわたしの無実を証明することね」
それが最優先の使命。わたしは深く息を吐き、緊張を手放すように目を閉じる。気づけば、いつの間にか外は静まりきって、夜もかなり更けている。明日から先のことを考えれば、しっかり休まなければならない。
だけど、そのまぶたの裏にはユリウスの面影がちらつく。彼の優しい瞳、真剣な表情、まっすぐな言葉……思い出すだけで、また胸が騒ぎ出す。
「こんなわたしでも……名誉を取り戻したあとに、幸せになれる可能性があるのかしら」
誰に問いかけるでもなく、静かにそうつぶやく。まるで自分自身に向けての確認のように。わたしは公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイム。一度は婚約を断罪され、すべてを失いかけた身だ。だが、今はユリウスというかけがえのない人が傍らにいてくれると思うだけで、どんな苦境も乗り越えられる気がする。
――名誉が戻ったら、そのときこそ、自分の本当の幸せを考えてみよう。
そう心に決めると、わずかに気持ちが軽くなるのを感じた。そろそろベッドに身を沈め、瞼を閉じよう。明日になれば、きっとまた忙しくなる。ユリウスとも打ち合わせの機会があるだろうし、ドレスの準備も急がねばならない。わたしはまだ勝負の序盤なのだ。
揺れ動く恋心を胸に秘めながらも、まずはコーデリアの陰謀に立ち向かう覚悟を新たにする。名誉回復がわたしの最優先事項。とはいえ、眠りにつく直前まで脳裏を離れないのは、彼の優しい声と温かい眼差しだった。ああ、いまは言えないけれど、いつか本当の気持ちを伝えられる日が来るのだろうか。
――そんな想いとともに、わたしは明日へ向けてそっと瞼を閉じた。胸の内に広がる小さな灯火が、夜の闇を照らすように揺らめいている。きっとそれは、ユリウスと共闘すると決めたあの日から燃え始めた新たな希望。願わくば、この希望がわたしの未来を照らし、身分の壁をも飛び越える、ほんの少しの勇気へと変わってくれますように――。




