第33話 疑念と確信
翌日、伯爵家を訪れたアルフォンス・エーデルシュタインは、豪奢な応接室の一角で軽く息をついた。壁には伯爵家の家系を示す美しい紋章が飾られ、香りの良い花がテーブルに生けられている。
室内で待ち受けていたのは、コーデリア・クロフォード。柔らかなパステルカラーのドレスを身にまとい、優雅に頭を下げてアルフォンスを出迎える。だがアルフォンスの心はまるで晴れない。今日は、ただの婚約準備の打ち合わせなどではなく、コーデリアの「本性」を少しでも確かめたいという思いが強かったのだ。
「殿下、よくいらしてくださいました。わたくし、ずっと殿下をお待ちしておりましたのよ」
コーデリアはまるで舞台の役者のように完璧な笑顔を作っている。微妙な違和感を覚えながら、アルフォンスは椅子に腰を下ろし、あえて距離を保つ。侍従が控えめに紅茶を運んできてくれるが、視線はコーデリアから離さない。
「今日は少しお話ししたいことがあって来たんだ。……君も噂を聞いているだろうが、近頃、フェリシアが動いているようだ。子爵家のユリウスと協力して、何かを探している、と」
「まあ、フェリシア様とユリウス様が協力……ですか? それは初耳ですわ。ですが、あの方が何をされようと、今さら殿下には関係のないことではございませんか?」
さも疑問げに首を傾げるコーデリア。言葉遣いこそ丁寧だが、わざとらしい仕草がアルフォンスの警戒心をさらに煽る。彼女の声にはかすかな張りがあるのを感じ取った。
「いや、無関係ではない。フェリシアが『捏造』や『不正』という言葉を口にしているそうだ。もし本当に、誤った証拠をもとに私が断罪したのなら、見過ごせない。……コーデリア。君は何か知っていることはないのか?」
「殿下、それはあまりに唐突ではありませんこと? わたくしはただ、殿下とこの国をお支えするために日々務めているだけ。フェリシア様の内情など、わたくしの耳には届いておりませんわ」
彼女は柔らかく微笑むが、アルフォンスはその表情に小さな違和感を覚えた。いつものコーデリアなら、もっと余裕たっぷりの態度を見せるはず。それが、どこか落ち着かないようにも見える。
「そうか。君が知らないのであれば仕方ないが、どうにも腑に落ちない。フェリシアへの『確証』を得たはずなのに、今になって疑問が増えている。……コーデリア、先日まで君は、フェリシアの悪行を確信しているように話していたじゃないか?」
「それは、周囲の貴族の皆さまがそうおっしゃっておりましたから。わたくし自身が直接見たわけではありませんが、殿下も婚約破棄を宣言されたのですから、間違いないと思って……」
「そう、『周囲が言っていた』だけなのか? 君は自分で確認したわけではない?」
「……それは……殿下が断罪なさったのですもの。わたくしは殿下のご判断を信じております。まさか、殿下が誤った裁きをなさるはずも……」
言葉を濁す彼女の瞳に、一瞬だけ焦りの色がよぎる。アルフォンスはそれを見逃さなかった。コーデリアが優雅にティーカップを持ち上げるが、手元がわずかに震えているようにも見えた。
「もちろん、私としても、フェリシアが間違いなく黒幕だと思っていた。しかし、もしそれが捏造や陰謀によるものだったら――そう考え始めている。君が『まったく心当たりがない』というなら構わないが、もし何か知っているなら今のうちに教えてほしい。真実を見極めなければならない」
「殿下、そのような……。わたくしは何も存じませんわ。フェリシア様が本当にどうだったのか、ただ『噂を』聞いただけです。殿下を疑うなど滅相もありませんが、あの方が無実だなど、さすがに荒唐無稽では……?」
コーデリアが気まずそうに視線をそらし、かすかな笑みを取り繕う。アルフォンスは彼女から目を離さず、いよいよ確信に近い「違和感」を感じ取る。彼女があれほど自信満々にフェリシアを蔑んでいたのに、今は直接の反論を避けるかのように話を逸らそうとしているのだ。
(やはり、コーデリアが裏で何かを画策していた可能性は高い。フェリシアが「ユリウスと捏造の証拠を探している」というのも、この状況なら納得できる……)
アルフォンスの胸にじわじわと悔恨が湧き上がる。もしコーデリアが長年、噂や証拠を操作して貴族間を翻弄してきたのだとしたら、彼女に乗せられる形でフェリシアを断罪した自身の過ちがあまりにも重い。
「……わかった。今日のところはこれ以上聞かない。ただ、君と私の縁談を焦る必要はないと考えている。フェリシアのことをもう少し調べたいから」
「まあ、殿下……。わたくしとのお約束を後回しにされるというの? 周囲も、クロフォード家と王太子殿下の婚約を既定路線だと考えているというのに……」
コーデリアが困惑気味に問い詰めるが、アルフォンスは固い口調で釘を刺す。
「それが私の決断だ。今は……まだ確信を持てない。君がどんなに優秀であろうと、私がフェリシアを誤って追い詰めた可能性がある以上、先へは進めないんだよ」
「……そう、ですか。わかりましたわ」
コーデリアが笑みを返そうとするが、その顔は明らかにこわばっている。アルフォンスはそれを見て、余計にフェリシア側の主張に信憑性を感じるのだった。これまで感じていた違和感が、はっきりとした確信に変わりつつある。
「失礼する。……近いうちに、また話を聞くかもしれないが、今日はこれで終わりだ」
「……はい。殿下のお好きなように」
投げやりな返事を聞きながら、アルフォンスは椅子を立ち上がった。気まずい沈黙が部屋を包む。侍従が外で待機しているだろうが、彼らを呼ばずとも、アルフォンスは一人、コーデリアの部屋を出る。
(やはり、何かがおかしい。コーデリアはいつもならもっと落ち着いているのに、さっきは明らかに焦っていた……あの身振り、あの言葉のごまかしよう……フェリシアはおそらく無実だ。ああ、私はいったい何を――)
伯爵家の廊下を歩きながら、アルフォンスは自責の念を深く刻む。フェリシアとの婚約破棄を公衆の面前で言い渡したあの日、「確固たる証拠」があると信じていた。だが、それがもしコーデリアの仕込みなら、フェリシアは無実のまま破滅の道を進まされているのではないか。
さらに、フェリシアがユリウスと協力している理由も腑に落ちる。子爵家だから目立たないが、彼が熱意をもって動けば、コーデリアの裏を暴く手段もあり得る。おそらくフェリシアたちはその手掛かりを積み上げている最中なのだろう。
「フェリシア……私は、取り返しのつかないことをしたかもしれない。だが、必ず私自身で正す。コーデリアが仕組んだ罠だと証明できるなら、王太子として……いや、一人の人間として償わなくてはならない」
伯爵家の門を出ると、護衛の騎士が馬車を用意して待っていた。アルフォンスは短く指示を出し、すぐに乗り込む。車内に籠もる静けさの中、彼は昂ぶる気持ちを静めるように深呼吸する。
(コーデリアが完全に自分をさらけ出すことはないだろう。だからこそ、フェリシアたちが見つけようとしている証拠が鍵になる。私はそこに少しでも協力できるのか? いや、王太子としてどう動く?)
事態が進めば進むほど、己が負う責任の重さに押し潰されそうになる。しかし、フェリシアへの思いがどうしても消えず、彼女をこのまま破滅させるわけにはいかない――そんな強い意志が胸に宿っているのだ。
「……必ず真実をつかむ。フェリシアの無実を証明するためでもあり、私自身が下した判断の過ちを正すためでもある」
馬車が大きく揺れながら走り出す。アルフォンスはその振動に身を任せ、窓の外の景色を見やる。青い空に雲が広がり、どこか不安定な天気のようにも思える。まるで自分の心象を映し出しているかのようだった。
コーデリアとの会話で得た手応えは十分。彼女は想像以上に焦っており、フェリシアに罪をなすりつけた疑惑を晴らそうとしている形跡がある。――それこそが、フェリシアが無実であるという逆説的な証拠だ、とアルフォンスは確信し始める。
「待っていろ、フェリシア。……お前が苦しんでいるなら、私が王太子として――いや、ただのアルフォンス・エーデルシュタインとして行動するしかない。コーデリアの思惑を見抜くためにも……」
馬車の窓ガラスに映る自分の顔は、どこか苦悩に満ちている。けれど、そこにははっきりとした決意の色も浮かんでいた。フェリシアがユリウスと手を携えているのなら、いつかきっと証拠を突きつけてくるはず。その時が訪れるまでに、王太子としてもやるべきことがある。
後悔と焦燥、そして小さな希望が入り混じるアルフォンスの心――それが、コーデリアとフェリシアの運命を大きく動かすだろう。すでに、その歯車は回り始めているのだ。
(……取り返しのつかない後悔だけはしないために。今度こそ、私自身の目で真実を確かめなくては)
そう心に誓い、アルフォンスは深く息を吐く。馬車がさらに速度を上げ、王宮へ向かって突き進む。彼の内なる葛藤は激しく燃え上がり、フェリシアへの複雑な思いと責任感が、彼を新たな行動へと駆り立てていた。




