第31話 揺れる心
王宮の奥まった一室は、まるで芸術品を収める宝箱のように美しく飾り立てられていた。金箔の鏡と繊細なレリーフが施された壁面、厚手のカーテンから漏れるわずかな光。それらは王家の威厳を象徴するかのような、まばゆいほどの豪奢さを誇っている。しかし、そこに身を置く王太子アルフォンス・エーデルシュタインの表情は、浮かないままだった。
重厚な机に肘をつき、アルフォンスは考え込むように深く息をつく。彼の前には侍従が静かに控えていたが、その姿勢にはどこか気まずさが漂う。
「……殿下。先ほどの噂について、もう一度ご説明を」
侍従が遠慮がちに声を落として切り出す。アルフォンスは伏せていた視線を上げ、問いかけるように侍従を見つめる。あくまで王太子としての威厳を保とうとするが、その瞳はどこか落ち着きを欠いていた。
「噂、というのは、フェリシア……彼女とユリウスのことか?」
「はい。公爵令嬢フェリシア様と、子爵家のユリウス・アッシュフォード様が、どうやら『何かの証拠』を探して動いているという話が、王宮内でもひそかにささやかれ始めております。具体的に何を証明しようとしているのかは定かではないのですが……」
「フェリシアが、子爵家の……それもユリウスと?」
アルフォンスの胸にざわりとした感情が湧き上がる。あの日、王太子として公衆の面前でフェリシア・ローゼンハイムを断罪し、婚約を破棄したのは自分。彼女が何を考え、何をしようとしているか、あえて知ろうとはしなかった。
けれど今、「フェリシアがユリウスと手を組んでいる」という噂は、わずかに胸を掻き乱す。かつて、あれほど完璧だった公爵令嬢を侮りたくない気持ちと、彼女へのわだかまりが入り混じり、やり場のない苛立ちを感じ始める。
「……詳しい内容はわからないのか? 捏造書簡を集めているとか、そんな話もあるようだが」
「ええ。フェリシア様とユリウス様が『捏造』の証拠を探している――という声もちらほら。ただ、噂の域を出ませんので、真偽は何とも……」
捏造。アルフォンスはその言葉を反芻し、胸の奥が痛むのを感じた。そもそも、フェリシアを断罪する根拠となった書簡や証拠は、周囲の貴族たちが示してきたものだ。それを信じ切った自分は、ある意味、彼女を貶める側に回った。もしそれが誤解なら――。
「……フェリシアが無実だとしたら、私は……?」
思わず漏らした独白に、侍従が「殿下?」と声をかけてくる。アルフォンスは小さく首を振り、冷静さを取り戻そうとする。いくら動揺を隠そうとしても、頭の中はフェリシアのことばかり。
「コーデリアが言う通り、フェリシアが『裏切り者』だとする話は真実なのか。あるいは……」
口から出かかった言葉を飲み込み、机に置かれた書類を睨みつける。ここに並ぶのはコーデリア・クロフォードとの縁談を急ぎ進めるための手続き関連――国王や重臣たちが『次の王太子妃はクロフォード伯爵令嬢で決まり』という流れを固めようとしている証だった。
しかし、アルフォンスの胸には釈然としない違和感ばかりが渦を巻いている。
「殿下、クロフォード伯爵家からは正式に『婚姻を早めに結びたい』という打診が来ております。国王陛下もそれを受けて、殿下にできるだけ早くご決断をと……」
「……わかっている。だが、少し保留させてもらう。私はまだ、フェリシアの件をきちんと処理していないのに、すぐにコーデリアとの婚約なんて……」
「ですが、殿下。フェリシア様は既に婚約を破棄された身。コーデリア様の献身ぶりは殿下もご存じでしょう。伯爵家と結びつけば、国の安定にも寄与すると……」
「わかっていると言っている。――悪いが、しばらく時間をくれ」
アルフォンスのきっぱりとした声に、侍従はそれ以上の追及を控える。深々と頭を下げ、「失礼いたします」と退出していった。
一人残されたアルフォンスは、まるで怒りを持て余すかのように椅子から立ち上がり、大きな窓へと足を運ぶ。夜の帳が降り始めた王宮の庭。木々や花壇が、美しい照明に照らされているはずなのに、その景色を見つめるアルフォンスの瞳はどこか曇っていた。
「フェリシア……やはりお前は、あのままで終わるはずがない。ユリウスを巻き込んで、捏造を暴こうとしているのか?」
かすかに自嘲が混じる。フェリシアなら、無実を示すために最後まで諦めないだろう。公爵令嬢としての誇りが、きっと彼女を動かしている。そう思うと、アルフォンスの胸には複雑な感情がこみ上げてくる。
(なぜ、あのとき私はあんなにフェリシアを疑った? もともと、彼女の「完璧」さに嫉妬にも似た感情を抱いていたかもしれない。私自身が勝手にコンプレックスを抱いて……コーデリアの言葉を真に受けてしまったのか?)
唇をぎゅっと噛み締め、机の上にあった書類を一瞥する。コーデリアの名前が書かれた紙には、彼女との縁談を進めるための手続きが箇条書きで並んでいる。そのすべてが、アルフォンスの目にどうにも嘘臭く見えるのは気のせいではないだろう。
「殿下にはコーデリア様がふさわしい――周囲がそうささやくたび、なぜこんなにも胸が重くなる? フェリシアへのわだかまりはあっても、彼女を想う心は消えていないのか」
そんな問いが頭を巡る。いくら否定しようとしても、フェリシアが実は無実なのではという思いが頭をもたげると、不安と罪悪感が膨れ上がっていくのだ。
であれば、彼女がユリウスと協力しているなら、そこに何か真実を覆す大きなヒントがあるかもしれない。捏造された証拠を暴こうとしているのなら、王太子として自ら動く必要があるだろう。
「もしフェリシアが本当に裏切り者じゃないとしたら、私は……とんでもない過ちを犯したことになる。今さら謝罪では済まないかもしれないが、それでも事実を確かめなければならない」
アルフォンスはもう一度、大きく息をつく。コーデリアを中心とした流れは、国王も賛同しているとなれば、止めるのは容易ではない。だが、こうして流されるまま縁談を進めるのは、王太子としても納得できなかった。
王太子の権威の裏には、いくつもの思惑と陰謀がうごめいている。けれど、フェリシアとユリウスが“何か”を見つけつつあるのなら、今度こそ自分も真実を確かめに行こうと思える。
「……そうと決まれば、まずは彼らが何をつかんでいるか調べる必要があるな。オフィシャルにはコーデリアを立てつつ、密かに私自身でフェリシアの動きを追う。あくまで『もしもの可能性』を探る形で……」
冷静に考えるほど、リスクは高い。もしコーデリアが裏で何かを仕組んでいて、アルフォンス自身がそれを暴こうとすれば、伯爵家との関係も悪化するだろう。国王がどう判断するかも読めない。
しかし、無視すれば、心の中の棘がずっと疼き続ける。フェリシアを無実のまま破滅させるなど、王太子としても人としても耐えがたい。
「殿下、失礼いたします。クロフォード伯爵家の方が、面会を……」
扉の外から侍従の声が響く。アルフォンスは少しだけ息をついて、仮面のように王太子の威厳を被る。
「断ってくれ。もう少し一人で考えたいと伝えてほしい。急ぎの要件でなければ、明日にでも対応するよ」
「かしこまりました……」
侍従が戸惑いながらも引き下がる足音を聴き、アルフォンスは視線を窓の外へ戻す。そこには闇が降り始め、王宮の庭を薄い月明かりが照らし出している。
昼間はあれほど輝いていた庭が、夜の中では静謐を纏うように姿を変えていた。まるで自分の心の変化を象徴しているようで、アルフォンスは皮肉げに唇を吊り上げる。
「待っていろ、フェリシア。……お前とユリウスがどんな証拠をつかんでいるのか。私自身で確かめさせてもらう。――もし、本当に私が間違えていたなら……」
言葉の続きを出せないまま、アルフォンスは机に戻り、書類を雑に片付け始める。国王や重臣たちがしびれを切らす前に、フェリシアの動きを把握し、コーデリアの周囲を探らなくては。
胸の奥に生まれたこの苛立ちと罪悪感を拭うために――アルフォンス・エーデルシュタインは王太子として、初めて本気で「真実」を求める行動を起こそうとしていた。たとえそれが、自分の名誉を傷つける結果になったとしても。
(……私にはそれを甘んじて受ける責任がある)
窓の外の闇は深まり、月の光がかすかな軌跡を床に落としている。アルフォンスはそんな夜の静寂の中で、一人きりの葛藤に身を沈めつつも、やがて決意を固めたように顔を上げた。
――フェリシアとユリウス、そしてコーデリア。すれ違う運命の糸を解くため、王太子が動き出す日は近い。彼自身が捨てきれないフェリシアへの想いと責任感が、その扉をこじ開けようとしている。




