第28話 火花散る応酬
白を基調とした高い天井、大きなシャンデリアのきらめき、壁一面に施された絢爛な装飾。ここは貴族街の中心にあるサロン。昼間のまばゆい陽光を反射する窓の外には、華やかな花々が咲き競い、音楽隊が奏でる優美な旋律が空気を満たしている。
――にもかかわらず、わたしはどこか息苦しさを覚えていた。周囲に集う令嬢たちが艶やかなドレスを纏い、おしゃべりと噂話に興じる光景は、かつてならわたしも自然に溶け込めたはず。だが、今は違う。婚約破棄の噂が絶えない公爵令嬢――それがわたしの新たな肩書き。今や注目の的というより、失脚者としての好奇の視線を浴びる立場になってしまった。
「フェリシア様、大丈夫ですか?」
控えめな声で問いかけるのは、いつもそばにいてくれる侍女のハンナ。わたしはかすかに微笑んで応じる。
「ええ、大丈夫よ。こんなところで落ち込むわけにはいかないわ」
そうは言いつつも、正直なところ落ち着かない。周囲の視線や、小声でささやかれる噂話が耳をくすぐるたび、胸がざわついて仕方がない。だが、公爵家の令嬢としてのプライドを捨ててはならない。逃げ出せば、また「あの子は本当に罪を犯したのだろう」なんて憶測を増幅させるだけだ。
サロンの中央付近を避け、壁際を歩いていたわたしの前に、唐突に華やかなドレスが翻った。ピンクゴールドのきらびやかな生地、完璧に整えられた金髪、貼り付いたような笑顔――コーデリア・クロフォード。その隣には数名の取り巻きが並び、まるで観衆を従えているかのようにやって来る。
「まあ、フェリシア様。お見かけしないと思ったら、こんな端のほうにいらしたのね。ごきげんよう、今日はお元気そうでなによりですわ」
優雅な礼を交わすコーデリアの声は、どこか意地悪く響いている。彼女の取り巻きがくすくす笑うのを感じて、わたしの背筋がこわばる。けれど、表情を崩さないように気を配る。
「ええ、ごきげんよう。コーデリア様もお変わりなく」
「ふふ、そうですわ。ところで、噂を聞きましたけれど……王太子殿下とのご婚約、本当に解消されてしまったのですってね? あら、わたくしとしては驚きですわ。あれほど公爵令嬢として完璧だったフェリシア様が、いったいどうなさったのかしら?」
彼女の唇には、含み笑いが浮かんでいる。周囲の令嬢たちもちらちらとこちらを伺い、まるで「続きを聞きたい」とでも言わんばかりの瞳を向けている。
「ご心配ありがとうございます。でもわたしには、まだいろいろとやるべきことがございますので。おかげさまで、悲しむ暇などございませんわ」
「まあ、それは何より。やはり、どんなに大きな『失敗』をしても、フェリシア様は立ち直りが早いのですわね。うらやましいこと」
その言い回しがわざとらしく胸をえぐる。わたしは一瞬だけ息を詰まらせるが、深呼吸して冷静さを取り戻す。
「人生において、婚約が全てではありませんもの。コーデリア様は――王太子殿下とご親交があるのですわね? 最近よくお名前を耳にしますわ」
「ええ、殿下のお力になりたいと願っておりますの。まったく、フェリシア様があんなことをしていなければ、もっと円満だったでしょうに……残念ですわね」
取り巻きのひとりが「ほんと、残念ですわよね」と同調する。わたしの方を見て嘲笑を浮かべているように見えたが、ここで挑発に乗るわけにはいかない。
「ええ、残念ですね。……もっとも、わたしはいまだに何を『あんなこと』と言われているのか存じ上げませんが?」
「まあ、しらばっくれますの? 王太子殿下との間に、一体どれほどの不正があったのやら。……わたしたちには知る由もございませんけど、周囲のお話ですと、『かなりよろしくない裏工作』をされていたとか?」
コーデリアが目を伏せて笑う。取り巻きたちがさも面白げに瞳を輝かせる。「そうそう、あれは許されない所業よね……」と、聞こえるような声で噂を重ねてくる。
わたしの胸の奥に怒りが芽生えるが、ここで感情を露わにしては負けだ。唇をぎゅっと結び、落ち着いた声で返す。
「噂など、どこまで本当かわかりませんわ。皆さまも鵜呑みになさらず、どうか冷静に御判断を」
「あら、フェリシア様がそれを言うのね。わたくしは『噂』ではなく、殿下から伺ったお話を信じているだけですわ。まあ……いずれ、おわかりになるのでしょうけれど」
「ええ、そうでしょうね。わたしも『真実』は一つだと信じておりますから」
静かな火花が散る。コーデリアがふんわりと優美な礼をして、取り巻きたちとともに離れていく。わたしは背筋を伸ばしたまま、ただその姿を見送り、“負けてなどいない”という雰囲気を醸し出す。
しかし、彼女らの去り際の笑みが気に障る。まるで「あなたはもう終わりなのよ」と嘲笑しているかのようだ。
「フェリシア様、ご無事で何よりです……。よくあれだけ挑発されて耐えられましたね」
ハンナがそっと耳打ちする。その声に苦笑を返す。
「誇りだけが残っているんですもの。ここで感情を爆発させたら、思う壺でしょう。……でも、正直苦しかったわ」
「やはり、今は何を言われても冷静でいるしかないのですね……。フェリシア様のお気持ちを考えると、わたしまで悔しいです」
「ありがとう、ハンナ。でも大丈夫。わたしはこんなところで折れるわけにはいかないわ。ユリウスや仲間たちが頑張ってくれているんだから、わたしも立ち止まれない」
そう――今、わたしの周囲にはユリウスが集めてくれた証拠がある。彼とはすれ違いばかりだけれど、捏造書簡をはじめ、コーデリアの陰謀を暴くための手がかりは少しずつ揃ってきている。だから、このパーティーでどれほど嫌味を言われようと、わたしは挫けないと決めている。
「もし……もしコーデリアが本当に王太子殿下の隣を奪い取ったとしても、それがわたしの最後じゃない。いえ、王太子殿下の隣であるかどうかも、もう重要ではないのかもしれない」
「フェリシア様……」
「わたしに必要なのは『名誉』よ。捏造された罪を被って終わるなんて、絶対に嫌。コーデリアの言葉を真に受けて、わたしを笑う人がいても構わない。でも、真実を暴いて、王太子にも認めさせなければ」
ハンナは大きくうなずく。その瞳に映るのは、わたしの決意を後押しする光。冷や汗がにじむような空間でも、わたしはまだ戦える。
胸に渦巻く怒りを、冷静な炎に変えよう。フェリシア・ローゼンハイムは、かつて王太子の婚約者と噂された令嬢――そう呼ばれようが、わたしはわたしの誇りで最後まで立ち続けるしかないのだ。
「……ありがとう、ハンナ。ここにいる間、嫌みの応酬が続くでしょうけど、これも修行だと思って耐え抜くわ。わたしがどれほど潰れていないか、見せつけてやらなくちゃ」
「はい! わたしも隣で支えますから」
取り巻きたちの視線がまだこちらに注がれているのを感じる。コーデリアがその中心で、わたしに背を向けながら笑っているのが見えた。いずれ、彼女の笑顔を凍りつかせる証拠を突き付けてみせよう――そう思うだけで、少しだけ気持ちが楽になる。
(コーデリア、今は勝ち誇っていても、必ずあなたの裏工作を暴いてみせる。わたしを嘲笑する声など、真実の前には脆く崩れるはずだから)
揺るぎない意志を胸に抱きつつ、わたしは毅然とした足取りでパーティーの奥へと進む。周囲が何をささやこうと、表向きは微笑を絶やさない。王太子殿下の元婚約者として、貴族令嬢として――屈辱にまみれながらも、この華やかな場所で一歩も引かない自分であることを示すために。
わたしを見下す視線をかわしながら、黙々と優雅に振る舞う。コーデリアが吐き捨てる嫌味の響きを背中に感じても、表情を崩さず立ち続ける。夜の帳が降りるまで、この戦いは続くのだ。だが、その先にこそわたしが求める名誉の回復と、コーデリアへの反撃の可能性がある。
王太子殿下に捏造を突き付けられ、周囲からは嘲笑を浴び、コーデリアには嫌味を言われても――フェリシア・ローゼンハイムは決して折れない。そう胸に誓い、わたしはこの場を乗り越えていくのだった。




