第27話 心の隔たり
夜のとばりがしんしんと降りる公爵邸。わたし――フェリシア・ローゼンハイムの部屋の窓からは、暗い空が広がっていた。雲間からわずかに覗く月明かりが細い筋を描き、床に伸びる影を淡く照らしている。
昼間の喧騒が嘘のような静寂の中、わたしは椅子にもたれ、外の闇をじっと見つめていた。書斎から戻ってきたものの、心は乱れるばかりで落ち着ける気がしない。そんなわたしの横には、侍女のハンナが控えてくれている。
「フェリシア様、そろそろお休みになりませんか? あまり夜更かしは……」
ハンナが心配そうに声をかける。でもわたしは、むしろ眠れない気持ちのほうが強い。
「ありがとう、ハンナ。今は、まだ眠る気になれないの。頭がどうにも整理できなくて……」
そう言うと、ハンナは困ったように眉を下げたまま、しゅんとした顔でこちらを伺っている。まるで「何か言ってほしい」とねだる子どものよう。それでも彼女は口を慎み、話を聞く体勢を整えてくれていた。
部屋の中に数秒の沈黙が落ちる。わたしはそのままガラス越しの外の闇を見つめる。妙に心がざわざわしていて、床に影を作る灯火の頼りなさが胸にしみるようだった。
「……ハンナ。さっきユリウスが持ってきた書簡、見たでしょう?」
「はい。あれが捏造されたものなら、すごく価値のある証拠になりそうです。フェリシア様を陥れたのがコーデリア様だという裏づけになるかもしれませんから……」
「そう。それなのにわたしは、あんなふうに『それだけじゃ難しい』って突き放してしまった。……彼をどれだけ悲しませたか、わかっているのに」
思わず唇を噛む。さっきの書斎でのやり取りが脳裏をよぎる。ユリウスのあの真剣な瞳――彼は心からわたしを助けたいと思ってくれているのに、わたしは冷たく拒絶するしかなかった。
ハンナは少しうつむいたまま、小声で切り込んでくる。
「フェリシア様は、どうしてユリウス様をそこまで突き放すのですか? 本当は頼りたいと思っておられるのでは……」
「……それを口にできたら、どんなに楽かしら。いっそ『助けて』と泣きつければ、わたしはずいぶん救われるでしょうね。でも、できない。……あの子爵家の立場を考えれば、下手に大きな敵を作れば彼が潰されるかもしれないのよ」
貴族社会は残酷だ。公爵家だからこそできる力もあるが、王太子殿下と衝突すればわたしが崩れるのはもちろん、ユリウスにだって火の粉が降りかかる。その危険をわかっているからこそ、わたしは誰かの手を簡単には借りられない。
ハンナはその想いを汲んでくれたのか、さらに深く踏み込んでこない。一方で、その沈黙がわたしの胸をさらに締め付ける。
「……それに、わたし自身の誇りの問題もあるの。王太子殿下との婚約を破棄されたからこそ、わたし自身が戦わなくちゃ意味がないと思ってる。それを他人に任せていたら、いつまで経っても『公爵令嬢』という殻の中にいるだけじゃない?」
「フェリシア様はご立派です。でも、それだけで解決しないこともあるのでは……ユリウス様の熱意は、本物かと」
ハンナがやんわりと諭すように言う。わたしは言葉に詰まる。わかっている。ユリウスは本気でわたしを助けたいと思ってくれているのだ。それが伝わるからこそ、この先を思うと苦しい。
「わかるのよ。わかっているの。それでも、子爵家にまで災いを招くような真似はしたくないわ。……わたしがいくらユリウスと同じ方向を向いていても、今のこの状況でうかつに手を取り合えば、きっとコーデリアが付け入る隙を作るだけかもしれない」
「でも、ユリウス様はそれを承知で動いてらっしゃると思いますよ。危ない橋を渡る覚悟もありそうでした」
「そう……だとしても、わたしが彼を守れなかったら? わたしのせいで彼が追いつめられたら、わたしはどう責任を取ればいいの?」
思わず声が震える。王太子殿下からの断罪に加え、コーデリアの陰謀がある限り、誰かを味方につけようにも確実な保証がない。もし失敗したら――その悲劇の未来を想像すると、胸が詰まるようだ。
「フェリシア様……」
ハンナがそっとわたしの肩に触れる。その手の温もりに、張り詰めた神経が少しだけ緩む。しかし、同時に涙が込み上げてきそうで、目をぎゅっと閉じる。
「もう、誰かを信用して裏切られるのは嫌。婚約破棄もこんな形で押し付けられて、今さらに……。ユリウスに傷ついてほしくないからこそ、わたしは厳しく言ってしまうの。……わかってる、わがままだって」
「わがままじゃありません。フェリシア様は優しさゆえにそうしているんです」
「優しさ、ね。もし彼が犠牲になってでもわたしを救おうとしていたら、わたしはそれを見過ごすことなんてできないから……」
その言葉を最後に、しばし沈黙が落ちる。カーテンを閉め切った部屋にはランプのほんのりした光がぼうっと浮かび、わたしの心の苦悶を映し出すように揺れている。
「ハンナ……わたし、彼に頼っちゃいけないのよね?」
「……それを決めるのは、フェリシア様ご自身です。でも、ユリウス様を遠ざけ続けることで、フェリシア様が幸せになれるわけではないと、わたしは思います」
まっすぐなハンナの言葉に、胸がつきりと痛む。確かに、突き放している今のわたしは、ちっとも幸福じゃない。むしろ、苦しくて寂しくて、夜になればこうやって一人きりで悩んでいる。
「幸せ……わたしには、王太子殿下との婚約が破棄されて以降、そんなものとは無縁になった気がする。……でも、考え方を変えれば、まだ救われる余地はあるのかしら」
「必ず見つかると思いますよ。もしその時が来たら、ユリウス様を頼るのも悪い選択ではないかと……」
「……そう、ね。今はまだ怖いけれど、いつか――」
声が震え、そこから先を言えなくなる。まぶたの奥がじわりと熱くなるのを感じ、わたしは何とか堪えようとする。だが、さっきまで封じ込めていた感情が、ハンナの優しさに触れてあふれ出しそうだ。
「……ああ、本当にわたしはどうしようもないわね。彼に手を借りたいのに、それを認めるのが嫌で堪らない」
「フェリシア様……」
ハンナが手を伸ばし、わたしの肩を引き寄せる。その瞬間、体が自然と力を抜いた。歯を食いしばってきたけれど、もう我慢できない。頬を伝う涙を拭うこともできず、わたしは声を殺して泣き始める。
「ごめんね、ハンナ。あなたにこんな姿を見せるなんて、情けないわ……」
「泣きたいなら、泣いてください。フェリシア様はいつも強がってばかりなんですもの。たまには甘えていいんですよ」
「……甘えたいのは、ユリウス……かもしれないのに。……馬鹿みたい」
言葉が途切れ途切れになりながら、胸の奥の想いがこぼれていく。あんなに突き放しておきながら、本当はユリウスの温かさに救われたいと願っている自分がいる。だけど、それを素直に認められない。彼の立場も、わたしのプライドも、全部が絡み合ってしまって。
「でも……わたしはもっと、強くならなきゃいけない。コーデリアに負けてられないし、王太子殿下にもわたしの潔白を示したい。そしてユリウスにも……あの子にも、わたしの無力さをこれ以上見せたくない」
「ええ。フェリシア様なら、きっとやり遂げられます」
「ありがとう……少しは信じてあげてもいいのかしらね、ユリウスを」
わずかに笑みを浮かべると、ハンナも微笑み返す。涙が収まり、胸の痛みも少し和らいできた。それでも、夜の闇は深く、この先の戦いが容易ではないと感じさせる。
「……もう休むわ。ハンナ、あなたも早く休んでちょうだい。明日からまた忙しくなりそうだから」
「かしこまりました。おやすみなさいませ、フェリシア様」
ハンナが退出すると、部屋には再び静寂が戻る。わたしはベッドに横たわり、天井を見つめたまま深呼吸を繰り返す。ユリウスに対する想いが今も胸を締め付けるが、同時にほんの少しだけ前を向けるようになった気もする。
「……いつか、ユリウスにお礼を言いたいわ。こんな意地悪なわたしにまで、真剣に手を差し伸べてくれて……」
その言葉は闇に溶け、誰の耳にも届かない。しかし、自分の心の中でだけははっきりと響く。王太子殿下との婚約破棄がもたらした絶望、コーデリアの陰謀、噂の嵐――それら全てに立ち向かうにはまだ力不足かもしれない。けれど、ユリウスやハンナの支えがあるならば、きっと大丈夫。
灯りを消して瞼を閉じると、涙の熱が再び瞳に溜まるのを感じる。だけど先ほどとは違い、心の奥に小さな光が生まれている。彼が差し出す手にすがる勇気を、いつかわたしが手にできるのだろうか。考えるだけで切なくなるけれど、同時にわずかに希望が芽生えるのも事実だ。
「……ユリウス、もう少しだけ、あなたを遠ざけるかもしれない。でも、いつか必ず……」
語尾は息に紛れてかき消される。暗闇の中、静かな夜が深まっていく。わたしの心もまた、夜の闇に包まれて、眠りへと誘われる準備を始める。
あふれる涙と、こぼれそうな本音を押し殺しながら、わたしは自分を奮い立たせるのだ――ユリウスに対する想いを隠し通すためにも、そしてコーデリアとの戦いに備えるためにも。
こうして、わたしは夜の闇の中で、ユリウスへの複雑な感情を一瞬だけ認めたものの、結局は再び押し殺してしまう。助けを求めることに抵抗を感じる自分がいるから――そして、彼を巻き込みたくないという優しさと、自分で乗り越えねばならないという意地がわたしを縛っているからだ。
その切ない思いを胸に、わたしは静かにまぶたを下ろし、長い夜を過ごしていく。夜明けが訪れれば、また新たな戦いが始まる。ユリウスの手を借りたいと思いながらも、それを素直に受け入れられないもどかしさを抱えつつ――わたしの戦いは、まだ終わらない。




