第26話 苦悩
夕刻の街を進む馬車の中、ユリウス・アッシュフォードは窓外の景色を見つめながら、心中で大きな溜め息をこぼしていた。車輪の振動が身体を小刻みに揺らし、曇りがかった空が赤から紫へと淡く移り変わっていく。そんな移りゆく景色を眼にしつつも、彼の胸にはひたすら重苦しさが広がっていた。
(ああ、やっぱり今日もフェリシアと噛み合わなかった……。彼女があれほど冷静だなんて、わかっていたはずなのに)
ユリウスは背もたれに身体をあずけ、視線をひとたび天井へと向ける。公爵邸を後にしてしばらく経ったが、まだ先ほどの書斎での情景が鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。
あの場で「捏造書簡」という大きな手掛かりを手渡すことはできた。だが、フェリシアは「それだけでは難しい」と、あくまで冷静かつ慎重な態度を崩さなかった。
(もちろん、彼女が無闇に浮き足立たないのはわかる。でも……。俺の想いは、あれほど伝えたのに)
無論、フェリシアがユリウスの善意を否定しているわけではないだろう。彼女も証拠の価値は理解している。ただ、彼女には「貴族社会の現実」が重くのしかかっているのだろう。それを思えば、なかなか素直にユリウスの力を頼れないのも無理はない。
それでも、心に込み上げる悔しさは収まらない。ひょっとしてユリウスが甘く見ているだけで、彼女のいう「現実」はもっと険しいのかもしれない。それでも諦めたくない自分を、彼は持て余しているようだった。
「ユリウス様、もしや気分が優れませんか……?」
向かいの座席に控える従者が遠慮がちに尋ねる。ユリウスは小さく首を振り、愛想笑いを浮かべた。
「いや、大丈夫。少し考えごとしていただけだよ。……ありがとう、気遣ってくれて」
従者は納得したように黙り込む。馬車は子爵家へ向かう道を走っているが、ユリウスはどうにも心が落ち着かない。ふと、窓越しに見える街の景色に目を向ける。夕暮れの光が家々の壁を染めて、ノスタルジックな雰囲気を漂わせていた。
(フェリシアは、やっぱり俺のやり方に不安を抱いてるんだ。子爵家じゃ立場が弱いし、実際、王太子や公爵家に対してどこまで通用するかわからない。……けど、何もしなかったら、永遠にあの陰謀は暴かれず、フェリシアは責められたままじゃないか)
彼女の苦しげな瞳が瞼の裏に浮かび、胸の奥がきしむような痛みを覚える。先ほど書斎で見せたあの表情――決して弱さを見せないと思っていたフェリシアが、ほんの少しだけ動揺していた気がする。その一瞬が、彼の心を強く揺さぶる。
(フェリシアは本当は誰よりも傷ついているのに、プライドや家の事情を背負って、一人で全部抱え込もうとしている。……見ていられないのに)
書簡を手渡すとき、フェリシアがわずかにためらいながらも受け取ってくれたのを思い出す。彼女の指先は震えていたわけではないが、どこかぎこちなく、かすかな迷いが感じられた。その姿が、ユリウスには彼女が決して「無感情な拒絶」をしているわけではない証のように思えた。
「それでも、あんなに『子爵家の立場じゃ難しい』って突き放すなんて……。でも、俺がやらなきゃ、いったい誰がやるって言うんだ」
自分の独白が馬車の中に染み渡る。彼は拳をぎゅっと握りしめ、眉を寄せてさらに思考を巡らせた。
確かに、貴族社会で子爵家の影響力は微々たるもの。公爵家や王家に対抗するのは並大抵のことではない。だが、逆に目立たないからこそ動きやすい面もあるはずだ。情報を集めて、コーデリアの取り巻きの裏を取るくらいは十分にできる。
「もし成功すれば、フェリシアはあのコーデリアから解放されるかもしれない。婚約破棄だって覆せるかわからないけど、少なくとも『フェリシアが罪人じゃない』と示せるんだから」
彼女が王太子にどう思われるかは、もはや彼女自身の問題かもしれない。だが、ユリウスはそれを超えて、友として、いやそれ以上の気持ちでフェリシアを救いたいのだ。結局、フェリシアを遠ざけるような態度をとられても、諦め切れないままここにいる。
窓の外を見やると、木々の影が長く伸び、オレンジ色に染まる空が次第に紫へと変わりつつあった。王宮から離れるほど、街並みは庶民的になっていく。賑わいも少し落ち着いて、あちらこちらで灯りがともり始めている。
(フェリシアが受け入れてくれなくても、俺には俺なりのやり方がある。ちょうど仲間たちが協力を申し出てくれているし、これからまだ証拠を集められるかもしれない)
そう考えると、先ほどの挫折感が少し薄らいでいく。フェリシアが冷たく見えようとも、ユリウスを無視してはいない。彼女自身も、この“偽造書簡”に価値があることは認めたのだから。
つまり、見込みはゼロじゃない。必要なのは、さらに強い裏付けとタイミング、そしてコーデリアの思惑に先手を打つ行動力。子爵家の彼だからこそできる動きもあるはずだ、と前向きに考えたい。
「……まだだ。絶対に終わらせない。フェリシアが泣くのは見たくないんだ」
思わず声に出してしまい、従者が怪訝そうにちらりと視線を向ける。ユリウスは気まずさを誤魔化すように軽く肩をすくめた。
「……悪い。少し思案中なだけだよ」
「はい、かしこまりました」
短いやりとりのあと、再び静寂が馬車の中に訪れる。ユリウスはこの場を借りて、改めて自分の決意を固めることにした。貴族社会のルールや立場の差は確かに厚い壁かもしれない。けれど、それだけを理由にフェリシアを放っておけるはずがない。
(もし本当にフェリシアが無実なら、王太子殿下は必ず後悔するだろう。……いや、後悔させてみせる。コーデリアの陰謀に乗せられたってことを、白日の下にさらしてやるんだ)
馬車が徐々に減速し、細い路地を曲がるようだ。子爵家はもう近い。夕闇が迫る街で、ユリウスはまた一人きりの時間を過ごすことになるだろう。父には「また余計なことをしているのか」と怒られるかもしれないが、知ったことか。
「フェリシア……いつか君に、ちゃんと『ありがとう』って言ってもらえるような結果を出したい。たとえ今は距離を置かれていても、俺は決して諦めないよ」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、馬車が停まった。従者が「ユリウス様、到着いたしました」と扉を開く。ユリウスはすぐには動かず、わずかに顔を上げて窓から夕暮れの空を見上げた。
空が深い藍色へ移り変わりつつある。星が瞬き始めるのは、あともう少しかかりそうだ。まるで今の状況を示すかのように、かすかな光はまだ遠い。
(でも、光が見えなくても探し続ける。彼女を救うために)
心の中でそう決意して、ユリウスは馬車を降りる。その足取りは少しだけ先ほどより力強い。かすかな落胆の中にも、もう一度奮起する心が芽生えていた。
――フェリシアが「難しい」と言うのなら、難しさごと覆してやろう。自分が弱い立場とわかっていても、弱いなりの戦い方があるはずだ。コーデリアの陰謀などに負けていられない。フェリシアのためにも、そして自分自身のためにも。
こうしてユリウスは、もどかしい思いを抱きながらも決意を新たに子爵家へ戻る。昏れかけた空の下、一人きりの馬車での帰路は寂しかったが、その寂しさがむしろ彼の意志を強く後押ししていた。
(フェリシア、君が俺を信じられないなら、信じられる結果を見せるだけだ。絶対に諦めない。――待っていてくれ)
闇が少しずつ深まる街路を歩きながら、ユリウスの瞳は揺るぎない光を宿している。誰もが難しいと言っても、自分には守りたいものがある。彼はそれだけを頼りに、静かに歩き出したのだった。




