第21話 後悔
夜の王宮は、まるで深い海の底のように静まり返っていた。広い廊下には燭台の明かりが遠慮がちに揺れているだけで、昼間の華やかさが嘘のように感じられる。そんな静寂を破るかのように、王太子アルフォンス・エーデルシュタインは私室の机に腰掛け、手元のグラスを見つめていた。
(フェリシア……)
頭の中で彼女の名前が反響する。ぼんやりとした意識のまま、彼は琥珀色の酒を口に含んだ。普段なら滅多に飲まないものなのに、今日は気を紛らわせたくて手を伸ばしている。
グラス越しに見る燭台の炎は、かすかな揺らぎを映している。一見、派手に燃え上がるようには見えないが、その小さな灯りがこの部屋の闇をかき消している――今のアルフォンスの心のように、何かわずかな光にすがろうとしているのかもしれない。
「……どうして、こんなことになってしまったのか」
一口酒を飲むたびに、あの日の光景が脳裏に戻ってくる。王宮の大広間で、公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイムを「裏切り者」として断罪した自分。彼女の悲しげな瞳、必死に言い返そうとする口元――けれど周囲の空気に押されて、最後まで聞かなかった自分。
あのときアルフォンスは、疑いの「証拠」を見せられて、一気に全否定する道を選んだ。王家の威厳を守るためだと信じていたし、彼女が不正を働いたと確信してしまっていた。だが、なぜだろう? 今になってその決断に違和感を拭えない。
(フェリシアはいつも完璧な公爵令嬢で、私には高嶺の花のようだった。小さい頃から厳しく育てられて、私なんかよりずっと努力していたはず……。なのに、どうして簡単に疑ってしまったんだ?)
昔を思い出す。幼いアルフォンスが王宮で舞踏の練習をしていたころ、フェリシアは公爵令嬢として隣でステップを繰り返していた。彼女は決して上手とは限らなかったが、一度道を定めたら諦めない強さがあった。その背中を、どこか羨ましく見つめていた記憶がある。
「……コンプレックス、だったのかもしれない」
声に出して自嘲する。フェリシアは「完璧」な存在だと、周囲がささやき、アルフォンス自身もそう感じていた。王太子として生まれた彼には、何かと称賛が集まりがちな立場。しかし、本当に心から努力する姿を目の当たりにすると、むしろ自分の方こそが怠惰で、まばゆい彼女に及ばないような気がしてきたのだ。
その結果、フェリシアが「本当は悪者」という噂を聞いたとき、まるでそれが救いのように飛びついてしまったのではないか――そう思うと、胸が苦しくなる。
「もし、あれがすべて誤解だったら、私は何をしたんだ? 王家の面子を盾に、彼女を潰したも同然じゃないか」
酒をあおっても、喉を通るだけで心は晴れない。仰々しい調度品が並ぶこの王太子の部屋でさえ、アルフォンスの不安を静める力はないらしい。
あまりにも広すぎる室内。彼はその中心で、あまりにも小さな孤独を抱えている。ドアの外には侍従や衛兵が控えているが、王太子としての偉容を取り繕わなければならない。本音を吐き出せる相手など、ここにはいない。
(コーデリアは私に証拠を揃えてくれるけれど、それを見るほどに、「本当にこれが正解なのか?」と疑ってしまうんだ。なぜ……?)
クロフォード伯爵令嬢、コーデリアは何もかも出来すぎている気がする。彼に寄り添い、名誉を守ろうとしてくれるのはありがたい――はず。でも、彼女が用意してくれる「フェリシアの不正を裏付ける書類」を目にするたびに、どこかで針が胸に突き刺さるのだ。
「フェリシアが……不正など働いたのか? あの子が、王家を欺くようなことを、本当に?」
飲み干しかけたグラスを机に置き、アルフォンスは窓の方へと歩み寄った。分厚いカーテンの向こうに夜の暗闇が広がっている。わずかに星が瞬いているが、雲が多いせいで視界はあまり明るくない。まるで彼の心そのものを映し出したような曇天だ。
「フェリシア……私はお前を傷つけた。だけど、お前が悪いってみんなが言うから、私も信じてしまった。でも、本当にそうだったのか? お前の瞳は、本当に嘘を吐いていたのか……」
一人きりの夜。誰にも聞かれることのない独白。もし彼が王太子としての立場を投げ出せるのなら、今すぐにでも彼女に問いただしてみたい。けれど、それは王家の決定に楯突く行為とみなされるかもしれない。国王や周囲の貴族に迷惑をかけるかもしれない。
だが、彼のコンプレックスが事実を曇らせた可能性を考えると、じっとしてはいられない気持ちもある。フェリシアが罪を犯していなかった場合、アルフォンスは重大な過ちを犯し、彼女に取り返しのつかない傷を与えたことになるのだから。
「昔のあの子は、一生懸命で、弱音を吐かず、それでいて時々不器用だった。……私だって見たことがある。フェリシアが舞踏の練習で苦しんで、密かに涙をこぼした瞬間。それを見せまいと歯を食いしばっていた姿」
あの姿が嘘だったとは思えない。完璧な公爵令嬢といえど、何もかもが順調ではなかっただろう。だが、彼女は努力でもって自分を高めようとしていた。その「誠実さ」を、なぜあの日だけは信じられなかったのか――その疑問が胸を貫く。
「……コーデリアがいくら『フェリシアの悪行』を示しても、私はもう鵜呑みにできない。もしこれが陰謀なら、私はまんまと踊らされているだけだ」
己の無力さに歯噛みしながら、アルフォンスは薄暗い室内を一往復する。こんなに豪華な部屋なのに、冷たい空気だけが肌にまとわりつくようだ。言うなれば、これこそが彼の抱える孤独――王太子という肩書で守られた、しかし自由のない檻のようなもの。
窓の外で風が鳴ったような気がして、アルフォンスは一瞬耳をすませる。だが、静寂の中で何も聞こえない。まるで世界から隔絶されたかのように、ただ燭台の炎が揺れている。
「……もし、フェリシアが本当に何もしていないなら、私は謝るだけでは済まないだろう。どんな顔をして会えばいい?」
彼女が無実なのだとしたら。婚約破棄を宣言したのは、王太子としての独断だ。周囲はそれを当然だと持ち上げたが、彼女本人にとってはたまったものではない。赦してもらえるかどうかは分からないが、それすらも彼は確かめたくなってきている。
夜はまだ更けない。アルフォンスは再び机の上の封書に手を伸ばそうとするが、やはり読む気になれず、手を引っ込める。コーデリアからの「さらなる証拠」――読めば読むほど、彼の心は締め付けられていくだけだろう。
「私自身が、真実を見極めるしかない。そう……王太子であろうと、間違った判断を正す義務がある」
一度は断罪した相手を、今さら庇うわけにはいかない。そんな声が頭の中で響く。けれど、それ以上に、彼は自分がフェリシアに抱いていたもの――それが単なる高慢な令嬢への嫌悪だけでなく、尊敬や愛情のような感情も混じっていたと気づき始めていた。
「お前がいない王宮は、どうにも味気ないよ。……私はお前と決別することで、いったい何を得たんだ?」
答えが出ないまま、アルフォンスはランプの火を少し絞る。室内はさらに暗くなり、彼のシルエットが壁に伸びる。王太子として生きていくために、彼は何か大切なものを踏みにじってしまったのではないか――そんな自責が、夜の闇とともに彼を包み込んでいく。
やがて、疲れ切った体をベッドに投げ込んでも、目を閉じるだけでフェリシアの涙を思い出してしまう。あのとき気づけなかった優しさや、幼少期に交わした小さな約束が、鋭い棘となって胸を刺す。
「フェリシア……どうか、無事でいてくれ。もし私の勘違いなら、必ず償う。もう一度、真実をお前の口から聞きたい……」
彼のつぶやきは暗闇に溶けて、誰の耳にも届かない。隣にはコーデリアはいないし、侍従も王太子のプライベートに深入りはしない。
こうしてアルフォンスは、己の迷いと自責を抱えたまま、闇夜の中で眠れぬときを過ごす。王太子という立場、コーデリアの存在、フェリシアへの罪悪感――それらすべてが複雑に絡み合い、次第に彼を動かそうとしていることに、彼自身がまだはっきりと気づいてはいない。
しかし、その心の声が止まらぬ限り、アルフォンスはきっと真実へと近づく行動を起こさずにはいられないだろう。夜が深まるほどに、その決意の輪郭がわずかに強まっていくのを、彼は感じ取り始めていた。




