第2話 陰謀
「――フェリシア・ローゼンハイムに告ぐ!」
アルフォンス様の真横に控えていた侍従が、これ見よがしに分厚い束の書類を手に、高らかに宣言する。まるでこの大広間が裁判所にでもなったかのように、ざわつく空気がいっそう重くなった。
わたしの周囲を取り囲むのは、華やかな装いの貴族たち。けれど、その面持ちは今や興味や好奇の色に染まり、先ほどまでの優雅な式典の余韻など微塵も感じられない。ここはすでに「告発」の場と化していた。
「ただいまより、フェリシア・ローゼンハイム様の不正行為について、提示された証拠を読み上げさせていただきます」
侍従がスッと一枚の書類を取り出し、威圧感を伴って言葉を紡ぐ。わたしの耳には、その一言一言が重く、鋭い槍のように突き刺さってきた。
「まず――王家の財務を不正に操作し、私腹を肥やそうと企んだという疑惑。さらに、他の令嬢たちを陰で貶め、王太子殿下の信頼を利用して利益を得ようとした――以上の件について、詳細な記録がこちらにまとめられております」
「そ、そんな……っ!」
思わずわたしは声を張り上げてしまった。いくらなんでも荒唐無稽すぎる。公爵家の令嬢であるわたしが、王家の財務をどうこう操作する余地など、そう簡単にはあるはずがない。ましてや、他の令嬢を貶める? そんな陰湿な行為、考えたことすらない。
(これは絶対におかしい。そんなこと、わたしがするわけないわ!)
内心で必死に訴え続けても、声に出すと同時に相手から「証拠を見なさい」と切り返されるのが目に見えていた。だからこそ、わたしは唇を噛み締め、動揺をぎりぎりのところで押し殺す。
侍従は容赦なく書類を掲げ、次々と書き連ねられた「事実」を列挙していく。そのたびに周囲の貴族たちがざわつき、なかには「あんなに完璧だと思っていたのに」「やはり人は見かけによらないものね」などと勝手なことをささやく声が聞こえてくる。
「フェリシア様、本当なの……?」
「そんな悪どい真似をする方には見えなかったけれど……」
「でも、あれだけの証拠が出てきたとなると……ねぇ?」
そっと聞こえる同情混じりの声も、わたしにとっては痛みを助長するだけだった。もともと社交界で「完璧な令嬢」と呼ばれ、父の厳格な教育の下、粗相のないよう気を張ってきた。わたしが人を陥れたり、不正を働くなどあり得ない――けれど、ここでそう主張しても「嘘をついている」と思われてしまう可能性は高い。
そんな中、アルフォンス様がわたしをまっすぐに見据え、低い声で問いかける。
「フェリシア。今示された証拠に、何か弁解はあるか?」
(どうして、どうしてそんな眼差しを……)
アルフォンス様の瞳は、まるで怒りと悲しみの両方をたたえているように見えた。わたしは王太子妃になるために必死に努力を積み重ねてきた。そのことを、誰よりも近くで見ていたはずの彼が、どうしてこんなにも簡単にわたしを「裏切り者」として扱うのか――その事実に、胸がじわりと痛む。
「わたしには、まったく身に覚えがありませんわ。財務不正など、ましてや他の令嬢を貶める行為など、一度も……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しい。こんなときこそ堂々と反論するべきなのに、わたしの心は今にも崩れそうなくらい追い詰められていた。無実を証明する術も示せず、ただ言葉だけを繰り返しても、多くの人々が「それなら証拠を出して」と迫ってくるだけだろう。
アルフォンス様の隣に立つ侍従が、にやりと意地悪そうに口元を曲げる。
「確かに“捏造”かもしれませんね。ただ、こちらには『フェリシア様ご自身の筆跡』とされる書簡が複数ございます。実際、殿下ご自身が『フェリシア様の筆跡である』と確認されましたが、これについてはいかがでしょう?」
その言葉を受けて、アルフォンス様もかすかにうなずく。わたしの筆跡だって……? 信じがたいことこの上ないけれど、王太子殿下がそう断言するなら、人々はなおさら「フェリシアが犯人である」という認識を強めるに違いない。
(筆跡の偽造……そんなこと、いったい誰が……?)
真っ先に思い浮かんだのはコーデリア・クロフォードの名。伯爵家の令嬢である彼女は、わたしとは常に比較される存在だった。だが、その証拠をつかむ方法も、今のわたしにはない。
ちらりと視線を送ると、コーデリアは白いドレスに身を包み、まるで絵画から抜け出したかのような優雅な姿でこちらを見ていた。しかし、その瞳には鋭い光が宿り、その唇にはかすかな笑みが――わたしの苦しみを楽しんでいるかのようにも見える。
「……コーデリア」
思わず名を呼んだ。けれど、彼女はまるで聞こえなかったふりをする。むしろ、さらに上品な笑みを浮かべながら、まばたき一つせずわたしを見返してきた。背筋にひやりとしたものが走る。何かが歪んでいる。
だけど、今はそれを糾弾するどころではない。会場の貴族たちは疑念の視線でわたしを取り囲み、王太子殿下はわたしを厳しい声で追及する。何を言っても、証拠の山を覆すだけの材料がわたしにはない。
「フェリシア・ローゼンハイム。お前は王家への裏切り行為と、貴族社会を乱す卑劣な企みを働いた。よって、私はお前との婚約を正式に破棄する!」
アルフォンス様の宣言が、大広間に轟く。わたしの心臓は鉛のように重く、呼吸がうまくできないほどだった。けれども、深く息を吸い、何とか声を出す。
「……何故、信じてくださらないのですか。わたしが、そんなことをするはずないと、どうして思ってもらえないのでしょう?」
視線がアルフォンス様と交差した瞬間、彼の眉間がわずかに寄ったように見えた。しかし、それも一瞬のこと。すぐに冷徹な表情に戻り、わたしを睨みつける。
「私は、真実を追い求めているだけだ。もしお前が潔白ならば、その証拠を示せばよい。だが、今示されているのはお前の『有罪』を示す証拠のみ。――それが全てだ」
「……っ!」
張り裂けそうな胸の痛みに、言葉を失う。わたしが必死に訴えても、誰も聞く耳を持ってくれない。広間には一層大きなどよめきが起こり、あちこちから「仕方ない」「こんな悪事が明るみに出たら当然だ」などとわたしを嘲る声が飛ぶ。反対に、さすがに疑問を感じているらしい小さな声もあるようだったが、それらはすぐにかき消されてしまった。
コーデリアが扇を広げる仕草で笑みを隠しながら、わたしを一瞥する。その瞳には「どうかしら?」という挑発めいた光が宿っているようで、思わず血が逆流するような感覚を覚えた。しかし、ここでわたしが彼女を名指しして何を言っても、証拠がない以上は無駄だろう。
「……違うのに。違うのに――!」
声にならない叫びがわたしの喉を焼く。必死に飲み込んで、何とか踏みとどまる。もしここで取り乱して泣き崩れたら、それこそ「やはり黒だったのだ」と決めつけられるかもしれない。たとえ無力でも、公爵令嬢としての矜持だけは失いたくないのだから。
「皆の者、この件は私が責任を持って処理する。フェリシア・ローゼンハイムは追って調査を行ったのち、適切な処罰を――」
アルフォンス様が続けようとしたそのとき、人々の後方から鋭い声が響いた。
「お待ちくださいませ! あまりにも拙速ではありませんか?」
ざわつく貴族たちが一斉にそちらへ振り向く。その瞬間、わたしにもかすかな希望が芽生えた。誰かが異議を唱えてくれたのだ。けれども、その声が誰のものなのかがわからない。視線を巡らせても、すでに多くの人々が集団となり、どこから声が上がったのか特定できない。
「拙速だと……? だが、こうも証拠が揃っている以上、疑念の余地はあるまい」
アルフォンス様が静かに言い放つ。一方で、その声の主は「いや、確かに奇妙な点がある」と食い下がろうとしているようだった。だが、周りが騒然としていて言葉を聞き取ることは難しく、大広間の空気はさらに混沌としていく。
(誰……? 誰がわたしを擁護してくれようとしているの……?)
心臓がどきどきと高鳴り、けれども希望と不安が入り混じって、足元がふらつきそうになる。とはいえ、今はまだ動かないほうがいい。わたしは少しでも落ち着きを取り戻すため、ぎゅっと両手を組み、そっと下唇を噛んだ。
「……そんなに簡単に決められるわけがないわ。今すぐここで有罪などと――!」
どこからともなく響く声は、しかし最後まで続かなかった。たちまち他の貴族たちの大きな声や、戸惑いの息遣いにかき消されてしまう。
(どうしよう……)
もうどうにもならないのかもしれない。アルフォンス様はわたしに婚約破棄を言い渡しただけでなく、貴族社会全体がこの「偽りの証拠」を信用しようとしている。もしこの場でわたしを弁護する人がいても、証拠を覆すだけの力がなければどうにもならない――。
冷たい汗が背筋を伝い、意識が遠のいていくような感覚。侍従の「朗読」はまだ続くのだろうか、わたしにはもう何も聞こえない。ただ、コーデリアの不気味な笑みと、アルフォンス様の険しいまなざしだけが、頭の中で鮮明に渦巻いていた。
(どうして……どうしてこんなことに……)
思考は絶望で埋め尽くされ、わたしは自分が呼吸しているのかすら危うくなる。婚約破棄の衝撃はもちろん、これまで積み上げてきた信用や誇りまでもが、一瞬にして崩れ去ったように感じられて――すべてが灰色に見えた。
「……これは、まだ始まりにすぎない。そうでしょう、フェリシア?」
ふと、遠くで聞こえたコーデリアの低いささやき。彼女が本当にそう言ったのか、それともわたしの錯覚なのかもわからない。ただ確かなのは、「この地獄」はまだ終わりではないのだろうということ。
(助けて……誰か、わたしを信じて……)
けれども、その声は悲しく宙に消えるばかり。わたしは大広間の中央で、冷たい視線を浴びながら、必死に自分自身を奮い立たせるしかなかった。引き裂かれそうな胸の奥で、何度も「違う」「わたしじゃない」と叫びながら――。