第19話 孤独
王宮の奥深く――長い回廊を抜けた先にあるのが、王太子アルフォンス・エーデルシュタインの私室。金箔や繊細な彫刻が施された壁に、高く優美な天井。豪奢という言葉を体現するかのような部屋だが、そこに立つアルフォンス本人の表情は冴えない。
「……あの日、本当にあれでよかったのか?」
優雅な椅子に腰かけ、膝の上に広げられた書類を眺めながら、アルフォンスは低く嘆息をつく。王宮の大広間で公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイムを断罪したときの光景が、今でも頭から離れない。周囲の者たちは「フェリシアの不正行為は目に余る」と口々に言い、彼自身も「公の名誉を守るため」と信じて婚約破棄を言い渡した。だが、なぜか胸の奥に大きな違和感が残っていた。
「殿下、ご報告がおありだと伺いましたが……?」
部屋の隅に控えていた侍従が、遠慮がちに声をかけてくる。アルフォンスは書類に視線を落としたまま、生返事をするだけだ。
「ああ……いや、そのことは後でいい。すまないが、少し一人にさせてくれ」
「は、はい。かしこまりました。……それと、クロフォード伯爵令嬢が殿下の体調をたいそう案じておられます。『少しでもお役に立てれば』とのことで――」
「コーデリアが……そうか。ありがとう、余計なお世話だと伝えてくれ」
侍従は一瞬だけ目を見開いた後、「承知いたしました」とだけ答え、部屋を出て行った。ドアが閉まると、アルフォンスは机の上の書類を乱雑に置き、深く息をつく。コーデリアが次の妃候補として周囲に持ち上げられていることは知っているし、その働きぶりを称賛する声も絶えない。だが、彼女が頻繁に差し出してくる「フェリシアの不正を裏付ける証拠」なる書簡や書類を見るたび、なぜか胸が重くなるのはどうしてだろう。
「……あのとき、あんなふうに、みんなの前で断罪して……本当に正しかったのか?」
机の前に戻り、アルフォンスは自問する。彼が自らの口でフェリシアを「裏切り者」扱いしたあの日、大広間には大勢の貴族が集い、一斉にフェリシアを糾弾する雰囲気ができあがっていた。周囲の声に押されるように、彼もあの決定的な言葉を口にした。
――だが、フェリシアはどこか誇り高いまま、静かに抵抗するような目をしていた。それが頭を離れない。
「フェリシアは、不正を働くような人間だったか? 幼いころから彼女を見てきたが、そんな素振りは……」
幼少期の記憶がよみがえる。小さかったフェリシアが、舞踏や礼法の練習に真剣に励んでいた姿。王家に恥じぬよう公爵令嬢としての完璧を求められ、それでもしっかりとこなし、いつも凛としていた。
彼女がはるか昔、花壇で転んだとき、周囲に弱みを見せるまいと必死に立ち上がっていた姿が瞼の裏に浮かぶ。その一瞬を、アルフォンスはどこか微笑ましく、そして尊敬の念を抱いて見つめていたのだ。
「殿下、失礼いたします……」
再びドアが開き、侍従が恐る恐る報告してくる。アルフォンスは心の動揺を隠そうとするかのように、冷静な表情を装って振り返る。
「なんだ?」
「先ほど申し上げたクロフォード伯爵令嬢が、新たに『フェリシア様の不正を裏付ける証拠』を用意したとのことです。ぜひ殿下に目を通していただきたいと……」
「……いらない」
「は、はい?」
「もうこれ以上はいい。フェリシアの件は終わったことだ。余計に蒸し返す必要はない。コーデリアにはそう伝えてくれ」
侍従は驚いたように息を呑むが、「かしこまりました」とだけ言い、深々と頭を下げて退室する。彼が去った後も、アルフォンスは胸に重いものを抱えて立ち尽くしていた。
――コーデリアがいくら確証を示してきたところで、本当にフェリシアが悪いのか? 彼の中でその問いが大きくなるばかりだ。
「もし、あれがすべて嘘だとしたら……私はどうすればいい?」
自分で婚約破棄を言い渡した手前、今さら撤回は難しい。国王や貴族たちもすでに「フェリシアは裏切り者」と認識している。だが、フェリシアのあの目、あの表情……あれは嘘を吐く人間のものだったのだろうか。
そう思えば思うほど、アルフォンスの胸は締めつけられていく。彼女が一方的に悪であるという周囲の声に、最初は素直に従ったはずなのに――今になって後悔に似た感情が芽生えている。
「私は王太子として、王家と国民の前で決断を示す立場。……だが、あのときフェリシアが必死に訴えようとした言葉を、どうして最後まで聞かなかった?」
大広間の壇上で、フェリシアは確かに何かを言いかけていた。しかし、アルフォンスはそれを強い口調で遮った。少しでも彼女を信じてやろうとする気持ちがあったなら、あそこで立ち止まっていたかもしれない。
しかし、それをしなかったのは、もしかすると彼の中にあった焦燥やプライドが邪魔をしたからではないか――そう思うと、やりきれない。
「どうして、私はこんなに……」
部屋の壁には、王家の象徴を表す紋章が堂々と飾られている。王子として生まれ育ち、将来は国を背負う運命。いつしか、アルフォンスはそれが重責でありながらも当然のことだと受け入れてきた。フェリシアとの婚約も、国のために定められた道の一部だと捉えていたはずだ。
ところが今、その「当然の相手」を断罪し、自ら婚約を破棄する選択を取ってしまった自分に戸惑っている。コーデリアが提供する証拠や周囲の噂が真実なのか、心のどこかで疑問が拭いきれないのだ。
「フェリシア……」
アルフォンスは窓際に歩み寄り、夜の王宮を見下ろした。鮮やかな照明に彩られる庭園も、今の彼には無機質に映る。花の香りがそよいでも、心が癒されるわけではない。
深呼吸をしても、胸の奥に渦巻く違和感は消えてくれない。まるで重い霧が広がっているようだ。
「もし、お前の言い分をもっと聞いていれば、こうはならなかったのか? 本当に、お前は不正など働いていなかったのか……?」
誰もいない私室で問いを放っても、当然返事はない。だが、その沈黙が逆にアルフォンスの孤独を強調していた。堂々たる王太子であるはずなのに、今はただ混乱と後悔を抱える一人の青年に過ぎない――そう思うと、苦笑しか出てこない。
「何をしている、私は王太子だぞ。迷っている暇などない」
そんな自戒を口にしながらも、フェリシアの面影が離れない。幼いころ、一緒に行事に出席したときのことや、礼法を習う姿を遠くから見ていた記憶が次々に溢れてくる。いつも背筋を伸ばして生真面目で、かといってただ固いだけではなく、どこか芯の強さを感じさせる少女だった。
「お前が嘘をつくなんて、そんなことがあるだろうか……」
アルフォンスはそれ以上、思考を続けることができなくなり、無言のまま机の椅子に腰を下ろした。書類の山は視界の片隅にあるけれど、手を付ける気力がわかない。まるで体のエネルギーを奪われてしまったように感じる。
コーデリアは間違いなく彼を支えようとしているし、公にも「王太子殿下のために動いています」という姿勢を見せている。しかし、それが彼の心を安らげるかと言えば、答えはノーだった。フェリシアが悪いという確かな証拠を突き付けられても、自分の中の違和感はむしろ大きくなっている。
「……どうしろというんだ、私は」
王太子として、国や民のために行動しなければならないと理解している。貴族社会や王家の名誉を守るために、婚約破棄という結論を下した。だが、彼自身が本当にそれを望んだのか――答えは定まらない。
この広々とした私室に、一人で立ち尽くすアルフォンス。その姿は、華やかに飾られた部屋の景色と対照的に、ひどく寂しげで痛々しかった。
「フェリシア……何が本当だったのか、もし私が間違っていたのなら……」
その続きの言葉は、息にかき消されて消える。誰にも聞かれぬ独白だけが、王太子の孤独を漂わせる。
今のアルフォンスには、コーデリアがもたらす「確証」を鵜呑みにできない疑念と、周囲に背を向けてフェリシアを信じる勇気との板挟みがある。けれど、彼はまだ、それをどう解決するかの道筋を見いだせていない。
こうして、壮麗な王宮の私室で、王太子は静かに苦悩を深めていく。彼の心に宿るモヤモヤが、この先どんな嵐を呼ぶのか――その答えは、まだ夜の闇の中に隠されたままなのだ。




