第18話 揺れる想い
夕食を終えて自室へ戻ってきたものの、気分は一向に晴れなかった。テーブルを囲む席で、父とほとんど言葉を交わさず、母の視線もどこか落ち着きがなくて――使用人たちもわたしを気遣ってか、無言で仕事をしている。まるで全員が「フェリシア様には触れない方がいい」と考えているようで、そのよそよそしさが胸に重くのしかかった。
部屋の窓から外を見やれば、夜の帳がすでに深々と広がっている。雲が厚いせいか月明かりも乏しく、ランプだけがかろうじて室内を照らしていた。鏡に映った自分の顔は疲労が色濃く、ここ数日の寝不足を如実に表している。
(どうして、こんなことになってしまったの……)
ため息をつこうとした矢先、扉をノックする控えめな音が聞こえた。続いて、恐る恐るという様子でハンナが姿を現す。彼女の表情には、いつも以上に心配の色が浮かんでいた。
「フェリシア様、失礼いたします。……少しお耳に入れたいことがありまして」
「ええ、構わないわ。どうしたの、こんな時間に」
わたしはベッド脇の椅子に腰かけたまま、辛うじて微笑みらしきものを作ってみせる。ハンナはそれを見てかすかに安堵したようだが、すぐに神妙な面持ちに戻った。
「実は、きょう屋敷にいらしたユリウス様のことで……。ご存じだと思いますが、フェリシア様にお会いできなくても、なかなかお帰りにならなかったそうです。しかも、使用人の多くに話を聞いて回っていたようで――」
「……そう」
心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。昼間、廊下でのぎこちないやりとりが頭をよぎる。いくら素っ気なく突き放しても、ユリウスは諦める気配がないらしい。彼は一度決めたら簡単に撤回しないタイプだと知ってはいるけれど……。
「ユリウス様が言うには、フェリシア様を何とか助けられないかと必死で情報を集めているんだとか。コーデリア様に不審な点はないか、あるいは王太子殿下にフェリシア様が誤解されるような話を吹き込んだ者はいないか――。そういったことを、熱心に聞き込みされていたようです」
「……そう、なんだ。そこまで……」
思わず声が震えそうになる。あれだけ冷たい態度を取ってしまったのに、それでも彼はわたしを守ろうとしてくれているのだろうか。わたしを巻き込みたくないというより、むしろ逆――彼が自ら危険を顧みず動いている姿が目に浮かぶ。
(ユリウス……何を考えているの。あなたは子爵家の立場もあるのに、どうしてそこまで――)
胸の奥が温かいような、苦しいような、不思議な痛みに包まれる。ハンナはさらに言葉を継いだ。
「ユリウス様はなかなか帰らず、使用人たちも困っていたみたいですが、結局は『フェリシア様によろしく伝えてほしい』とだけ残して帰られたそうです。……余計なお世話だなんて、思えません。きっとフェリシア様のためを思って、どうにかしたいと願っているんだと思います」
「わかってる。でも……彼を巻き込んで、子爵家に迷惑をかけるわけにはいかないの。それはずっと考えていて……」
「フェリシア様のお気持ちもわかります。けれど、ユリウス様はそれでも動いておられる。そこまで一途に想ってくださる方を、果たしてこのまま遠ざけていいのでしょうか……」
ハンナの問いかけに、わたしは返事を飲み込んだ。頭ではわかっているのだ――ユリウスの好意を無視し続けるのはおかしいし、彼の協力を得れば事態が変わるかもしれない。けれど、今のわたしはまだ彼を頼る決心がつかない。
鏡の向こうに映る自分は、くちびるをきつく噛みしめていた。王太子殿下からの婚約破棄、コーデリアの暗躍、公爵家が動きづらい現状……すべてを一人で背負い込んでいる気がして、正直つらい。それでも、ユリウスを巻き込んでまで解決しようとは思えない。プライドもあるし、彼が傷つくかもしれない可能性も大きいからだ。
「……ありがとう、ハンナ。わざわざ知らせてくれて。でも、わたしは自力でどうにかするわ。ユリウスには『余計なことはしないで』って伝えてちょうだい。気持ちは……ありがたいけれど」
自分で言いながら、どこか寂しさがこみ上げる。ハンナは申し訳なさそうに目を伏せ、わたしに近づいた。
「わかりました。ですが、フェリシア様がどうしてもつらくなったときは、いつでも頼ってくださいね。わたくしも、ユリウス様だって、フェリシア様をお守りしたい一心ですから……」
「わかってる。……ありがとう。もう遅いわ。あなたも休んでちょうだい」
「はい。おやすみなさいませ」
ハンナが部屋を出ていくと、がらんとした静けさが戻ってくる。窓の外には雲が厚く、月や星の光さえ見当たらない。小さなランプだけが部屋を淡く照らし、わたしはそのかすかな光に身をゆだねる。
(ユリウス……あなたは本当に、わたしを助けたいだけなの? それとも、昔からの想いがまだ残っているの……?)
いつか、幼いころ一緒に学んだ日々が思い出される。あのときは、こんなふうにすれ違うことなんて想像していなかった。わたしのために必死に走り回ってくれるユリウスを、あんなふうに冷たく拒絶する未来など……。
だけど今は立場が違う。コーデリアが暗躍し、王太子殿下が冷淡になり、公爵家も動きづらい。そんな中で、ユリウスだけが必死になっても、子爵家に火の粉が飛びかねない。わたしには彼を危険な道に誘う権利などないように思えるのだ。
「……わたしが、もっと強ければ……」
薄暗い部屋で、わたしはぽつりとつぶやく。
本当は誰かに頼りたい。ユリウスの言葉を素直に受け取って、助けてもらえるならどんなに楽だろう。でも、プライドと責任がそれを許さない。誰かを犠牲にしてまで自分だけ助かるようなことはしたくない。それがフェリシア・ローゼンハイムの矜持――今まで必死に守ってきた名誉の形でもあるから。
ベッドに腰を下ろし、ランプの光を仰ぎ見る。寝転がる気にもなれず、ただ静かに時間が過ぎていくのを感じる。窓の向こうでは夜風が吹いているのか、かすかな音が耳に届いた。
(ユリウス……ごめんなさい。だけど、あなたがいると思うと、救われる気持ちにもなるのよ)
固く閉じた瞳の裏側に、夕方のすれ違いが蘇る。彼の悲しげな目、必死な声、それでもわたしを追いかけようとする足音――そんな光景が、胸を締めつける。いっそ心を許してしまえれば、どれほど楽になれるか。
けれど、それは同時にわたしの大切なものを失うリスクでもある。王太子の婚約破棄を覆すためには、もっと自力で動いて証拠をつかまなければ。コーデリアに好き勝手やられて終わりなんて、絶対に嫌だ。そこだけは譲れないのだ。
「……明日も、図書室で調べ物を続けましょう。ユリウスには頼らず、わたしがわたしで結論を出すしかないんだわ」
そう決意を固める一方で、心の奥には拭いきれない寂しさが残る。誰かに支えられたい気持ちと、自分の力で逆転したい誇りとの板挟み。どうか、いつかこの葛藤がほどける日が来るのだろうか……。
ランプの炎がかすかに揺れた。それと同時に、部屋の外の廊下で人の歩く気配がかすかに遠ざかっていく。公爵邸は今や静寂の夜を迎え、あとは眠りにつくだけ――でも、わたしの心は眠れるどころか、こんなにも騒ぎ立てている。
(ユリウス、あなたには伝えたいことがいくつもあるのに。だけど、今はまだ言えない。もし先に真実をつかんで、潔白を証明できれば、その時こそ……)
沈黙の中で、わたしは目を閉じた。闇がわたしを包み込む。やがて瞼の裏に浮かぶのは、あの日のユリウスの笑顔と、幼いころの思い出。
だけど、その思い出を噛みしめる余裕など今のわたしにはない。どれだけ切なくても、自分の戦いを放棄するわけにはいかないのだから。そう自分に言い聞かせながら、わたしはランプを細めの灯りに調整し、ベッドの端にそっと横になった。
「……ユリウス、ありがとう。けれど、まだわたしはひとりでがんばるわ」
声にならないつぶやきが、静まり返った部屋に溶けて消える。
夜は続く。闇の深さに比例するように、わたしの心も苦悩を増していく。でも、その中にかすかな光が見え隠れしている。きっと、その光の源はユリウス――彼がわたしに差し伸べる救いの手が、いつかわたしの心を解きほぐすかもしれない。
そう願いつつ、今はまだ自分だけの道を行くしかない。次に夜が明けるころには、ほんの少しでも事態を打開できる糸口を見つけていたい……そんな淡い期待を胸に、わたしはゆっくり瞼を閉じた。
――いずれ、コーデリアの影を暴き、王太子殿下の誤解を解く日が来るのだろうか。ユリウスときちんと話し合える瞬間は訪れるのだろうか。そんな問いが静かに脳裏をよぎるまま、わたしは眠りと覚醒のはざまを漂う。
切なくも、わずかな安らぎがそこにあった。夜の深い息遣いとともに、わたしの心には小さな光がともり続けているのだから。




