第16話 動き出す意志
公爵家の奥にひっそりとたたずむ広々とした図書室。天井まで届きそうな書棚がずらりと並び、年代物の書物や巻物がぎっしり詰め込まれている。外は昼前の明るさだというのに、厚手のカーテンが光を遮っていて、ここだけ時間の流れが違うように感じる。
そんな半ば薄暗い一角で、わたし――フェリシア・ローゼンハイムは分厚い記録集を抱え込みながら、懸命にページをめくっていた。
周囲の空気は重々しく、時折ページをめくる音とわたしの小さな息遣いだけが静寂を破る。――目的はただ一つ。自分に向けられた「婚約破棄」と、その背後で糸を引いているらしいコーデリア・クロフォードの策略を暴く証拠を探し出すことだ。
「フェリシア様、少し休まれてはいかがですか? 昨晩もよく眠れていないでしょう」
隣で控えてくれる侍女ハンナが、心配そうに声をかけてくる。
彼女の優しさにほっとする気持ちはあるが、今は立ち止まるわけにはいかない。失われた婚約、そして濡れ衣という名の断罪を覆すためには、何か手がかりを見つけなければ――そんな焦りがわたしを駆り立てる。
「ありがとう、ハンナ。でも大丈夫よ。もう少しだけ調べたら、短い休憩を取りましょう」
そう答えつつ、わたしはさらに別の文書へと視線を移した。この公爵邸の図書室には、過去に起きた裁判記録や告発事例、歴史的事件の資料まで保管されている。もしコーデリアが「偽造の証拠」を仕立て上げているなら、似た手口の事件がどこかに残っているかもしれない。
無論、捏造が公に明るみに出た事例など多くはないだろうけれど、その少ない例がわたしの突破口になるかもしれないのだから。
「フェリシア様、こちらはいかがでしょう。『過去の名誉毀損と嫌疑不十分による破談事例』とありますわ。中身はだいぶ古そうですが……」
「ありがとう、ハンナ。読んでみるわ」
ハンナが棚の上段から引っ張り出した古い冊子を、わたしはそっと机へ運ぶ。表紙は革製でかなり色褪せていて、触れば手に粉が付くほどだ。
一瞬、ページを開くのを躊躇うほど古いが、構わない。とにかく事例を掘り起こしたい一心で、わたしは慎重に開いてみせる。
「こちらには、『捏造による婚約破談を狙った噂』という記録がいくつも……。手口としては、茶会やサロンで広められたデマと、それを鵜呑みにした貴族の発言が重なって――最終的に相手を失脚させる構造ですね」
「まさに、今のコーデリア様がしているような動きと酷似しているのでは……?」
ハンナが息をのむ。わたしも同じようにページを追いながら、胸が苦しくなる。
噂を利用する――それは貴族社会の最も簡単な攻撃手段。事実より先に「そんな話があるらしい」と伝えられれば、真偽などお構いなしに人々の間で話は広がってしまう。そして、いったん広まった悪評を晴らすのは至難の業だ。
「……やはり、こういうやり方で相手を追い込む例は昔からあったのね。おそろしいことに、どんなに無実を訴えても、証拠を出せないとそれで終わり」
「はい……この記録でも、最終的には『当事者間の裏交渉』で、うやむやになったり、ひっそりと和解したりしているだけで、名誉が十分に回復したわけではないみたいです」
ハンナの声が沈む。
わたしも同じ不安を感じている。実際、わたしが王太子殿下から問答無用で「婚約破棄」を宣言された以上、それを覆すには相当な証拠と戦略が必要だろう。公爵家としても、王家との全面対決は避けたいのが本音。そんな状況で、わたしにできることなど限られている。
「それでも……諦めたくない」
小さくつぶやく。わたしのこれまでの人生――公爵令嬢としての誇り――それらすべてが、あの場での一言で否定されたまま終わるなんて、到底受け入れられない。
ハンナが苦しげな表情を浮かべながら、わたしの肩に手を添えてくれる。その温もりが、今のわたしには心強い。
「フェリシア様、きっとやり方はあります。コーデリア様の過去の行状を探るなり、噂を拡散する取り巻きの令嬢たちを確かめるなり……地道かもしれませんが、一つずつ潰していけば必ず真相に近づけるはずです」
「ええ、わたしもそう思うわ。……父や母は、王家との衝突を恐れて動けないし、表立って動くと余計な波紋を呼ぶかもしれない。でも、わたし自身で情報を集めるのは自由なはず」
胸の中に小さな炎が灯る気がした。止まってばかりでは、何も変わらない。誰かが助けてくれるのを待つだけでは、わたしの人生を取り戻せない。
ハンナと共に、この狭い図書室から一歩ずつ真実に近づくのだと決意を新たにする。
「それじゃあ、次は……もう少し『捏造の告発』に関する記録を当たってみましょうか。あとは、『茶会での噂』というキーワードが載っているものがあれば、取り寄せてちょうだい」
「かしこまりました。公爵家の侍女仲間にも問い合わせてみます。噂話に詳しい人がいるかもしれませんから」
「ありがとう、ハンナ。あなたがいてくれるだけで、わたしはずいぶん心強いわ」
ハンナの頬がわずかに染まるのが見えた。主従であるはずのわたしたちが、こうして二人きりで同じ目標を見ているのは不思議な感覚だ。でも、この協力はきっとわたしの救いになるだろう。
「それにしても、暗いですね。ちょっとカーテンを開けて光を入れましょうか?」
「そうね。読書灯だけでは疲れますし……ありがとう」
窓際の厚いカーテンをハンナが少し引くと、昼前の明るい光が遠慮がちに差し込んでくる。
書棚の背表紙や古い紙が、淡い金色に照らされて、図書室の雰囲気がわずかに柔らかくなった。なんとなく、わたしの心にも少し光が差し込んだようで、自然と呼吸が楽になる。
「さて……もう一度、この辺りを集中して探しましょう。きっと何か――小さいことでも、繋がる手がかりがあるはず」
ハンナは「はい!」と元気よく返事し、わたしもページをめくるペースを速める。二人で協力しながらの調査は決して迅速ではないが、少なくとも何もしないよりはずっといい。コーデリアの策略にさらされながらも、わたしだって黙って蹂躙されるつもりはないのだ。
「コーデリア……」
心の中でその名をつぶやく。彼女の背後に何があるのか、どこまで周到にわたしを追い落とそうとしているのか、想像すると背筋に寒気が走る。でも、屈しない。このまま終わってなるものか。
一方で、王太子殿下が完全にわたしを信じてくれないのも事実。昔のように、幼少期のわたしを応援してくれたアルフォンス様の面影は感じられない。そこにあるのは鋭く突き放す態度だけ……それを思うと、胸に鋭い痛みが走る。
(それでも、わたしは誇りを捨てるわけにはいかない。婚約がどうなろうと、わたしが積み重ねてきたものを奪われたままではいられない――)
溜めこんだ悔しさがペンを走らせる力に変わっていくのを感じる。ハンナと一緒に調べ物をしている間、暗い図書室には小さな希望の灯がともっていた。わたしたちはまだ諦めない。
どんなにコーデリアが噂を操ろうと、どんなに公爵家が動きづらい状況でも、わたしは真実を見つけ、潔白を証明してみせる。そして王太子殿下にも、わたしを信じてもらえるよう――あるいは信じられなくとも、フェリシア・ローゼンハイムとしての誇りを取り戻すために。
「フェリシア様、こちらに――『捏造された書簡が後に暴かれた事例』と見出しがあります。ご参考になるかもしれません」
「あら、本当? ちょうど欲しかった情報だわ。ありがとう、ハンナ!」
頭を上げた時、わたしたちの視線が重なる。ほんの少し互いに微笑み合ってから、新しい文書へと目を落とす。忙しなく時が過ぎていく。
こうして図書室での小さな共同作業が続く中、わたしは確かに一歩ずつ前進していると感じていた。たとえ出口が見えなくとも、動き始めている限りは絶望だけでは終わらない。
そして、棚から引き出された古い記録の数々が、いつかコーデリアと戦うための強い武器になり得る……わたしはそう信じてやまないのだ。




