第15話 謀略
午後の陽ざしがやや斜めに差し込み始めたころ、コーデリア・クロフォードは優雅な馬車を降り、ある子爵邸のサロンへ向かっていた。大きなパーティというほどではないが、貴族の夫人や令嬢が十数人集まる小規模な茶会だ。こんな場所ほど貴重な「ゴシップ」の温床になることを、彼女はよく知っている。
「コーデリア様、ごきげんよう! まあ、今日いらっしゃると伺って、とても楽しみにしていましたの」
サロンの扉をくぐった瞬間、奥方や令嬢たちの好奇の目が一斉にコーデリアへと注がれる。彼女はにっこりと上品な笑顔を浮かべつつ、黒に近い深い紺色のドレスを軽く広げて挨拶を返す。その姿はまるで舞台に降り立った女優のようだった。
「皆さま、お招きありがとうございます。少しだけご一緒させていただこうと思いまして」
細やかな会釈に続き、使用人がコーデリアのコートを受け取る。その端正な振る舞いに、周囲からさっそく「あら、今日もお美しいわ」「さすが伯爵令嬢ね」と賞賛のささやきがこぼれた。
軽く雑談が始まると、狙いどおりに「最近、ローゼンハイム家のフェリシア様を見かけないわね……」という話題が、すぐに浮上してくる。コーデリアはわざと驚いたふりをして、声の調子を少し高める。
「え? フェリシア様ですか? ……ああ、そういえば確かに、最近社交場でお見かけしませんわね。何かあったんでしょうか?」
このとぼけ方が大事、とコーデリアは心得ている。自分から話を振るのではなく、あくまで「自然」に、皆の好奇心を引き出すように仕向ける。すると、すかさず夫人の一人が話をつないだ。
「だって、王太子殿下がフェリシア様との婚約を破棄したという噂、耳にしたでしょう? しかもフェリシア様が王家に対して不正を働いたとか、いろいろあるみたいで……」
「まあ、わたくしも少しだけ聞きましたけれど、それは本当なのかしら?」
令嬢たちの目が期待に輝く。まるで子猫が遊び道具を求めるかのような純粋な興味。しかし、その裏に潜むのは、刺激的なスキャンダルへの飢えだ。コーデリアはちらりと微笑み、あえて肩をすくめてみせる。
「うーん、実を申しますと……私も詳細は存じませんの。ただ、フェリシア様が公爵家を出てこられない状況にあるということは、ほぼ間違いないみたい。お屋敷でも皆さま気を使って、あまり触れないようにしているとか」
「どうして? 王太子殿下とのことが関係しているの?」
「さあ、どうなのでしょう……。わたくしも憶測で話すのは嫌ですけれど、やはり『王家を欺いた』とかいう噂は大きいと思いますわ。いえ、もちろん噂にすぎませんけれど」
言葉を重ねるたび、周囲の令嬢や夫人たちの表情が興奮に染まっていく。よく知りもしないフェリシアの「罪」を、あたかも既成事実のように解釈し始める。
一人の夫人がいかにも口さがない調子で尋ねる。
「でも、公爵令嬢ですよ? そんな方が王家を欺くなんて……信じられないわ」
「まあ、わたくしとしては、なんだかんだ言って血筋が良くても、人間性はわかりませんものね。王太子殿下も、よほどのことがあったんでしょう。フェリシア様がどんな裏工作をしていたのか……本当のところは殿下と公爵家しかわからないのかも」
「それにしても、公爵家が何も反論しないなんて、まるで認めているかのようね」
「そ、そうですわよね! もしかして、あえて騒ぎを大きくしないようにしているのかしら?」
すっかり火がついた一同の会話を、コーデリアは穏やかに聞きながら、「あらあら、皆さま落ち着いて」と小さく手を振る。
「私も、噂を聞いただけですから。大げさにせず、内緒にしていただきたいの。あくまでフェリシア様がどうこう、というのも推測が混ざってますし……」
「コーデリア様、でもあなたはフェリシア様と同じ王宮に出入りされてるし、詳しいんじゃありませんか?」
「いえいえ、わたくしはそこまで。王太子殿下とフェリシア様の関係に首を突っ込むなど恐れ多いですわ。それに、フェリシア様の婚約が破棄されたのは事実ですから、残念としか言えませんわね」
言葉の端々に「事実」というニュアンスを強めている。コーデリアが強く否定しないどころか、さりげなく“確証”めいた雰囲気を醸し出すことで、他の女性たちは勝手に想像を膨らませる。
噂がどんどん増幅されていくのを感じ、コーデリアは内心で満足感を覚えた。
(これでもう大丈夫。自然とフェリシアが「王家を裏切った公爵令嬢」として社交界に定着するわ。わざわざ私が動き回らなくても、彼女への悪評は短期間で王都じゅうに伝わるはず)
周囲の女性たちが「婚約破棄の理由が本当なら、フェリシア様も終わりね……」などと勝手に話し合う声が聞こえてくる。コーデリアはさも哀しげな顔を作り、会話の隙間でひと言添えた。
「本当にお気の毒です。フェリシア様も優秀な方でしたのに……。王太子殿下だってお辛いでしょうね。ああ、私がもう少しお力になれればよかったのに」
「きゃあ、コーデリア様、それってもしや――?」
「まあ、私ごときが何を言っても、王太子殿下の決断には及びませんわ。あまり深い詮索はご遠慮いただきたいの」
取り巻きの令嬢たちは、もう確信に満ちた目でコーデリアを見つめている。「今後、王太子殿下が誰を新たな婚約者とするのか」は、皆の最大の興味だからだ。そしてコーデリア自身、そこが最終目標であることを微妙に漂わせている。
「それにしても、フェリシア様のことはともかく、コーデリア様こそこれから期待がかかりますわね?」
「そんなこと……私にはまだ、荷が重いかもしれません。ですが、王太子殿下のためなら、なんとか頑張ってお役に立ちたいと思っています」
あくまで控えめにしながらも、「王太子の隣に立つ存在」としての雰囲気を巧みに示唆する。こうして噂は形を変えながら広がり、やがて「コーデリアが次の婚約者になるかもしれない」という筋書きへと発展していくのだ。
(これでいい。フェリシアは不正の疑惑を抱えたまま醜態をさらし、私は慈悲深い存在として評価される。王太子殿下だって、いずれ私を選ぶに違いない。社交界の噂の怖さは、私が一番よく知っているもの)
茶会がひと段落すると、コーデリアはスマートに退出を表明する。子爵家の夫人や令嬢たちが「またゆっくりお話を聞かせて」と名残惜しそうに声をかけてくるが、彼女はにっこり微笑んで颯爽と背を向けた。
「今日はありがとうございました。楽しかったですわ。また近いうちにお会いしましょう」
その言葉だけを残し、コーデリアは馬車へ向かう。心の中で小さく笑い声が響く。わずかな会話の中で、フェリシアに関する負の噂をさらに広げることに成功した。あとは彼女自身が表舞台に出られずにいる間に、評価が失墜するのを待つだけだ。
(フェリシア・ローゼンハイム……あなたが無実だろうと何だろうと、今さら関係ないわ。貴族たちは目新しいゴシップを欲しがる。私の思惑どおりに、あなたは悪女として定着するでしょう)
馬車へ乗り込む間際、ふと顔を上げると、空は夕焼けに染まり始めている。オレンジの光の下で、彼女の金色の髪がきらりと輝いた。
「これでまた一歩、王太子殿下との未来に近づいた――」
コーデリアはその場で口元に手をやり、冷たい笑みを浮かべる。馬車が動き出すと同時に、カーテンを少し下げて外の景色を眺める。
人々がせわしなく行き交う街並みを見渡しながら、彼女は「次はどのような噂を流そうか」と考えている。そこに罪悪感は一切ない。むしろ、自分の演技力と周囲のご都合主義を最大限に利用する快感があるのみだ。
(フェリシアには、まだこれからもいくらでも致命的な噂をぶつけられる。公爵家が動かないうちに、さらに叩いておけば十分。王太子殿下の耳には「あれも事実かもしれない」と届くはず。彼女が無実を証明しようにも、もうこの社交界で信用してくれる人なんていなくなるわ)
夕暮れの喧噪の中、コーデリアの野心はさらに燃え上がる。伯爵家で打ち合わせた策略が、こうして茶会という小さな場でも着々と進行しているのだ。
そのまま馬車はスムーズに走り出し、伯爵家へと向かう。コーデリアはメモや書類などを取り出すことなく、ただ窓の外を眺めていた。今日の成果は十分、しばらくは高みの見物でもしていようか――そんな思考が、彼女の胸を満たしている。
(王太子殿下を手に入れるまで、フェリシアには苦しんでもらうわ。笑えるくらい、徹底的にね)
深まる黄昏の光が、彼女の瞳を橙色に染めながら、冷酷な狭笑を浮かべさせる。その姿は、誰もが思わず退くほどの暗い情熱に満ちていた。まるでバラの美しさの裏で、棘を増やし続けるかのように――。
こうしてコーデリアは、社交界という名の舞台でさらなる噂を操り、フェリシアの未来を覆い隠そうと画策し続ける。王太子妃の座が手に入るその日まで、彼女の「上品な悪意」は止まることを知らないのだ。




