第12話 密会
翌日――まだ日が高く昇りきらないうち、ユリウスは子爵家の馬車を密かに出させて街へと向かった。向かう先は、公爵邸が連なる貴族街から少し離れた場所。そこは庶民の活気あふれる商店が並び、華美な服装の貴族よりも商売に情熱を注ぐ者が多く行き交っている。人の流れが多彩な分、若い貴族が一人訪れてもそこまで目立つことはない。彼にとって、誰かと密やかに会うにはちょうどいい環境だった。
馬車を降りると、ユリウスは通りの人混みを抜け、ひっそりした裏手の小径へ足を進める。安い看板のかかった小さな茶屋の横を通り過ぎ、通りから隔絶された細い路地を覗き込むと、そこに誰かが立っているのが見えた。くりくりと周囲を警戒するような仕草をする若い女性――あの侍女ハンナに違いない。
(こんな場所で落ち合うなんて、やはり相当慎重なんだな)
ユリウスは周囲に人影がないことを確認し、小声で呼びかけようとした。しかし、その直前にハンナが気づいて振り向き、慌てて口元に指を立てた。彼は彼女の意図を悟り、警戒心を損なわないよう声を殺して近づく。
「ユリウス様……! すみません、こんな場所にお呼び立てして」
ハンナは申し訳なさそうに深く頭を下げた。そわそわと周囲をうかがう彼女の姿に、ユリウスは内心苦笑する。やはり侍女の身で外部と接触するのは容易ではないのだろう。
「いや、構わない。公爵邸に直接行ってフェリシアに見つかったら、『余計な迷惑はかけないで』と拒まれるのがオチだしね」
ユリウスが苦い顔で言うと、ハンナは小さくうなずいた。
「ええ……フェリシア様は今も心を閉ざしていらっしゃるように見えます。でも、本当はとても苦しんでいるんです。何とかお力を借りられないかと思って……」
その言葉に、ユリウスは胸を締めつけられるような痛みを覚えた。王太子殿下の一方的な婚約破棄以降、フェリシアは周囲への心配をよそに、公爵邸で黙々と資料を漁っている――そんな話を耳にしたが、あまり進展がないらしい。
「やはり……。フェリシアは今、どんな感じなんだ?」
「表向きは平然としているように装っていらっしゃいます。でも、夜中にため息をつかれたり、窓の外を憂いげに見つめていたり……私たち使用人には見えないようにされているつもりでも、つらさが伝わってくるんです」
まるで当人の苦悩を代弁するかのように、ハンナの表情は曇りがちだった。ユリウスは小さく息をつく。フェリシアの強がりは子どもの頃から変わらないが、今回ばかりは相当堪えているはずだ。
「公爵家の方針が『静観』なら、フェリシア本人も動きにくいのは当然だよな……」
「はい。けれど、ご当人はそれでも何とかしようと書庫にこもって調べ物をしています。ですが、やはり大きな手掛かりを得られていないようですし、公爵家の縛りもあって自由には振る舞えない。そこで、もしユリウス様なら、少しでもお力になっていただけるんじゃないかと」
ハンナはそう言いながら、鞄から小さな紙片を取り出す。その紙には公爵邸の最近の動静や、フェリシアがどんな資料を閲覧しているか、訪問した貴族の名前などが走り書きされている。ユリウスは目を見張りながらそれを受け取った。
「……こんなに詳しく? 大丈夫なのか。万一、君が公爵家を裏切っていると疑われれば……」
「平気です。私は決してフェリシア様を裏切っているつもりはありません。フェリシア様を救えるのなら、これくらい必要な情報だと思ってまとめました。それに、フェリシア様に直接逆らう行為とは違いますし」
ハンナは苦しそうに微笑む。その瞳には、フェリシアへの強い忠誠心と心配が入り混じっていた。ユリウスは胸の奥で熱い感情がこみ上げるのを感じる。自分と同じように、フェリシアを大切に思う仲間がいるのだ。
「ありがとう。これは本当に助かる。フェリシアの調べている内容を補いながら、俺もできる範囲で動いてみる。王都でそれなりに顔が利く知り合いもいるし……。もしフェリシアを陥れた誰かがいるなら、必ず見つけ出してみせるよ」
「よろしくお願いいたします。フェリシア様は『迷惑をかけたくない』と仰って、ユリウス様のことを避けているようにも見えます。でも、本当は一人で抱え込みすぎて……。私にはどうにもできなくて、もどかしいんです」
ハンナの言葉が痛いほど胸に突き刺さる。ユリウスは思わず拳を握りしめる。かつてのフェリシアも、何かを背負いながら一人で頑張り続ける姿が多かった。それでも彼女は折れずに進んできたが、今回は王太子との婚約破棄という重大な事態だ。さすがの彼女でも心が折れそうになっているに違いない。
「大丈夫だ。任せてくれ。フェリシアが気付かないうちにでも、俺たちが先回りして手を打つ。……彼女が本当に壊れてしまう前に」
「ありがとうございます。私も侍女として、できる限りお力をお貸しします。フェリシア様の些細な動向や、新しい資料を見つけたなどの情報は、また手紙にしたためてお渡ししますね」
「頼りにしてる。俺のほうでも動きがあれば、可能な範囲で伝えるから」
そう約束を交わすと、ハンナは人通りのある大通りへ戻ろうとする。その背中を追うように、ユリウスは小声で言った。
「そうだ、フェリシアは……大丈夫か?」
その問いに、ハンナはほんの少し眉を下げる。
「表向きは平然を保っていますが……本当は相当つらいと思います。王太子殿下からの婚約破棄を、あの誇り高い方が受け止め切れているわけがないでしょう……」
「……そうだよな」
ユリウスは切なそうにつぶやく。
ハンナは慌てて周囲を見回し、目立たないようにペコリと一礼してから足早にその場を後にした。紙片を握りしめたまま、ユリウスは彼女の後ろ姿を見送る。フェリシアの傍にいる侍女と、子爵家の彼。ささやかではあるが、二人が協力し合えば、これまでより多くの情報を得られるだろう。
(フェリシア……君は「迷惑だ」と拒むかもしれない。でも、だからって俺は手を引かない。昔からそうだろう? 君が苦しむところなんて、見ていられないんだ)
ユリウスは意を決して、小路を抜けて大通りに出る。あまり人目を引きたくないため、馬車を少し離れた場所に待機させている。そちらへ向かおうと歩を進めながら、先ほど受け取ったメモをそっと確かめる。
そこにはフェリシアが最近読み漁っている書物のタイトルや、公爵邸に訪問してきた貴族の名前、さらにはフェリシアが調べたらしい公的記録の概要などが走り書きされていた。どれもフェリシアが独力で得た資料のようだが、彼女が公に動けない分、限界があるのだろう。
(これを手掛かりに、コーデリア・クロフォードの動きや王太子殿下周辺の噂を探れば、何か見えてくるかもしれない。時間がかかってもいい、必ず真実を突き止めてやる)
ユリウスは人混みに紛れつつ馬車の方へ戻り、そっと扉を開けて乗り込む。窓から覗けば、庶民や商人が行き交う雑多な通りの風景が広がっていた。貴族の間の噂や陰謀など、ここにいる彼らには何の関係もないかもしれない――それでも自分にとっては、大事な戦いだ。
「馬車を出してくれ。……少し王都の外れまで行きたい」
馭者にそう告げ、ユリウスは背もたれに体を預けて小さく息をつく。先日、父子爵との衝突を経て、「勝手にしろ」という暗黙の許しは得た。正式な後ろ盾があるわけではないが、今はそれで十分だ。何より、ハンナという公爵邸の内情に詳しい味方ができたのが心強い。
(フェリシアは、いまどこで何を考えているんだろう……。もう、あのころのように素直に頼ってくれるわけじゃない。でも、だからって捨て置けないからな)
子どもの頃のフェリシアを思い出す。厳しい礼法や学問の稽古に追われながらも、くじけず努力していた姿。王太子妃になる夢を胸に、誇り高く成長してきたあのころの彼女。今、そのすべてが否定されるかのような仕打ちを受けているのだ。
「絶対に諦めたりしない。ハンナもそう言ってくれた。大丈夫、きっと道はある……」
馬車が走り出す振動を感じながら、ユリウスは窓辺に目を向けた。街の雑踏を離れれば、景色はより穏やかになり、遠くに王宮の塔がかすかに見える。そこに君臨する王太子の存在を思うと、胸の奥が複雑に揺れた。
(王太子殿下があそこまでフェリシアを切り捨てる理由は何だ? 本当に彼女を疑ったのか、あるいは誰かの策略で信じ込まされたのか……)
考えるほどに謎は深まる。だが、ハンナの情報と自分の行動力があれば、少しずつでも事実に近づけるはずだ。たとえそれが長い道のりになろうと、動かなければ何も変わらない。
「待ってろ、フェリシア。君の無実を証明してみせる」
低くつぶやく声が、馬車の中でかすかに響く。侍女と幼馴染――二人の密やかな協力体制がここに芽生えた。フェリシアはまだそれに気づいていないが、そんな小さな動きがやがて大きな波を起こすかもしれないと、ユリウスは信じている。
こうして、子爵家の若き当主代理は新たな一歩を踏み出した。フェリシアのために、そして自分自身の後悔を拭うために。やがて馬車は石畳の街を離れ、まばらな人通りの道へと滑り込む。ユリウスの決意は揺るがず、刻一刻と行動を開始しようとしていた。