第11話 衝突と決意
アッシュフォード子爵家の応接室は、決して豪奢というほどではないが、木目の美しい調度品や控えめな絵画が飾られ、質素な格式を感じさせる空間だった。その中央に置かれたソファとテーブルは、来客をもてなすための舞台である。しかし、今はおだやかな歓談が行われる雰囲気とは程遠く、張り詰めた気配が漂っている。
――ソファに座っているのは、この家の当主であるアッシュフォード子爵。いつもは落ち着いた物腰を保つ彼も、今日は苛立ちを隠そうとしない。対峙するのは彼の息子、ユリウス・アッシュフォード。子爵の「呼び出し」を受け、先ほど応接室にやってきたばかりだった。
子爵は深く腰かけたまま、息子に冷ややかなまなざしを向ける。対するユリウスも、少し緊張した面持ちで軽く頭を下げ、部屋の空気を確かめるように身構えた。
「ユリウス、来たか」
子爵が低い声で言い放つ。彼の視線には明らかな不満がにじんでいる。
ユリウスは無言のまま扉を閉めると、部屋の中央へと足を進めた。父と視線を交わした瞬間、ひやりとするほど強い緊張感が走る。王宮でフェリシアを庇った件、そして、その後も諦めずに動こうとしている件。どれもが父の逆鱗に触れているはずだ。
「父上、お呼びとのことでしたので」
少し硬い口調でそう伝えると、子爵はソファから立ち上がるわけでもなく、声を荒げるわけでもなく、しかし険しい表情を保ったまま唇を開いた。
「言うまでもない。フェリシア嬢のことで、まだ動いていると聞いたぞ。お前には『身の程をわきまえろ』と何度も言ったはずだ」
予想していた言葉だった。ユリウスの胸がぎゅっと締まる。だが、フェリシアを救いたいという思いを押し殺す気はなかった。
彼は父の鋭いまなざしを避けず、真っ向から受け止めるように視線を返す。
「フェリシアは無実です。王太子殿下のあの断罪は、何かがおかしい。……俺は、彼女を見捨てるわけにはいきません」
「理屈ではなく『見捨てるわけにはいかない』だと? 子爵家の身で、公爵家と王家の争いに加担してどうなるか、お前にはわからんのか?」
子爵の言葉は冷たく聞こえるが、その奥には家を守りたいという強い思いが感じられる。もし彼らが下手に公爵家側へ立てば、王太子を敵に回すかもしれない。その結果、子爵家の存続が危ぶまれる可能性もある。
しかし、ユリウスにはフェリシアを裏切るという選択肢がなかった。あのとき大広間で彼女を庇おうとし、そして彼女が深く傷ついている姿を目の当たりにした今、黙って大人しくしていられるはずがない。
「承知の上です。王家を相手にするのは危険だし、父上に迷惑がかかることもわかっています。それでも――フェリシアは何も悪くありません。彼女が理不尽な罪を着せられ、孤立させられているのに、傍観することなどできません」
父親からすれば、息子の真っ直ぐな発言はもどかしいだろう。案の定、子爵は深く息を吐き、ソファの背にもたれかかるようにして顔を伏せた。
「お前は、フェリシア嬢を救いたい一心で動いているのだろう。だが、その行為がどれほどのリスクを伴うか、わかっているのか? 公爵家ですら、あの娘を十分に擁護できていないのが実情だ。それを子爵家の身でどうにかできると思うのか?」
子爵の問いかけは鋭い。ユリウスも、その点については不安を抱えていた。しかし、ここで退くつもりはない。ほんの小さな糸口であっても構わない。自分にできることがあるのなら、全力を尽くすだけだ。
ユリウスは決意を込めた眼差しで父を見据える。
「何ができるかはわかりません。でも、手をこまぬいていれば、フェリシアはますます苦しむだけです。そうなる前に、俺は動きたい。個人的に情報を集めたり、噂を確かめたりする程度なら、直接家を巻き込まない形でできるはずです」
「……個人的、ね。お前が子爵家の人間である以上、どんな行動も家とは無縁ではないのだぞ」
子爵の声はなおも冷ややかだが、わずかに調子が落ち着いたように思える。ユリウスが真正面から強い意志を示したことで、彼の熱意が少しは伝わったのかもしれない。
部屋に重苦しい沈黙が落ちる。窓の外からは朝の光が入り込み、応接室の空気を照らしていたが、その明るさとは裏腹に二人の間には張り詰めた緊張がまだ漂っている。
「父上、わかっています……。身の程知らずと笑われるかもしれませんが、どうしても諦めきれないんです。幼馴染として、フェリシアの努力をずっと近くで見てきたから」
ユリウスの言葉に、子爵はわずかに眉をひそめる。
昔からフェリシアが公爵令嬢として厳しく教育され、将来の王太子妃となるべく努力を重ねていたのは、子爵家の父子も知るところだった。ユリウスがそれを間近で見て、どんな思いを抱いていたか――父はある程度察しているはずだ。
「まったく、お前というやつは……」
子爵は苛立ちとあきらめが混じったような声を漏らし、再び深く息をついた。そして、視線を外したまま低いトーンで続ける。
「……そこまで言うなら、もう好きにしろ。ただし、アッシュフォード家の名を使って騒ぎを大きくするような真似だけは絶対にするな。もし王家や公爵家を大々的に刺激すれば、我が家がどうなるかわかったものじゃない」
「はい。家を巻き込まないよう最大限配慮します。ありがとうございます、父上」
ユリウスは本心からそう言い、頭を下げる。ずっと反対されてきたが、ここで「勝手にしろ」と言われたのは、少なくとも行動の自由を認めてもらえたことを意味する。大々的に協力してくれるわけではないとしても、この一言は大きかった。
「礼はいらん。お前を止めきれない私の不甲斐なさに過ぎん。……だが、万一危うくなったとき、アッシュフォード家もお前を庇いきれんかもしれんぞ。それを肝に銘じておけ」
子爵はなおも厳しい言い回しを崩さない。だが、その裏には父としての心配と、息子の意思を尊重してやりたい気持ちが見え隠れしていた。ユリウスはそんな父親の思いを感じ取り、胸が熱くなる。
「重々承知しています。でも、どうしても……諦められないんです。フェリシアがこのまま理不尽な汚名を着せられて終わるなんて、受け入れられません」
「……もう行け。これ以上、私に何を言わせるな」
そう言って子爵はソファに深くもたれ、そっぽを向く。ユリウスは一礼して部屋を出た。扉の向こうに戻ると、廊下に差し込む陽射しが妙に眩しく感じられる。
父子の対立は決して解消されたわけではないが、それでも「好きにしろ」という言葉を引き出しただけ大きな前進だといえる。公式には何もできなくとも、ユリウスが単独で動くのを止められることはなさそうだ。
(父上は結局、反対しながらも俺を止めきれないってわかってる。だからこそ「できるだけ自分の身を守れ」と言ってくれているんだろう)
ユリウスはそう考えると、胸の奥でかすかなあたたかさを覚えた。子爵としては家を護らなければならないが、息子の強い意志を踏みにじることもできない。そんな父の苦悩が、今回の話し合いでもよく伝わってきたのだ。
「父上……ありがとうございます」
誰にも聞こえないように小さくつぶやき、ユリウスは早足で廊下を進む。頭の中には、あの王宮でフェリシアが見せた、毅然としていながらもどこか寂しげな表情がよみがえる。彼女をこのまま放っておけば、ますます孤独に陥るのは明白だ。
「よし、これで行動を本格化できる。フェリシアを救うための情報を集めよう」
胸に湧きあがる決意とともに、彼は階段を下りていく。まずは噂の裏取りや、「捏造」にまつわる手がかりを探すところから始めるつもりだ。公爵家や王宮内部の動きはそう簡単には見えないだろうが、何らかの手段を講じれば、少しずつ真実に近づけるはず。
ふと、フェリシアが幼いころから努力を重ねてきた姿が脳裏に浮かぶ。彼女が王太子妃として国を支えるために、どれほどの血の滲むような苦労をしてきたか、ユリウスは知っている。その努力が理不尽に踏みにじられる姿を、彼はもう黙って見守ることはできない。
「待っていてくれ、フェリシア。必ず、君の潔白を証明する。君がもう一度、堂々と胸を張れるように――俺はやり抜いてみせる」
最後の言葉は、自分自身への宣誓でもあった。
父との衝突を経て、ユリウスの心はよりいっそう固い決意で満たされる。多少の危険があろうとも、かけがえのない幼馴染を救うために、彼は前に進むしかないのだ。気づけば、その足取りには迷いが消え、はっきりとした力強さが宿っていた。




