第10話 決意
朝の光がゆるやかに差し込む子爵家の私室は、決して広くはないものの、整然とした家具としっかり磨かれた床が上品な雰囲気を漂わせている。その簡素ともいえる佇まいは不思議と居心地がよく、集中して考え事をするには申し分ない空間だった。
しかし、ユリウス・アッシュフォードにとって、今はその静寂がかえって重苦しく感じられる。机に並べられた書類の数々を前に、長いあいだ視線を落とし続けていた。そこには貴族社会の記録や王家周辺の噂、そして最近手に入れた断片的な情報が混在している。少しでもフェリシアを救う糸口が得られないかと読み漁っているのだが、目を見張るようなヒントはなかなか浮かんでこない。
「……どうにかして、フェリシアの濡れ衣を晴らさなければ」
彼の小さなつぶやきが、朝の穏やかな室内に溶けていく。先日、王宮で目の当たりにした「婚約破棄」の光景を思い出すと、胸がぎゅっと締めつけられる。王太子殿下が一方的にフェリシアを断罪し、多くの貴族が彼女を非難するような空気を作り上げていったあの場面――思い返すたびに悔しさがこみ上げてくる。
フェリシアは無実だ。王太子妃の候補として厳格に育てられた彼女が、不正を働くなど考えられない。子どもの頃からその努力をよく見てきたからこそ、ユリウスは強く確信している。けれど、断罪という形で公的に罪を着せられてしまえば、彼女の名誉は大きく傷ついてしまう。
深く息をついたユリウスは、机の隅に置かれている古いノートへ視線を向けた。これは幼い頃、フェリシアと共に礼法や学問を学んでいたときに、ユリウス自身が記録としてつけていたものだ。見開けば、二人が一緒に学んだ痕跡がそこかしこに残っている。フェリシアの小さな走り書きや、彼女の几帳面な筆跡が、当時の思い出を色濃く呼び起こしてくる。
(あのころから、フェリシアはいつだって必死にがんばっていたな……)
王太子妃の候補として、公爵家から課される膨大な勉強量。それでも泣き言を言わず、眠気に耐えながら礼法書や歴史の書を詰め込んでいた小さな彼女の姿が、ノートの記憶と重なってよみがえる。そのときの彼女は、まだ弱々しさや不安を見せることもあったが、それすら隠そうとする意地と誇りを感じさせた。
ユリウスはノートを手に取り、そっとページをめくる。そこに記されているのは、かつての自分の筆跡と、フェリシアがふいに書き加えたメモ――たとえば「ここの単語はこう書くのよ」という細かな指示までが残っている。それを目にするたび、彼女がどれほど努力を積み重ねてきたのかを改めて痛感させられた。
「小さな身体で、大きな期待を背負っていたんだよな。あのころから……」
彼女はいつも前を向いていた。その凜とした態度に、ユリウスは子ども心にも胸を打たれたのだ。やがて「憧れ」は「特別な想い」へと変わっていったが、身分の差を考えれば、それは儚い夢に過ぎないとも知っていた。公爵令嬢と子爵家の嫡男では、将来の道がまるで違う。まして、フェリシアは王太子殿下の隣に立つ運命を背負っていたのだから。
(でも、そんなことは関係ない。少なくとも今のフェリシアは、理不尽な断罪を受けて苦しんでいる。それを放っておくわけにはいかない……)
ノートをそっと閉じると、ユリウスは机上の書類に再び目を戻した。子爵家という立場では、王太子や公爵家に下手に逆らうのは危険だ。実際、父からも「余計な真似はするな」ときつく叱られている。それでも、ただ黙って指をくわえているだけでは、彼女の名誉が失われてしまう。
「俺が何かをしなければ、誰が彼女を助けるんだ?」
フェリシアの身近にいて、彼女の性格や努力を知る人物はそれほど多くない。公爵家の面々でさえ、王太子との関係を崩したくないという思惑から慎重になっているのだ。だからこそ、ユリウスが立ち上がらなければならないと、彼は心の底で強く感じている。
メモ用紙にペンを走らせ、やるべきことを箇条書きしていく。
――捏造された「証拠」と称する書類の出どころを探る。
――公爵家内部や他の貴族たちの動向を調べ、フェリシアを陥れようとする勢力がないか確認する。
――王太子殿下の周囲にも、何らかの仕掛けをしている人物がいるのではないか……。
「子爵家の人間ができるのは、これくらいかな。でも、止まるわけにはいかない」
ユリウスはペンを置き、軽く頭を振る。父からはまた叱られるかもしれないが、引き下がるつもりはない。フェリシアが傷つけられるのを見過ごすよりは、ずっとましだと腹をくくっている。
ふと、机の下に目をやると、小さな風が窓から入ってきたのか、ノートの表紙がかすかにめくれた。懐かしい記憶が色濃く詰まったそれは、ユリウスにとって大切な宝物だった。ちょうどあのころのフェリシアの笑顔が脳裏に浮かび、彼は切なさと決意をないまぜにした表情を浮かべる。
「いつか、もう一度、あの笑顔を取り戻してくれたらいいんだけど……」
ユリウスはそうつぶやき、ノートにそっと手を置いた。王太子との縁があった彼女に、自分の想いが届くはずもない。けれど、彼女が潰されるのを黙っているなんてできない。――いや、むしろ「黙っていられるほど、彼女に対する気持ちが軽いものではない」のだと、自覚しているからこそ動こうとしているのかもしれない。
そのとき、ドアを叩く控えめなノックの音が室内に響いた。使用人の男が少し困った顔で扉を開ける。
「ユリウス様、失礼します。子爵様がお呼びでいらっしゃいます。応接室へお願いしたいとのことです」
「……父上が?」
ユリウスは書類を軽く整理しながら応えた。呼び出しの理由はおそらく想像がつく――どうせフェリシアのために下手な動きをするなと釘を刺されるのだろう。けれど、今さら父に何を言われたところで、その気持ちが揺らぐことはない。
「わかった。すぐに行くよ」
使用人は「かしこまりました」と短く返事をし、静かに扉を閉じる。ユリウスはノートを引き出しの奥にしまいこみ、書類の上に置かれたメモ用紙を手に取ったまま席を立つ。父との言い争いが待ち受けていようと、彼はもう止まらないつもりだった。
(フェリシアを救わなければ。――それだけだ)
そう強く思いながら、廊下へ足を踏み出す。屋敷の中には朝の清々しい空気が満ちていて、本来なら心地いいはずの時間帯だ。しかし、ユリウスの胸にはわずかな焦りが残ったまま。
それでも、あのときの彼女の姿――たとえ断罪されても立ち続けようとするフェリシアの毅然とした瞳を思い出すと、ユリウスの決意は揺るぎないものになる。幼いころから自分が抱いてきた、言葉にしきれない想いがあるからこそ、彼は行動せずにはいられないのだ。
「……いつかまた、フェリシアに笑顔を取り戻してもらうために」
そうつぶやくとともに、ユリウスは足取りを速めた。応接室で父に何を言われても、もう後戻りはしない。淡い恋心を封じ込めていた昔の自分から卒業するように――本当に守りたい人を、今度こそ救うために。
そして、子爵家の弱い立場など意にも介さぬ勢いで、ユリウスの行動はますます本格化していくのであった。幼少期の記憶が詰まったノートに込められた思いとともに。自分の立場も危険にさらしかねない無謀な挑戦だとわかっていても、フェリシアにかけられた濡れ衣を晴らすために――彼は小さな決意を、確かな決断へと変えようとしていたのである。




