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第1話 衝撃の舞台

「公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイム。お前との婚約は、今この場をもって破棄する!」


 まさか、このわたしが……婚約を破棄されるなんて。瞬間、視界がぐらりと揺れた気がした。会場がざわつく音、ひそひそと耳元でささやかれる声、遠くで響く楽団の演奏……すべてがわたしの意識からは遠ざかっていくようだった。


(嘘……ですよね、アルフォンス様?)


 必死に心の中で問いかけても、口は乾き切って言葉が出てこない。なにより、その場に立ち尽くすしかないわたしに向かって、王太子殿下――アルフォンス・エーデルシュタイン様は冷然と視線を注ぎ続けている。あの青い瞳は、決して冗談を言っているような色には見えなかった。



 ――その数時間前。


「ふぅ……今日が、わたしの人生で最も大切な日になるのかしら」


 朝の王宮は、いつになく華やかな熱気に包まれていた。長く伸びる回廊の奥からは、色とりどりのドレスを揺らす貴族たちが続々と大広間へ向かう気配がする。薔薇(ばら)のように鮮やかな赤、空のように澄んだ青、陽光を思わせる金。甘い香水がいくつも混ざり合い、その香りがわたしの胸をほんのりと高揚させた。


 今日は、国王陛下の主宰による華やかな式典。噂によると、王太子殿下が重大な発表をするかもしれないと、貴族社会ではすでに話題沸騰だった。わたし、フェリシア・ローゼンハイムは、公爵家の令嬢として生まれ、将来はアルフォンス様の妃となるべく厳格な教育を受けてきた。父の期待、母の心遣い、多くの使用人の支え……すべては「王太子妃」になるための準備だったのだ。


「フェリシア様。お支度はよろしいですか? もう間もなく大広間へご到着のお時間かと」

「ええ、ありがとう。……少しだけ緊張しているけれど、大丈夫よ」


 侍女に背中をそっと押されながら、わたしはそっと深呼吸をする。王太子妃として正式に紹介される日になるなら、こんなに胸が高鳴るのも無理はない。わたしがこの日をどれほど待ち望んできたか――親しい友人たちならば、きっと理解してくれるはずだ。


 大広間へ足を踏み入れれば、すでに軽やかな演奏が流れ、色彩豊かなドレスの貴族令嬢たちが目を輝かせていた。噂好きの貴婦人たちはさっそくあれこれとわたしの姿を眺め、ささやき合っているようだ。


「あら、あれが公爵令嬢のフェリシア様?」

「まあ、王太子妃になる方ですもの。やっぱり華があるわ」


(こんなにも多くの人が見ている……失敗なんて、絶対にできないわ)


 わたしは胸に手を当てて、もう一度深く息をつく。いつもどおり、完璧な笑みを浮かべてこそ、公爵令嬢たる者。あらゆる視線に動じず、優雅に振る舞わなければ。


 場内では貴族同士の談笑が弾み、テーブルには豪華な飾りつけ。けれどわたしの頭には、ただ一つのこと――「今日こそ婚約発表があるかもしれない」という期待だけが大きく膨らんでいた。アルフォンス様とともに、ここで正式にお披露目される。もしそうなれば、わたしは彼の隣に堂々と立ち、多くの人々から祝福を受けるのだ。想像するだけで頬が熱くなる。


「フェリシア様、本日もお美しいですわ。お衣装も、とてもよくお似合いで」

「ありがとう。あなたも素敵よ。……それにしても、王太子殿下はまだいらしていないのかしら?」


 友人の令嬢たちと微笑み合いながら、目をこらして会場の奥を見渡す。アルフォンス様の姿は見当たらない。だが、そう遠くないうちにお出ましになるはずだ。わたしの胸は期待に揺れ、同時に静かに緊張感を高めていた。


 すると、扉のそばに立つ従者が声を張り上げた。


「これより、王太子殿下、アルフォンス・エーデルシュタイン様がご入場されます!」


 一瞬で会場が静寂に包まれる。まるで先ほどまでの華やぎが嘘のようだ。振り返れば、透き通る金髪と、まっすぐ前を見据える青い瞳――気品と威厳に満ちたアルフォンス様のお姿がそこにあった。


「やはり今日は……重大な発表があるんだわ」


 周囲から聞こえるひそひそ声は、わたしの心をさらにそわそわと落ち着かなくさせる。そんな期待と緊張を含んだ空気の中、アルフォンス様は壇上へと歩を進め、大勢を見渡してゆっくりと口を開いた。


「本日はお集まりいただき、感謝する。……まず、最初に伝えたいことがある」


 張り詰めた静寂にのみ込まれて、わたしも息をのんだ。アルフォンス様の冷ややかなまなざしが、はっきりとわたしを射抜く。それが――不吉な兆しだとは、このときまだ気づきもしなかった。


「公爵令嬢フェリシア・ローゼンハイム。お前との……婚約を、本日付けで破棄する!」

「――え?」


 息が止まった。脳が情報を処理する前に、心臓がぎゅうっと締めつけられる。わたしのまわりには一瞬で大きなどよめきが広がり、視線が集中するのがわかった。けれど、驚きで思考が凍りつき、言葉が出てこない。


(うそ……そんなはず、ないわ……)


 わたしは動揺を飲み込もうと必死に目を伏せる。だが、王太子殿下はさらに畳み掛ける。


「お前の行いは、王家に対する重大な侮辱だ。よって、今までの婚約は白紙に戻す」

「待ってください……アルフォンス様、一体どういう――」


 周囲の視線はわたしだけでなく、王太子殿下を取り巻くようにして集中している。あちらこちらから「フェリシア様が何をしたの?」「そんな話、聞いたことないわ」といった困惑や噂話が飛び交う。中にはわたしを擁護しようとしてくれる声もあるけれど、そのざわめきすらわたしには遠くに感じられた。


(わたしが……王家を侮辱した? そんな事実、まったく思い当たる節がないのに……)


 頭の中はぐるぐると疑問が渦巻き、胸の奥がひどく痛む。だが、公爵令嬢として崩れ落ちるわけにはいかない。自分に言い聞かせるように背筋を伸ばし、かすかな震えをこらえながら声を絞り出した。


「……殿下。わたしには身に覚えがございません。どんな理由があってのご発言か、教えていただけますか」


 視線をそらしたくなる気持ちを振り切り、アルフォンス様を見上げる。すると、その青い瞳にはかすかな怒りと、そして決意が浮かんでいるのが見て取れた。


「理由は、これから証拠とともに明らかにする。――フェリシア、お前がわたしに背いた事実を、すべて公にさせてもらおう」

「わたしが……背いた? そんな……」


 知らない。何もわからない。まるで足元に奈落が開いたみたいな感覚が押し寄せる。周りは一層騒がしくなり、好奇の視線がわたしの隅々まで舐め回すように注がれていた。恥辱と不安で胸が裂かれそうになる。


 それでも、わたしはここで泣き叫ぶわけにはいかない。わたしには誇りがある。公爵令嬢として、長い年月かけて築いてきた「完璧なる振る舞い」がある。けれど、泣きたくなるほどの悔しさと悲しみが、今にもこぼれ落ちそうなのを抑え込むのは容易ではなかった。


(しっかりして。今、取り乱したら終わりよ)


 自分に言い聞かせる。大広間には、まだ楽団の曲が流れているはずなのに、わたしにはもう何も聞こえない。冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、なんとか表情を保ち、声を張る。


「アルフォンス様。どうか、わたしの言い分にも耳を傾けてください。わたしは本当に、何も……」


 言葉が途中で途切れる。アルフォンス様の表情は、どこまでも厳しく、冷たい。その場にいる全員が、この尋常ならぬ雰囲気に息を飲んでいるのがわかる。ざわざわと揺れる視線、誰もが「一体何があったのか」と困惑しているのだろう。


 こうして、わたしの人生を激変させる婚約破棄の幕は、突然に開いてしまった――。わたしはまだ真実を知らない。けれど、今ここから始まる「断罪の幕開け」に、わたしの運命が大きく翻弄されることだけはわかる。


(どうか、わたしの信じてきたすべてが……嘘ではありませんように)


 胸にそう祈りながら、わたしは震えるまなざしをアルフォンス様へ向け続ける。彼の言う「理由」とは何なのか。そして、わたしはどのように抗えばいいのか。すべてが霧の向こうに隠されている――それでもわたしは、公爵令嬢としての矜持を捨てはしない。


 たとえ、これがどんなに厳しい道のりになろうとも。わたしは、ここで立ち止まるわけにはいかないのだから――。

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