ロンリー・ハート
ミネアには妹がいた。決して喋ることのない、いつもミネアの腕の中にいる妹である。
兄や姉、執事や乳母は、いつも彼女から妹を取り上げようとする。薄汚い人形、と罵る。
何を考えているかもわからない、知恵遅れの末子。
そう言われて育ってきた。言葉の意味はわからなくとも、言葉に乗る感情の色はわかる。彼女に与えられた、黒いドレスと同じ色。それは、彼女の胸に見えない刃を突き立てて出血させる。
ミネアは、今日も妹を抱えて、1日を始めた。
ミネアは今まで、母親と暮らしていた。病気がちの母親は、人里から少し離れた森に住んでいた。家は貧しかったが、魔女と讃えられた祖母の知識もあって、薬草に詳しく、薬を売って暮らしていた。
「魔女だなんて、大げさよね」
母親の透き通った笑みは今でも思い出せる。木漏れ日の中でミネアと、妹、母の三人で、木の実をよく砕いて粉にして、クッキーを焼いた。
ぽんぽんと立ち上る煙に、昔傷を手当してもらったからか、まったく警戒を見せない小鳥たちが集まってきて、嬉しそうにさえずる。立派な角を生やした鹿が佇み、馬が嘶く。
少し離れたところに、湖があった。煮沸しなくても飲めるほどきれいな水だったが、その仕組みを母だけが知っていた。
スライムが、水の中の汚れをほとんど吸い取ってしまうのだった。多くは砂利や、木の葉などの無害なもので、そういった不純物を取り込んでしまったスライムは、水から上がってきて、しばらくすると、ぱちん、と弾けてしまう。
母は、このほとんど無力の魔物を愛した。一見瀉血にも見えるやり方で、スライムから汚れを取り除き、それを土に還した。スライムは喜ぶように弾みながら湖へ消えていったものだった。
ポヨンポヨンと弾むスライムは、陽の光を溜めては土や草の上に、不思議な文様を描いた。スライムの数だけあるそれは、いつもミネアと遊んでくれる光の達人だった。
しかし、ミネアが大きくなってから、馬車がやってきて、ミネアを押し込むようにしてこの家へ連れてきた。父親だと名乗る男は、彼女の家族ではなかった。
地元の名士である父親は、昔母と関係を持った。後に貴族と結ばれた父のために身を引いた母だったが、その母親が本物の魔女であるという疑惑がかけられた。伯爵となり、政財界で辣腕を鳴らす男が、魔女と交わったなどという醜聞があってはならなかった。
ミネアの知らぬところで母親は裁かれた。ミネアは、魔女が誘拐した子供という事になっていた。時がその話を真実にしてくれるだろうが、少なくとも伯爵の身内はまだ騙せるはずもなく、鬼子を内に抱えて、伯爵家は小さな不和に包まれていた。
良識のある召使いたちは、貴族らしからぬミネアの振る舞いを許せなかったし、家族はミネアの中に流れる異なる血に激しく反発した。
かくして、ミネアは一人になったわけである。
スライムは無力ゆえ、人の生活圏にもよく現れた。子供は無邪気な残酷さを見せて、容赦なく踏み潰したりした。バチン、とスライムは、弾けて潰れた。ミネアは何もできないまま、それが当たり前に行われる日常に恐怖した。
妹を抱きしめる。くたびれた妹は、だいぶ頭がぐらぐらと傾いていた。
そんなとき、兄の一人が熱を出した。継母が、妹を取り上げて、水を汲んでくるように命じた。
井戸の周りの石畳の上でも、スライムが跳ねていた。それらを踏まないようぶつからないように気をつけながら、水を汲んだ。
継母に押し付けられた水瓶は大きすぎて、ミネアは数歩、よろよろと歩いてから、倒れてしまった。水瓶が割れると、どこからか飛んできた継母が、激怒した。
眼の前で妹の首がへし折られ、地面に散らばった。
ミネアは倒れたまま、それを、じっと見据えていた。継母が去ってから、妹だった人形をかき集め、しゃくりあげた。腕にはかすり傷があり、血が流れていた。
ふよふよと、近くを弾んでいたスライムが、その血を吸った。すると、急にその体が大きく膨れ始めた。ミネアは目を見張り、やがて、その血が流れる傷口を、ゆっくりとスライムの方へと近づけた。
注ぎ込まれた血液で、スライムが大きくなる。ややあって、まるで仲間を見つけたかのように、傷口からスライムが大きくなり、その傷口から体の中へ入り込んだ。
メイドが、庭でうずくまるミネアを見かけた。薄気味悪い汚れた人形を、まだかき集めているらしい。ふんと鼻を鳴らして、立ち去った。
ミネアは、炊事場へと忍び込んだ。そして、自分の傷口を撫でるようにして、そっと飲水の中に、己の血を注ぎ込んだ。
夕飯にミネアは現れなかった。その日仕事が忙しい伯爵を除いて、皆が食事を取った。家族だけの幸せな時間。
風が吹いていた。かたり、と食堂の外で音がした。ぎい、と軋むドアの向こうから、ミネアが中を覗き込んだ。継母が、罵声とともに立ち上がろうとして、何の前触れもなく、椅子の上に倒れた。
兄や姉たちは白目を剥いていた。ごぼっ、と吐き出された赤い塊は、心臓だった。不要なものであるかのように吐き出されたそれは、赤く着色したスライムに似ていた。
床の上を跳ねる心臓を、ミネアは容赦なく踏み潰した。
継母が、自分の心臓を求めるように腕を伸ばしていた。泡を吹いている。哀願の視線を無視して、その心臓も踏み潰した。
兄と姉、そして継母が、ぎこちなく動き始めた。頭をガクガクとゆすぶりながら、ややあって、帽子を被るように頭の位置を確かめた。
伯爵家は、急に静かになった。皆が穏やかな顔をして、家中に笑い声が響いている。
ミネアはその音源の一人だった。優しくなった兄や姉、継母に見守られ、好きなだけ眠ることができた。いつも通りの家族の中で、ミネアを愛することだけが新たなルーティンに加わった。
ミネアは、ミネアである。しかしスライムでもあった。家族や召使いたちも、スライムだった。
脳に寄生したスライムは、当人の動きを模倣したまま、上位のスライムに従うようにして生きているのだった。
ミネアは今、家族たちから、人形のように可愛がられている。