1 マロンとおばあ様
「マロン、そんなに慌てたら転ぶわよ」
外なのに優しい声で先を走る私におばあさまは声を掛ける。今日は街のお祭り、普段来ない商会が露店を出している。早くいかないと良い物が買われてしまう。
「おばあ様、そろそろ寒くなるから毛糸を買わないと、後は塩と香辛料、砂糖があったら少し欲しい。それに、厚目の布でカーテン作らないと。それに・・・」
「後ろ向きに歩くと転ぶわよ。先に行きなさい。街の広場で会いましょう」
「うん、あっ、はい、わかりました。おばあ様、気を付けてゆっくり来てください」
「マロンは慌てず、ゆっくりと走らずに」
マロンはおばあ様に手を振り、街の広場に向かい歩き始めた。心が焦るのか少しずつ早足になり、いつの間にか小走りしていた。おばあさまは決してスカートをひるがえして走ることはしない。いつも背筋をピンと伸ばして音もたてずに歩いている。
以前ティーカップに水を入れて歩いて見せてくれたけど、一滴もこぼさなかった。マロンも真似して皿を割ってからは木の板を乗せて練習した。「淑女の立ち居振る舞い」はとても厳しい。女の子はみんなこんな訓練を受けていると思うと驚きだ。だって、街の子供はみんな走っているし、立ち食いはしている。カトラリーなんて使って食べていない。一度おばあ様に聞いたことがある。
「おばあ様「淑女の立ち居振る舞い」は街では役に立ちません」
おばあさまは悲しそうに目を伏せた。言ってはいけない言葉だったとマロンは後悔した。
「マロン、確かに今は役に立たないかもしれないけどマロンはずっと子供のままかしら?」
「そんなことないわ。素敵なお姉さんになって街で働くわ」
「そうね。不作法なお姉さんにお仕事あるかしら?字が読めなかったり計算ができないと良いお仕事はないわね。洗濯や掃除の仕事が悪いとは言わないわ。それでも今から自分の未来を狭めることはないと思うの。「知識は無限の武器」と言うわ。
知らないよりは知っていた方が貴女を助けるわ。マロン、私は今とても幸せよ。でもマロンとずっと一緒に居られない。いつかは独り立ちしなければならないわ。私が身につけたものは貴女に渡したいの。私の我儘だと思って聞き入れてくれると嬉しいわ」
おばあさまは長く務めお屋敷をやめ田舎に引っ越す日、教会を訪れた時に私を見つけ、女神の引き合わせと思い私を引き取ってくれた。さすがに家事が得意でなかったので、私が幼い時からお隣のカリンおばさんが手伝いに来てくれた。だって、おばあさまは貴族のお嬢様の家庭教師をしていたから、自炊なんて初めてだったらしい。
それなのに赤ちゃんを引き取るなんて、マロンでも無謀だと思った。でもおばあ様は「運」がとても良いと言っていた。お世話になったお屋敷の領地の片隅の家を貰っていたので住む所には困らなかった。さらにお屋敷の大奥様が生活に困らないように、カリン叔母さんも探してくれていた。
その上、マロンはとても良い子で、夜泣きもせず、グズ泣きもしない、育てやすい子供だったらしい。カリンおばさんが、おばあ様に日常生活の手ほどきを教えるころには、マロンは3才になっていた。大人が新しいことを習うのは大変難しい。野菜の洗い方や、芋の皮むき、おばあ様はナイフで指を何度も切って、なかなか上達しない。マロンは三歳でも器用にナイフを操り皮をむけるようになっていた。
カリンおばさんは、家事全般をおばあ様に教えるより、マロンに教える方が早いと早段階で決めたようだ。街の市場への買い物も読み書き、計算の勉強ができるようになった頃から一緒に出掛けるようになった。だって、おばあ様は買い物は家に商人が来るものだと思っていた。街に向かい野菜や肉を口頭で買うなんてしたことなかったから、子供のお使いにもならなかったとカリンおばさんが言っていた。
その代わり家の中のことはとても器用にこなしている。小さな木造の家なのに刺繍されたカーテンやクッションカバー、テーブルクロス、古びた壁は布のタペストリーできれいに隠され、まるで温室の中の花畑のようにきれいに飾り付けられている。お客様が来るわけではないけど、季節が変わるたびに、新しいものに変える。
家の前の小さな花壇には可愛い花を植え、古木で作られたテラスが街のカフェのようにおしゃれになっている。おばあ様は「貴族のお茶会の準備には手がかかるけどこれくらいは簡単ね」と言っていた。そのうちカリンさんの勧めで、ハンカチやクッションカバーなどに刺繍をして街の雑貨屋で売るようになった。おばあ様の刺繍の腕は凄いらしく街の服屋さんから依頼されるようになった。
二人暮らしの家事炊事がマロンが出来るようになった頃に、カリンおばさんはおばあ様の所をやめて娘のいる街に引っ越していった。