41.夜間飛行と霧の女神(side:公爵令嬢)
(40話の裏事情)
自分は決して痴女ではない。人として越えてはいけない一線を死守していると、真っ赤になりながら自問自答していたフォルトゥーナに、ルーカスの穏やかな声がかけられた。
「もうこっちを見てもだいじょうぶですよ」
彼女は顔を覆っていた両手をそっとはずし、声のしたほうを見上げる。
そこにいたのは、おおきく口を開けた熊……ではなく、熊の毛皮を頭からすっぽりと被ったルーカスであった。ちらりと視線を向けた腰に毛皮が巻かれていて一安心したが、一番だいじな急所以外は曝け出される姿がちょっと心臓に悪いのではないかと考える。
熊の迫力に負けない、わりと厚い胸板にどきどきする。
二の腕の筋肉のつき具合がとてもセクシー……とうっとりしかけ。
あんなにおおきな手になるなんてびっくりだわとつぶやき。
白い肌と黒い毛皮のコントラストがまた絶妙で、なんて見応えのある姿だろう野性的なのもステキとこっそりため息をついた。頬の熱が冷めないから困る。
そのルーカスがフォルトゥーナに手を差しだしている。
そういえば彼女は固い地面に座り込んだままであった。彼の手に掴まりルーカスの前に立てば、彼との身長差に胸が跳ねる。
(わたくしが見上げている……ほんとうにおとなになっているわ)
穏やかな笑顔を見せるルーカスが、フォルトゥーナの顔を覗き込みながら尋ねた。
「フォルトゥーナ。行こう」
なにを唐突に言いだすのかと、フォルトゥーナは首を傾げる。
「どちらへ?」
「きみの行きたいところがいいな。どこへでも行けるよ」
ルーカスの表情は穏やかなまま。かえってそれが怪しいと感じたフォルトゥーナは慎重に答える。
「? へんなルーカス。帰るのでしょう? クエレブレに」
辺境伯城では彼の父や城のみんながルーカスの帰城を待っているというのに、彼はなにを言いだしたのかと。
なにを企んでいるのかと。
そんな彼女の返答に対しルーカスは、見ているほうが蕩けてしまうようなうつくしい笑顔を向けた。
「うん、帰ろうか。フォルトゥーナのいうとおり」
ルーカスはひょいっとフォルトゥーナの身体を抱き上げた。いわゆる、お姫さま抱っこだ。
あまりにも自然に抱き上げられ、嫌がる間も躊躇する間もなかった。
「あ、あの……わたくし、重くない?」
おずおずと問いかければ、
「まえにも言ったけど、フォルトゥーナは羽のように軽い。……だから、逆に不安になる」
などと甘い応えを返すから耳まで熱くなる。
「ふ、不安?」
初めて彼に抱き上げられたときもこのようなイケメン発言をしていたルーカスだったが、そのときは不安になるなんて言ってなかったはずだとフォルトゥーナは首を傾げる。
「うん。軽すぎてどこかへ飛んで行ってしまうかもって。だからしっかりぼくに掴まっててね。“ぼくをおいて、どこにも行かないで”?」
輝く笑顔といっしょにこの発言である。
さきほどフォルトゥーナが泣きながら繰り返し“お願い”したことを、ちゃっかり復唱しているからさらにズルいと思った。
おとなになったルーカスのイケメン発言は健在、いやなんだかパワーアップしたようで、フォルトゥーナには太刀打ちする術がない。
これが下心満載の瞳で言われたら警戒心のひとつやふたつしっかり発動するし身を預けたりなんかしない。
ルーカスの澄んだ瞳にはやましいところなどいっさい感じないから、逆にフォルトゥーナが懺悔したい気分に苛まれるのだ。
これを拒否したらきっともっとものすごいイケメン発言が飛びだす予感しかしなかったフォルトゥーナは、おとなしくルーカスの首に両腕を絡ませてぎゅっと抱きついた。
すると、ルーカスが喉の奥のほうで息を呑んだのが分かった。
「どうしたの?」
強く抱きつき過ぎたのだろうかと問えば。
「なんか……いろいろ痛い」
「痛いの? だいじょうぶなの?」
「うん。関節とか心とかあそことかだから……うん、ダイジョウブ」
若干、ルーカスの頬が赤いような気がしてフォルトゥーナは心配になった。
「???? 本当にだいじょうぶなの?」
関節が痛い? それはどうして?
心が痛い? それは大問題なのでは?
あそこが痛い? あそこってどこ?
フォルトゥーナの疑問は果てしなく続いてしまったのだが、ルーカスは笑顔のまま彼女に応えた。
失言だったな、心配させてごめんねと。
急におとなの身体に変化したせいで、いわゆる成長痛をあちこちに感じるのだと。
「うん。だいじょうぶ、たぶん。時間がたてば慣れるから」
「心が痛いっていうのは?」
「フォルトゥーナが可愛すぎて悶え死にしそうって意味」
目の前にある彼女の頬にスリスリと自分の頬を寄せながら言うなんて、なんというあざといマネを! とフォルトゥーナが目を白黒させながら狼狽えているあいだに、ルーカスもぽつりとひとりごちた。
そうか。こういう痛みなのか……だいじょうぶ、結婚するまでは守るから。
それだけはぼくのぜったいの誓いだから、あぁでも信じられないくらい柔らかい……などとルーカスはぼそぼそ言う。
フォルトゥーナには意味がわからないので首を傾げるしかない。
『娘。舌を噛まぬよう口を閉じよ』
風の精霊ゼフィーが横に立ってそう囁いた、次の瞬間――。
フォルトゥーナはルーカスに抱き上げられたまま、ふわりと浮いた。
(え? なに?)
ほんのすこしだけ浮遊感を味わった。
直後、景色が変わる!
すべての物が下へ下へ――!
いや違う、ルーカスに抱き上げられたフォルトゥーナが上へ、空へ向かって飛んでいるのだ!
なんの予備動作もなく、警告もなく、空を飛んでいるのだ!
思わず目を瞑り、ルーカスの首に強く抱きついた。
またしてもルーカスが喉の奥でなにやら呻いたのが分かったが、こんどは怖くて離れられない。
(え? なんで? だって、空よ? 空を飛んでるのよ? どうして? どうやって? わけがわからないっっっ!!! ごめんねルーカス苦しいわよね、でも我慢して! わたくしも怖いの我慢するからっ!)
『娘よ。この風の精霊がともにいるのだ。怖がる必要などない』
『ひとの子よ。そなたのガンカにあるケシキはキチョウぞ? 目をあけとくと見るがいい』
風のうねりのような声が、川のせせらぎのような声が、それぞれフォルトゥーナを呼ぶ。
恐る恐る薄目を開き、見たのは夜空。
おおきな真珠のように淡く光る月と、さんざめくように光り輝く星たち。そのなかを飛ぶ精霊たちとルーカス。
(あら? 精霊がおおきくなってるわ)
風のゼフィーだけは変わらない青年の姿だったが、ほかの精霊たちの姿が変わっていた。
手の平に乗るようなサイズだったのが、人間の少年くらいのおおきさ――図らずも、ついさきほどまでの七歳のルーカスの姿と同等――になっている。
(もう、なにが起きても驚かない。うん、もう慣れたわ)
ルーカスの封印が突然解除されておとなになった。
人の身で空を飛んでいる。
それらと比べたら、ルーカスの契約精霊たちのサイズが変わったくらい、ささいなことだ。
それに。
このシチュエーションはかつてフォルトゥーナが恋焦がれたものだ。
――ルーカスに抱かれ、精霊たちに囲まれながら運ばれている――
かつてのフォルトゥーナは、馬車のなか対面で座るその距離が寂しいと思ったのだ。心の中に穴が空いたようなせつなさを感じたのだ。
(あのとき思ったのよ。ルーカスに、もっとそばにいてほしいって。離さないでって)
熊の頭部を被ったルーカスの横顔を見ながら、フォルトゥーナはこのままずっと……彼の体温を感じられるこの場所で、ずっと一緒にいたいと願った。
◇
“このままずっと”とフォルトゥーナは願ったが、存外早く目的地に着いた。
とはいえ。
(え。ここってまさか……もしかして……)
辺境伯城の北側にある神殿の礼拝堂の一番高い鐘楼、そのさらに上の尖塔の先端に立っていた。
フォルトゥーナはルーカスの片手に腰を支えられた縦抱き状態で辺りを見渡す。
城の敷地内は明かりが灯されているから、なにがどこにあるのかよく分かった。今いる鐘楼の最先端は、人が上れる最上階にあたる物見の塔より、さらに高い所にあるのだから怖さも格別だ。
とてもではないが、怖くてルーカスから離れられない。
いっそうぺったりと貼りつくフォルトゥーナに、ルーカスは彼女の額や髪にキスを落とす。
そんなふたりに精霊たちは、やれやれとばかりに肩を竦めた。
サラがフォルトゥーナの目の前に来ると、にっこりと笑ってなにごとか言う。
フォルトゥーナにはサラのことばは分からなかったけれど、ルーカスといっしょだから平気でしょと言われた気がした。サラはフォルトゥーナの頬にちいさなキスをすると笑顔とともに手を振って消えてしまった。どうやら精霊界へ戻ったらしい。
フォルトゥーナがやっとの思いで視界に入れた物見の塔の上には、辺境伯と老執事の姿があった。
彼らは死の山の方向に見入っている。
(なまじ比べるものが側にあって見えるのが悪いんだわ。空を飛んでいる時の方が怖くなかったもんっ)
辺境伯たちが見ている方角には、松明と思しき明かりが点々と連なっている。
(あそこが『風の守護結界』……魔獣たちがあそこまで押し寄せて来ていたわ)
フォルトゥーナは空を移動しながら見た。
死の山を越えるまえから魔獣たちが地面を埋め尽くしていたのを。
なんて数の魔獣たちだと息を呑むフォルトゥーナに、ルーカスはだいじょうぶだよと笑った。
「魔獣たちがこっちに逃げてきちゃったのは、ぼくのせいだから……帰さないとね」
穏やかな声でそう言ったルーカスが右手を上空へ掲げる。
彼の動作に呼応するように、精霊たちが淡く光った。
その後の光景をフォルトゥーナは忘れられない。
ルーカスがオーケストラの指揮者のごとく、さまざまな精霊を駆使したことを。
大気から霧が集まり巨大な人の形を作ったことを。
ルーカスは目の前にあるフォルトゥーナと視線を合わせ、その顔をじっと見つめて言う。
「きみをイメージした女神を作ったよ。これからはクエレブレの女神と呼ばれるかもね」
空中に浮かんだ霧の女神像は神々しさまで感じさせた。さらに口を開くと声まで発した。
不思議な声だった。
そばにいた精霊たちが、同じ口の動きをしていた。
霧の像が手を振るに合わせ、風の精霊が力を揮ったのが分かった。
魔獣たちがあっけないほど簡単に、風に弾き飛ばされた。
つぎつぎに。
またたくまに。
同じ場所にいた人間たちをその場に残し。
それらすべてが、ルーカスの指揮下にあった。
空が東の方から明るさを取り戻したころ、人々に混乱をもたらした魔獣たちは未だ夜の占領下にある西の空へ飛ばされた。
(これって……“魔法”というひとくくりで説明できる能力なの?)
フォルトゥーナは自分の見たものが信じられなかった。
ルーカスが使ったのは、どの属性の魔法なのか。
それらをどれだけかけ合わせればこのような結果になるのか。
しかも無詠唱で。
彼は右手をひらひらと動かしていただけなのに。
人にはとうてい成し得ない『ちから』なのではないか。
なによりも。
彼から放たれるこの魔力の波動は、あれではなかろうかと。
生家ラミレス家の地下に安置されているラミレス家の家宝と同じ。
王宮地下の霊廟で感じるあれと、同等のものではなかろうかと。
つまり、ルーカスは――。
己の思考の行き着いたさきに愕然とするフォルトゥーナの隣で、風の精霊ゼフィーが言う。
『目覚めの乙女よ。人には諺というものがあるのだろう? なんといったかな……そう、“名は体を表す”』
『あれだ。“カエルの子はカエル”』
『水はうそつき。カエルの子はオタマジャクシ』
『われはことわざのことをいっているのだ!』
水の精霊ディーネに続き土の精霊ガイも口を挟むと、精霊同士で言い合いになってしまった。
「おまえら……うるさいよ」
ルーカスの呆れたようなつぶやきは仲裁にならず、精霊たちはお互いに話し始め聞く耳など持ってくれなかった。
フォルトゥーナはゼフィーに言われた諺の意味を考えた。
“名は体を表す”という意味を。
彼女が考えていた人の名は。
ルーカス・ドラゴ。
このさき彼が正式に辺境伯位を継ぐのならば、治める地名までが正式名称となる。
ルーカス・ドラゴ・デ・クエレブレ。
(たしか……わたくしの記憶が確かならば……)
フォルトゥーナは息を呑んだ。
クエレブレという地名。それはすでに廃れた古代語だったはず。
意味するところは――。
竜。
ルーカスはいずれ、「竜の中の竜・ルーカス」と名乗ることになるのだ。