30.後悔しない選択を(side:公爵令嬢)
部屋は沈黙に支配されたままである。
どう声をかけたらいいのかフォルトゥーナが悩み始めたとき、意外と明るい口調で辺境伯は語りだした。
「だがなー、幼いころのあの子は可愛かったのだぞ? とてもとても、愛らしかったのだ! 夜泣きしても可愛くてなぁ。おとうしゃまおとうしゃまと私を呼んで追いかけてきて、ちいさな手で私によじ登るのだ。高いところが大好きでなぁ。……今はちぃっともしてくれんがなぁ」
本音の吐露なのはよく分かったのだが。
急に酔っ払いのようなことを言い始めたので、はて、さきほど辺境伯の淹れてくれたお茶は酒類が混入されていたのかと疑ったフォルトゥーナであった。
「昔からやさしい子でなぁ。ガブリエラは季節が替わるごとに風邪をひいていたが、あの子はマメに看病してくれてなぁ。ちいさな手を一生懸命伸ばして冷たいタオルを妻の額に当ててくれたり、枕元で本を読んでくれたり……」
懐かしい昔を思い出しているのであろう。
きっとその光景には愛しい奥方さまもそこにいるのだ。
奥方さまと、今よりもっと幼いルーカスと、辺境伯と……。
辺境伯の瞳が潤んでいるように見えたので、フォルトゥーナは黙って耳を傾けていた。
「君はさきほど、そんなあの子の性質が好ましいと言ってくれたね。あの子の魔法使いとしての才ではなく、やさしさや高潔な騎士ぶりが好ましいと……嬉しかった。ありがとう」
いつもは他を圧倒する辺境伯の雰囲気が、いまはすっかりまるく穏やかなものになっている。
まえからそうだろうと勘づいていたがこの人は本当に親バカなのだと思いながら、フォルトゥーナはさて自分の父親はどうだったのだろうと少しだけ寂しくなった。
彼女の父は、このように他者の前で明け透けなまでに愛情を示していたであろうか。
いや、そんなことはしなかっただろうなと、ひとり納得した。
彼女と父親とは接点がほぼなかった。
きっと自分の娘というより、“王子の婚約者”という役割でのみ記憶に残っていたにすぎないだろう。
辺境伯閣下の温かい親子関係が、すこし、羨ましかった。
今はこの親バカ辺境伯に、彼女からみたルーカスのエピソードを披露しようと思った。
「ルーカスさまは……たとえば、階段を上るときは必ずわたくしの後ろに続いて上ります。逆に、階段を下りるときはわたくしより先に下りるのです。たぶん、万が一のとき、わたくしを支えようとしてくださっているのです」
ルーカスはやさしい。彼のその細やかな心遣いは、フォルトゥーナにとって面映ゆくもあり、ありがたくもあり。そしてとても嬉しく感じるのだ。
辺境伯と亡くなった奥さまがお育てした彼はとても尊い心根の少年です。
フォルトゥーナはそう思いながら辺境伯へ語ったのだが。
彼はいっそ無邪気といえるようないい笑顔になると、フォルトゥーナにダメージを与えた。
「ああ! それはきみの記憶がないとき、階段から落ちた事実があるからだろう」
「え゛」
「ドレスの裾さばきを意識していなかったみたいでな。いやあ、あのときは階段落ちした君よりルーカスの方が青い顔して震えていたなぁ!」
まだそんな迷惑をかけたエピソードが潜んでいたのかと頭を抱えるフォルトゥーナと、だいじょうぶルーカスがちゃんと庇ったから君は怪我なんてしてないぞとトドメを刺す辺境伯。
どうやらこの話はクラシオン夫人も知らないエピソードだったらしい。
穴があったら入りたい。なければすぐにでも穴を掘るべきかとフォルトゥーナが真剣に思ったとき、鷹揚に笑っていた辺境伯がまじめな顔になった。
「私の話を聞いて、どう思ったかな? あの子はおとなになれない。君と……結婚はできないだろう」
貴族の政略結婚で十歳差くらいはよく聞く話である。
だが、片方がずっと子どものままという例はないだろう。
「ルーカスさまは不老、なのですね。ひとのちからではどうすることもできない」
彼はずっと少年のまま。
フォルトゥーナがおばさんになっても、老婆になっても。
ルーカスだけは、少年のままなのだ。
「そうだな。大神官さまでさえ、どうすることもできなかったのだから……」
ただのひとである自分たちには、なすすべがない。竜神の力には抗えない。
辺境伯の語らなかったことばが聞こえてきたような気がした。
(このさきルーカスさまはひとりぼっちになってしまう、ということになるのかしら……なんて寂しいことなのかしら……)
意気消沈したように俯くフォルトゥーナに、辺境伯はことばを続ける。
「それで、君の今後のことだが。
さきほども言ったが……私も君を妻にするつもりはない。たとえ書類上の話でも。
君のお父上に押しきられて君を引き取りはしたが……あの聡い宰相閣下は念書まで用意して君を私に預けた。
……だが彼は私という人間をよく理解していた。ようするに白い結婚は承知の上ってことだ。
さて、どうしたものか……。
とくになんの届け出もしていない現状では、君の身分は“お預かりしたラミレス公爵令嬢”のままだ。記憶の回復した便りが届いたころだろうか……ふむ。お父上から実家への帰還命令があるかもわからない」
辺境伯にそう言われたフォルトゥーナは、確かにそれはあり得ると思った。
“公爵令嬢”のままならば、公爵家当主の命令が絶対である。
「そうだな、あと二、三年もすれば君の醜聞も薄れ王都で新たな縁談に恵まれるかもしれない。いや、君の聡明さを知っている人間ならば、すぐにでも話を進めるかも」
今まで培ってきただれからも崇められるラミレス公爵家公女としてのフォルトゥーナならば、そこに利用価値もあるのだろう。
子ども返りした状態ならば、なんの価値もなかっただろうが。
「その場合……世間的にわたくしは、婚約破棄を言い渡された傷物令嬢のうえ、離婚された出戻り公女……になるのでしょうか」
「うーむ……それは」
「醜聞のてんこ盛りですわね」
「てんこもり」
フォルトゥーナのことばをそのままオウム返しした辺境伯は、なにが気に入ったのか顔を背けたまま笑いを堪え肩を震わせている。
笑いたければはっきり笑ってくださればいいのにと思いつつ、フォルトゥーナは天を仰ぐ。
「あー、帰りたくありませんわぁ……」
想像するだけでも社交界なんてメンドクサイと、いまのフォルトゥーナは思ってしまう。
けれど呼び戻された先でだれかの後妻にでもなれば、その社交もこなさなければならないだろう。いや後妻と決めつけるのも早計かもしれないが、初婚の相手ならばさぞ悪条件が重なった物件に違いない。
そんな相手に嫁ぐなんて、さらに気が重い。
陰謀渦巻く王宮へ戻るのも、魑魅魍魎の蔓延る社交界へ戻るのも、悪条件を抱えた見知らぬだれかの妻になるのも、すべてまるっとお断りしたい。
嫁ぐのなら好いた相手がいい。
それならばどんな苦労も厭わないのに。
恋を知ってしまったフォルトゥーナの乙女心がわがままをいう。
長く長く、そしてとても重いため息をついたフォルトゥーナであったが、辺境伯はそんな彼女を興味深そうに観察したあと、ひとつ提案をした。
「帰りたくないと言うのなら……私の養女にならないか?」
「養女?」
「うん。私の娘になり、辺境伯位を継いでほしい」
辺境伯は語った。
彼はフォルトゥーナを後妻にするつもりはないと。
だが、クエレブレの人間にするつもりはあると。
ルーカスが辺境伯位を継いだとしても、子どものままの彼では対外的に舐められてしまう。城の使用人や騎士団の人間など一部のクエレブレの民はルーカスの事情を熟知しているが、大部分の人間は知らないのだ。
それならばいっそ、養女となったフォルトゥーナが女辺境伯を名乗ってくれれば、ルーカスは彼女を補佐し生活していくことになるだろう。
「わたくしを、などと……父の許可が必要になります。それに一族の皆さまから反発を受けませんか?」
辺境伯夫人という立場ならいざ知らず、当主本人になるなど反発を受けて当然ではなかろうか。
彼女の問いに辺境伯は、かえって面白そうな表情を浮かべながらあっさりと応えた。
「君のお父上と念書を交わしてあると言っただろう? この地における君の処遇は私に一任される。ただいつまでも“公爵令嬢”のままだとそれも怪しいが……。
で、だ。クエレブレ辺境伯という地位は先代の指名で選ばれる。そこに血の繋がりは関係しない。あるのは実力主義だ。一番強いと思う者が跡を継ぐ。君の場合は賢さの頂点で選ばれたと言えばよいだけだ」
そういえば三百年前の魔獣大暴走のとき、このクエレブレが跡継ぎ問題で揉めていたせいで対処が遅れたという逸話が残っている。それ以来、家長の指名権が強いのだろう。
「つまり……現状の閣下の立ち位置にわたくしが立つ、ということですね」
現在のルーカスは、表立たないが実質的に辺境伯としての実務を熟している。本人は父親のお手伝いをしているという程度の認識だが。
「私はできるだけあの子を表舞台に立たせたくない。知られたくない。あの子はその場にいるだけで王都の霊廟と同じだ。各国の争いの元になりかねないんだ」
だからこそ、彼はこのクエレブレで匿うべきなのだと辺境伯の瞳が語った。
「王都にある霊廟のように、あの子を地下に監禁するような真似はしたくない。できるだけ普通に。あの子が笑って過ごせるように。私は環境を整えたい。そのための手助けを、君に、してほしい」
「だから、わたくしを養女にして女辺境伯に、と」
だが養女になってしまったら、ルーカスの妹……いやこの場合は姉? になってしまう。
姉弟になったら、彼との結婚などできなくなる。
そう考えたフォルトゥーナの顔色を読んだのか、辺境伯がちいさく笑った。
「書類上だけでも、ルーカスの嫁になるかい? 私としてはそれでもいい。辺境伯位を君が継いでくれて、君が表舞台に立ってくれるのなら」
“ルーカスの嫁になるか”ということばに喜びを覚えたフォルトゥーナであったが。
「ただそれだと……将来、君があの子に愛想をつかせた場合、あの子が君の足枷になってしまう。先のことは分からないだろ? なんせ、あの子はおとなになれないんだ。いまは好ましく思っていても、あの子ではない、別のおとなの男性に心を寄せてしまうことだってあり得る。
君には、君が好きになった相手と結婚する自由くらい残しておいてあげたいと……私は思う」
辺境伯のことばも間違いでないのだろう。
未来のことなんて、だれにも分からない。
「こちらの事情ばかり優先しているのも、勝手なお願いをしているのも承知している。私の提案は、君にとってこれから先、苦難の道を歩めと言っているようなものだから。それでも。それでも私は、ルーカスの未来が平穏であってほしいと願ってしまうのだ」
戸惑うフォルトゥーナに気がついたのか、辺境伯は薄く笑った。
「いますぐ決めなくてもよい。まだ時間はあるし、君には選択肢がたくさんあるのだから。お父上の許に帰るもよし。ここで私の養女になるもよし。ゆっくり、考えてくれ。ただし、後悔しない選択を」
そこにいた辺境伯は、いつものイメージどおりの彼だった。
眉間に皺を寄せた厳めしい表情。
他者を圧倒する覇気。
辺境伯ものちのち後悔しないため、フォルトゥーナにこの提案をしたのだろう。
愛する息子のために。
(わたくしの後悔しない選択……それは)
意を決して顔をあげたが、辺境伯は手の平をむけることで彼女の発言を封じた。
どこか苦笑を滲ませた表情で。
「君は物事を性急に進めたがる傾向があるな。“急いては事を仕損じる”というぞ? せめて一晩くらいはゆっくり考えなさい。もう夜も遅い。部屋まで送ろう」
たしかにフォルトゥーナはせっかちである。いったん冷静になる時間も必要であろう。
ここは辺境伯のことばに従い、部屋に戻ることにした。
だが、さすがに辺境伯閣下に部屋まで付き添わせるのは申し訳ないと思ったので、送ってもらうのは辞退した。この辺境伯城内でフォルトゥーナを害する不届き者などいないし。
さきほどの会話のせいか、階段は手摺りをちゃんと握って下りるのだぞ、などと後ろから声をかけられた。
なんとも恥ずかしい思いを味わいつつ階段の手摺りを握ると、やはりこの階段に見覚えがあるようでフォルトゥーナは首を傾げる。
(階段から落ちたというのは、ここだったのかしら)
ふと、上の階への階段を見上げる。
(落ちた……というより……上ったような……それも、ウキウキとした嬉しい気持ちで……)
だがこの西翼の三階は、今日来たのが初めてのはずだ。
その上の四階など行ったこともないのに、なぜ嬉しい気持ちで上ったなどと思ったのだろう。
思い出せない記憶のなかに、まだ自分が頭を抱えたくなる案件が潜んでいるのかもしれないと苦笑いしながら階段を下り、部屋に戻ったフォルトゥーナは知らない。
ちょうど彼女が見上げた階段にルーカスがいたことを。
自身に『陽炎』をかけ姿を隠していたことを。
彼が、泣きそうな顔をしていたことを。
※注1『陽炎』……初出は16話。『風の結界』を個人サイズにしたルーカス特製の認識阻害魔法




