2.父の帰郷
竜が飛び立ちそうな空の下、王都から帰郷した父を出迎るためルーカスは城から飛び出した。
遠目に父の存在を確認し内心で首を傾げる。彼が馬上の人だったからだ。
(あれ? 長旅だし箔付けのためにもって箱馬車で行ったよね? 辺境伯家の紋章入りの、古いけど黒塗りで立派な奴)
いまの父は馬に乗っている。
クエレブレ辺境伯が乗るに相応しい堂々としたとびきりの軍馬。その馬を軽々と扱うクエレブレ辺境伯サルヴァドール・フアンは、出迎えに来ていたルーカスを視界に収めると相好を崩した。
「ルゥ! わざわざ出迎えてくれたのか! 待たせたか」
若い頃は王都で騎士団の役職付きだったらしい。いろいろと歴任したらしく、ルーカスはそれらの詳しい名称までは知らない。
サルヴァドール本人は、領地の方が大事だから早々に引退して余生を過ごしているんだなどとよくいっているが、またなんか寝言いってるとルーカスは思っている。
周囲の認識も似たようなものである。
(余生なんて、まだ早いよ。ちちうえ)
ルーカスは騎馬で帰郷した父、サルヴァドール・フアン・デ・クエレブレのもとへ駆けつけた。颯爽と馬から降りたサルヴァドールは駆け寄るルーカスの軽い身体を抱き上げる。
「ただいま、ルゥ。元気にしてたか? 変わりないか?」
「ちちうえ! おかえりなさい!」
ルーカスが大好きな父の首に抱き着くと、彼の大きな身体からおひさまの香りがした。
(あぁ良かった。ちちうえが帰ってきた……)
この香りは安心できる。
ルーカスはこっそり溜息をついた。
ひとしきり父の頬や首筋にスリスリし、しばらくぶりの彼の体温にほっと胸を撫で下ろしていたルーカスの耳は、馬車の音を聞きつけた。顔を上げ後方を見れば、辺境伯閣下と同行していた辺境騎士団の護衛たちが乗る馬に守られるように黒い箱馬車がこちらにやってくる。
(あの馬車、ちちうえが王都へ行くときに乗ってたのだよね……音が……空じゃ、ない?)
車輪の音を聞くかぎり、無人ではない。だれかが乗っている。ルーカスはそう判断した。
「ちちうえ。あの馬車にだれか乗っているのですか」
息子の質問に、父はぎろりと彼の顔を睨んだ。
サルヴァドールという人間を知らなければ、彼が不機嫌なのかと誤解し怯えるかもしれない。
「もしや、馬車の音の違いを聴き分けたか。流石ルーカスだ。耳がいい」
たんに目付きが鋭いだけの辺境伯である。ルーカスはそれをよく知っているから怯えたりしない。平然と続けて尋ねる。
「おんなのひと?」
「……なぜそう思う?」
「ちちうえが馬車を譲ってるから」
行きは馬車に乗り王都へ向かった辺境伯閣下がその馬車を譲るなら、相手は女性か子どもだと当たりをつけた。だが子どもなら同乗し馬車の揺れから守護したはずだ。騎馬で帰郷したのだから馬車の中にいるのは女性だ。彼女の名誉のために同乗しなかったのだろう。
ルーカスの返答にサルヴァドールはニヤリといたずら小僧のような表情を浮かべた。
「なるほど。ルゥは聡いな」
「もう“ルゥ”って呼ばないでください」
「おぉ反抗期か! 嘆かわしいがそれもまた良しだ!」
「ちちうえ!」
「あぁぁぁぁ、昔はそれはそれは愛らしく“おとうしゃま”と呼んでくれたのに……!」
「ち・ち・う・え!」
「まだまだ舌足らずだなぁ! それもまた良し」
かんらかんらと豪快に笑う父。
幼児期の愛称で呼ばれ機嫌を損ねたルーカスは唇を尖らせた。腹立ちまぎれに父の胸を軽く叩くが、ルーカスが本気で力を入れないことくらいサルヴァドールは承知している。
もし、ルーカスが本気を出して人を叩いたのなら――。
恐らく、屈強なサルヴァドールであろうと軽く吹っ飛ぶ。
とある事情で、ルーカスは少年の身ながら力が強い。成牛を持ち上げるくらい簡単にできるほどに。
人は、ルーカスに面と向かっては『竜神の加護があるから』などと言う。だが本当は――。
停車した馬車の扉が開いたことで、ルーカスの意識はそちらへ集中した。
馬車から降りてきたのは人の好さそうな中年のご婦人。そしてその彼女に手を引かれて女性が降りてきた。
彼女は頭からすっぽりとフード付きの黒っぽいマントを被り、そのせいで表情はおろかドレスさえろくに見えなかった。
だがその女性の長くて赤い髪が一房、するりと零れ風に吹かれて揺れた。それは日の光に透けてキラキラと輝いて見えた。
「おきゃくさまでしたか」
ルーカスの質問に対し、サルヴァドールはちょっと笑みの種類を変えた。
言おうかな、いや待てよ。でもちゃんと言わなきゃ……そんな風に迷っているのがルーカスにははっきりと判った。
「王都から来た……フォルトゥーナ嬢だ。辺境でお預かりすることになった」
辺境伯の説明に対し、年配のご婦人は一礼したがマント姿の女性は棒立ちしたままだった。
口元だけは辛うじて見えるが、深く被ったフードのせいでそれ以外の表情は見えない。小さな唇はほんのりとした薄紅色。どうやら若い女性のようだが。
(ごあいさつ、してくれないのかな……ぼくからしたほうがいいのかな)
よくよく観察してみれば、黒っぽいマントの下にちらりと見えるドレスが上質そうな布地だった。
(……市井のお嬢さんというより、貴族のご令嬢って雰囲気だよね)
そんな彼女を後ろから支えるように立つ人の好さそうなご婦人は、辺境伯閣下と令嬢を交互に見遣ってどうしようかと思案しているように感じた。
(……令嬢と彼女のばあやって印象だけど、こんな辺境にばあやさんを連れた令嬢なんて珍しい。どう見てもワケあり、だよね……んん? もしかして手紙にあった“みやげ”って……)
思い当たることがあったルーカスはパッと父の顔を見る。
ルーカスの視線に気がついた辺境伯は苦く笑った。
「恐れ入ります閣下。ご家族への紹介は湯をお借りしてから……」
ばあやさんが恐る恐るといった体で辺境伯に申し出る。身分を考えれば勇気のいる申し出だろうなとルーカスは思った。
(でもワケありの女性に対して無茶なこという人じゃないから、だいじょうぶなんだけどな)
クエレブレ辺境伯サルヴァドール・フアンの外見は、その高身長と堂々たる体躯、眉間に深く刻まれた皺と三白眼などから、偏屈な将軍または歴戦の猛将といった印象が強い。
実際、王都にいたころはそのプラチナブロンドの髪と黒い瞳から“白髪鬼”などというあだ名もあったらしい。
だがその黒曜石よりも濃い瞳を覗き込めば、彼が冗談好きで正義感に溢れ弱い者にやさしい男だと解るのだが。
(初対面の子どもはたいてい泣くし……)
初対面で怯えなかった女性は、今は亡き彼の夫人だけだったと老執事から聞いている。
(逆に、動物の仔には好かれるんだけどね)
産まれたばかりの仔馬など、すぐにでもサルヴァドールに懐く。
おそらく、動物は人の美醜を気にしないからだろう。心根を敏感に感じ取る動物に好かれるということをよく知っている辺境の民は、領主を恐れたりしない。
そしてやはり。
おずおずとされた申し出に対し、辺境伯は鷹揚に頷いた。
「あぁ、長旅だったからな。疲れただろう。湯を使って旅の埃を落とし、ゆっくり休みなさい。すぐに部屋を用意させる。……セルバンテス!」
振り返って老執事を呼ぶと、ご婦人たちの部屋と湯の用意をするように命じた。
老執事は「既にご用意しております」と言って低頭する。
(そうか。ここ数日、城内が慌ただしかったのはお客さまが来るからだったんだね)
ルーカスは父に抱き上げられた体勢のまま、老執事に案内され城内へ入る女性たちの後ろ姿を見送った。
彼の前を通り過ぎたとき、顔を隠すフードから零れた一房の長い髪。
それが歩くに合わせ、ふわりふわりと揺れていた。
(赤い、髪……キレイだな……)
ルーカスはちらりと見えた令嬢の長い髪がとても気になった。
なんと言って表現したらいいのか分からない。
けれど、いつまでも目の奥に残り、どうしても視線が追い続けてしまう。
(うん、こういう状態を『心惹かれる』というのかもしれない)
いつまでも見送っていたルーカスに、辺境伯が囁くように告げた。
「ルーカス。あの令嬢は都でとても辛い目に遭ってきたんだ。とても……心に深い傷を負ってしまった……おまえはやさしい子だ。彼女を気遣ってあげてくれないか?」
どこか不安げな表情でそう告げる辺境伯へ、ルーカスはこっくりと頷いた。
「うん。ちちうえがそうお望みなら」
そんなことを息子に頼む父こそ、とっても心やさしい人だとルーカスは思う。
(だって、いまのぼくがここに居るのは紛れもなく養父のお陰だもんね)
息子の答えを聞いた辺境伯は「えらいぞ」と言って、やっと屈託なく笑った。
ルーカスは父のこの笑い方――目尻に皺が寄って糸目になる――が大好きなので、つられるように笑った。
※注1「竜が飛び立ちそうな空」とは、この国で古くから使われる慣用句。雲ひとつなく澄み渡った青い空をさす。