15.初めての場所(side:元王子)
「お。目が覚めたか?」
身体に水を掛けられたせいで、エウティミオの目が覚めた。
頭から濡れていたし、声をかけた目の前の若い男――エウティミオの太ももくらいの腕の太さの持ち主だった――が、バケツらしきものを空にして鉄格子の向こう側からこちらを見下ろしていた。
鉄格子越しに乱暴に水をかけたらしい。
エウティミオ・ラミロ・ブローサ男爵が目を覚ましたのは、どう見ても石造りの牢獄の中だった。鼻につく黴臭い匂いに辟易するが、彼が頬をつけて倒れていたのが、その臭い石の上であった。
(なぜ、ぼくはこんなところにいるのだ?)
エウティミオはゆっくりと身体を起こした。椅子すらない場所であぐらをかくしかないが。
注意深く周囲を見渡せば、彼がいる場所は三方が石の壁で一か所だけ高い所にあかり取り用の小窓――こちらも鉄格子付き――があるだけで逃げ場はない。
最後の一方は鉄格子の向こう側で、木製のドアがある。
ざっと見渡した限り、出入りできるのはそのドアだけだった。
そのドアの前で腕組みをしこちらを見下ろす男たちがいた。
若い男――さきほどエウティミオに水をかけた無礼なやつ――と、年嵩の男――こちらも筋肉隆々の無精ひげのオヤジ――が冷たい目でエウティミオを睨んでいた。
どちらの男も体格がよく、人相が悪い。牢番だろうか。
エウティミオから見た牢番の男たちは恐ろしかったが、彼らとの間に鉄格子があるお陰で危害が加えられることはないだろう。
水は、かけられたが。
ここはクエレブレではないのか? なぜ自分は牢獄なんぞに収監されているのだろうか。エウティミオの疑問は尽きない。
砂嵐に何度も足止めされながら目指した辺境の地、クエレブレ。蜃気楼の向こう側に見えていた砦の門の前にやっと辿り着いた、というときに力尽きて倒れたのだ。遠のく意識の中で“人が倒れているぞ”という声を聞いたから、クエレブレの民が助けてくれるだろうと思っていたのだが。
若い方の牢番――右腕一面に青い刺青が入ってだいぶガラが悪い――がバケツを捨てるとエウティミオに尋ねた。
「で? おたくは何から逃げてきたの?」
逃げてきた?
エウティミオはなにをきかれたのか分からなかった。とっさになんの返答もできなかった。
「ここはクエレブレだよ? ヤバいことして逃げてくるような輩か、魔獣退治しようと腕に覚えのある奴しか来ねぇよ。とてもおまえさんが義侠心に燃え燃えの腕に覚えのあるやつには見えねぇしなぁ!」
若い牢番がニヤニヤ笑いながら言うが、その笑みが恐ろしくてエウティミオは反応できない。
「とりあえず、名前」
隣にいた岩のようにゴツイ無精ひげの大男――エウティミオの親世代に見える――がポツリと呟く。その低い声も恐ろしかった。
こんな下卑た男たちなど、王都にはいなかった。初めて見た。
「名乗らねーの? 口もきけない? もしかして人のことばが分からない?」
反応できないエウティミオに痺れを切らしたのか、若い牢番が揶揄うように論った。
「無礼な! 僕をだれだと思ってる?!」
あまりの言い草にカッとなって言い返しても
「いや、それを知りたいから聞いてんだけど?」
「なんだこいつ」
と、一笑に付されてしまう。
なぜこのような下品な連中に、こんな蔑まれたような目を向けられねばならないのか。エウティミオは激昂した。
「無礼者! 王族に対してそのような態度でいいと思ってるのか?!」
エウティミオがそう言った途端、ふたりの牢番は一瞬キョトンとした目を向けたあとでゲラゲラと下品な笑い声をあげた。
「王族ぅ?」
「砂嵐でイっちまったか?」
「王族がそんなナリでこんな辺境にいるかってーの!」
「バカも休み休み言え」
手を叩き、唾を飛ばし大声で嘲笑われる。
エウティミオはこんなふうにバカにされたことなどなかった。
こんな屈辱的な扱い、受けたことがない。怒りで眩暈がしそうだと思った。
無礼な牢番たちの若い方が、ひとしきり笑ったあとでやっと口を開いた。
「はーウケる。で? シャキシャキ話せや、ボケが。俺らも暇じゃねーんだよ、お ー ぞ くさんよ。名前と出身、それと辺境を目指した理由。素直にゲロってくれりゃあ、痛い目みないで済むぜ?」
そんなふうに言うが、目が笑っていない。
冷静にエウティミオを観察する目が心底恐ろしかった。
そうだ、ここはクエレブレだったのだとエウティミオは実感した。
常に魔獣と戦う最前線、クエレブレ。荒くれどもの集まり。一騎当千の戦闘狂の集う場所。牢番でさえ、これほどまでに恐ろしいのだ。辺境騎士団の強者どもはどれほどの猛者が揃っているのか。
考えれば考えるほど恐ろしさが湧きあがった。
エウティミオが直接見知っている騎士は近衛隊の騎士が多い。王族を守る目的で厳選される彼らは貴族の子弟が多く、その中でも見栄えの良さが選出の大きな理由になる。
魔獣を相手にする荒くれ者とは、もう人種が違うとしか思えなかった。
「ぼ、僕はエウティミオ・ラミロ・デ・アクエルドだ。フォルトゥーナに、ラミレス公爵令嬢のフォルトゥーナに会いに来たんだ!」
「公爵令嬢ぉ?」
「デ・アクエルド?」
恐怖に耐えながらもことばを絞り出せば、ふたりの牢番の人相がますます悪くなった。胡散臭いものを見る目でエウティミオを見る。
「おまえ、なにを言ってる? 公爵令嬢に会いたきゃ公爵領へ行けや。クエレブレにゃあ、お姫さんなんかいねーよ」
呆れたように言った若い牢番の首根っこを、無精ひげの牢番が摘まみ上げ部屋の隅へ移動した。
彼らのボソボソと内緒話をする声がエウティミオの耳にも届く。
「もしかしてこいつ、サルヴァドールさまんとこの……」
「あぁ! 来たな、公爵令嬢のオ客サマが。へー ……って、他人ん家の嫁に会いに来る若い男って、ヤバくね?」
「ヤバいな。もしや暗殺……?」
内緒話をしていたふたりが揃ってエウティミオを睨む。その目付きの鋭さに震えあがった。
「ち、違う! 暗殺なんかじゃないぞ! 僕はフォルトゥーナの婚約者だ!」
「あー? 婚約者だぁ?」
若い牢番が、いかにも嫌そうに顔を顰めてエウティミオを睨む。
その剣呑な雰囲気に、エウティミオは己の発言のまずさを自覚した。
「いや、婚約者だった! 過去形だ! もう今は違う!」
慌てて訂正すれば、牢番は腕組みをし不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「当たり前だろボケカス。元婚約者だぁ? なんだそれ。元カレってか? なんの用があって来るんだよ。復縁迫りに来たんかぁ? おまえは用済みなんだよ、お呼びじゃねーんだよっ!」
部屋の隅にいたのに一瞬で目の前に移動した彼は、力任せにガツンと音を立てて鉄格子を蹴り上げた。
蹴り上げられた余韻でビリビリと細かく震え続ける鉄格子にゾッとした。
直接蹴られることはないと理解しつつも、恐ろしくて後ずさる。
なんて柄が悪いのだと内心で怯えながら、エウティミオはことばを発する。
「と、とにかく! フォルトゥーナに会わせてくれ! 彼女に会えば……!」
「会えば? どうなるんだ」
無精ひげの大男が低い声で尋ねた。
腹の底に響くその声に、エウティミオは黙ってしまった。牢番たちの人殺しができそうな恐ろしい視線に耐え切れず目を逸らす。
言えない。助けて欲しいと、一緒に来て欲しいと説得するつもりだなんて。
辺境伯の後添えになっているはずの彼女に。
そもそも、きちんと謁見を申し込んでフォルトゥーナとの面会を希望するはずだったのに、牢獄に押し込められるなんて想定外にもほどがある。どうしてこうなったのかわけがわからない。
「とりあえず、城に連絡しろ」
「あーいよ」
若い方の牢番が軽く返事をすると部屋から出た。
牢に残された不精ひげの大男は無口だった。
だがこんな人相の悪い大男に胡散臭そうにジロジロ観察されるのは、生きた心地がしなかった。
牢番がカツカツと踵を鳴らす音だけが牢の中に響く。
なんとも胃が痛くなるような重い空気に息が詰まると思ったとき。
牢番が口を開いた。
「さきほどデ・アクエルドと名乗ったな。本当に王族だと? 見たところ、歳の頃はあの大マヌケな元第一王子と同じだな」
チロリと牢番の顔を窺えば凶悪な顔で睨んでいる。慌てて視線を逸らしながら答える。
「僕が、第一王子のエウティミオだ」
彼が第一王子として生まれたのは間違いないが、現在はただの男爵である。
そんな彼が王家の名字を名乗るのは、正しくは許されない。だがこんな辺境の地にまで正式通達はされていないはずだとエウティミオは高を括っていた。
王族を牢に入れたと知った牢番がどんな顔をしているのだろうかと彼をちらりと盗み見れば、牢番は相変わらず凶悪な顔でエウティミオを睨んでいる。
(なぜひれ伏さない? おまえは王族に対して罪を犯したのだぞ!)
「第一王子といえば……廃嫡されたうえに王族から降りて男爵になったと聞いているが? 勝手に王族だと名乗ってもいいのか? 不敬罪だぞ?」
エウティミオは愕然とした。
こんな辺境にも、既にそんな噂が流れてきているとは思ってもいなかった。
彼は迂闊にも聞き逃していたのだ。
さきほど『大マヌケな元第一王子』と揶揄されたことを。
「おまえ、ここが辺境だからと馬鹿にしてるだろ。王都で起こったことなんざすぐに知れ渡るさ。王族のスキャンダルなんか特にな。俺たちを甘く見るな」
牢番の低い声がエウティミオを責める。
ますます気まずくなり、目を合わせられなくなったとき。
牢のドアが開いて、ひとりの男が入ってきた。
「どぉれ? 王子を詐称する輩が来てると聞いたが?」
「閣下」
あんなに不遜な態度をとっていた牢番がさっと壁際に避け、右手を胸に左手を体側に沿わせ直立不動になった。新たに現れた男を迎えるその姿は訓練された兵士のそれだった。
牢番が譲った場所にのそりと現れたのは、堂々とした巨躯の男だった。
白い髪と黒い瞳。眉間に深く刻まれた皺。黒い騎士服。歴戦の猛者といった印象の殺伐とした雰囲気を纏った男。
彼が現れただけで牢の中の空気が薄くなったような錯覚が起きる。
エウティミオは目を見開き息を呑んだ。
(このじじい、あのときの!)
夜会のとき突然現れ、あっという間にウルバノを床にねじ伏せた謎の男が目の前にいたのだ。




