13.目覚め
ルーカスは夢を見ていた。
夢の中で、あぁ自分は夢を見ているのだと分かる夢だった。こういうのを“明晰夢”というのだな、などと冷静に分析しながら。
それは過去にあったこと。
幼いころ、まだ赤ん坊だった自分。
人の手を感じ。さまざまな人の声が聞こえ。どれもこれも、うるさく煩わしく。
放っておいてくれと思いながらウトウトと微睡んでいた。
そのときに差し出された、大きくて温かい手と白くてやさしい手。
なぜかそれらはとても心地良く、快適で……受け入れた。大好きになった。
その手に触れられるのは嬉しくて楽しくて、笑いだしたくなった。
実際に笑ったらその手の持ち主たちは、とてもとても喜んでくれた。
とてもとても、自分を慈しんでくれた。
大好きな、仮の親。おとうさまとおかあさま。
その手が自分に触れる。自分を抱き上げる。自分を庇護する。
そのぬくもりにすがりつく。
温かい手が……。
……自分の額に触れる。髪を撫でる。やさしく甘い匂い……。
(……ん? 甘い匂いだって? これ、夢じゃ、ない……?)
夢の中で夢を見ていると自覚していた。
けれどいつの間にか、夢ではなく現実だったようだ。
現実のルーカスの頬に触れる手があった。
(いや、実際に触られていたからこそ、あんな過去の夢を見ていたってことなのか)
その手は頬に触れ、鼻の先をくすぐり、また髪を撫でる。髪を一房摘まんでいじられている感覚。
(この触り方、まちがいなくおかあさまやちちうえじゃ、ない。これは……)
重い瞼を開ければ人影が見えた。
その人影の背後の風景は、ここが見慣れたルーカスの部屋の中なのだと現実を知らせる。彼は自室の寝台に寝ているのだと。
西向きの彼の部屋が鮮やかな朱色に染まっている。
もう夕暮れの時刻らしい。
この時刻ならば当たり前の風景だけれど。
(なぜ、あなたがここに?⁈?!)
ルーカスの確かな視力は、寝起きではあるが明確に彼の枕元にいる人物を捉えた。
「フォルトゥーナ、さま……?」
長くて艶やかな赤い髪の毛先がゆらゆらとやわらかな波を描く。黒曜石のような瞳がルーカスを見ている。アーモンド形のぱっちりとした目の眦が少し吊り上がっていて、猫のようだといつもルーカスは思っていた。
麗しのフォルトゥーナ嬢。
夕暮れの中、フォルトゥーナ嬢も朱色に染まっている。彼女の赤い髪が夕陽に照らされ金髪のように見えた。
(ここ、ぼくの部屋だよね?)
心をどこかに眠らせたままの公爵令嬢は、この辺境伯城の南棟、四階特別室から一歩も出ないはずなのだがと疑問符だらけになった。
その令嬢が、なぜ、ルーカスの部屋にいるのだろう。ここは西翼の四階なのだけど。直接南棟と繋がっていないはずなのだけど。
(夢か? こっちが本当の夢なのか?)
先ほどまで見ていた明晰夢のせいで、どちらが現実なのか分からなくなりそうだった。
呆然とするルーカスの頭を令嬢が撫でている。これはいつもフォルトゥーナ嬢がすることだけれど。
ルーカスの髪を撫で、頬を撫で……どこかなにかを考えているような風情で首を傾げた令嬢は、ルーカスの前髪をあげて額にぴたりと手の平を触れさせる。
(熱を測っているみたい……だ)
金色に輝くフォルトゥーナ嬢から目が離せなかった。
いつもは無表情でなにを見ているのか分からなかったフォルトゥーナ嬢が、なんだかルーカスを心配しているように感じるから逆に落ち着かない。
彼女のいつもは黒曜石みたいな瞳までもがキラキラと金色に輝いている。
彼女の形の良い唇がゆっくりと弧を描いた。
(微笑んで、いる……)
その唇が、開いて……音を奏でた。
「……るぅ……」
初めて聞いた彼女の声。流麗な、耳に心地よい音声。
心臓を鷲掴みにされた気がした。
息が詰まる。
いままでもうっすらと微笑んでいるように見えていたが、その表情は見慣れないと判別しづらいくらい微かなものだった。
だが今。
ルーカスを前にしたフォルトゥーナ嬢は、彼の目を見て確かに微笑んでいた。
しかもルーカスの聞き間違いでなければ、令嬢は彼の名を呼んだのではないか?
四肢にまで歓喜が満ち溢れる。
「ふぉる、とぅーな、さま?」
もしかして大声を出したら、彼女の笑みは蜃気楼のように消えてしまうかもしれない。
あの澄んだ鈴の音のような声は二度と聞けないかもしれない。
そんな危惧に襲われたルーカスは、小さな声で囁くように令嬢の名を呼んだ。
ルーカスの危惧をよそに、令嬢の表情は変わらなかった。やさしい笑みを見せながら、彼女はゆっくりと身を乗り出しルーカスの上に覆いかぶさった。
(……え?)
ルーカスの顔の両側に令嬢の両手がついて、真上から彼女に見下ろされた。
ぎしり。
寝台がきしんだ音を立てた。
ゆっくりと令嬢の顔が近づく。
彼女の髪がさらさらと肩から零れ、ルーカスの頬に触れる。
(いい匂い……)
令嬢からいつもしていた薫りに酔いそうだと、微かに感じた。
令嬢は笑顔のままルーカスに近づいて……。
(はっ! ……待って待てマテまて待ってーーーーーーーー!!!
これはもしかしてあれか、あれなのか、せ、せせせせせ接吻とかいう、そのあのまさかもしやマテ待て落ち着け混乱している場合ではないなぜ彼女がなぜぼくをもしや彼女は正気に戻ったのか戻ったらそういうことをするのかまさかいやそんな馬鹿な話あるか落ち付けルーカス!)
内心で盛大に喚きながら、そう自問自答したとき。
フォルトゥーナ嬢のやわらかい唇が。
ルーカスの。
額に触れた。
春風のようにやさしくふんわりと。
次いで、ルーカスの顎の先にも。
次いで、彼の右の頬に触れ、続けて左の頬にも触れた。
そして上半身を元に戻した令嬢は、またしてもにっこりと微笑んだ。
(これは~~~~~~~~~~~っ!)
ルーカスは自分を恥じた。
これはあれだ。
母親が幼い子どもを寝かしつける時にする、定番のおまじないだ。
額は風の精霊、顎の先は地の精霊、右の頬は火の精霊、左の頬は水の精霊。親が子どものために四大精霊の加護を願ってするおまじない。そして“良い夢を”と言って寝かしつけるのだ。
まだ体調の良かったころの辺境伯夫人が幼かったルーカスを寝かしつけるときによくやっていたことだ。
まさにフォルトゥーナ嬢はそれをやったのだ。
ルーカスは眩暈がするほどの羞恥を感じた。
(寝ている状態だからいいけど、立ってたら倒れていたかも……)
顔から火が噴いていると勘違いするほど顔が熱い。
これが“穴があったら入りたい”という心境なのかとルーカスはひとりごちる。
一瞬とはいえ、自分はなんという妄想をしてしまったのかと。
そしてそう思った理由も理解してしまった。
(あぁ、そうかぼくは……)
見ているだけで幸せだと感じたことも。
触れられただけで、髪を撫でられただけで心拍数が上がってしまったわけも。
どこか遠くを見ている彼女をもどかしく感じたことも。
さっき“るぅ”と呼ばれて心臓が止まるかと思ったことも。
ぜんぶ。
(ぼくは、フォルトゥーナさまのこと……好きになってたんだ……)
自覚したとたん、ふたりきりだという現状が息苦しく思えた。
胸の奥が痛む。ひどく、ツライ。
でも。
笑顔を見せてくれるフォルトゥーナ嬢から目を離せない。
(あぁ……好きだぁ……)
ルーカスの気持ちなど分からないだろう令嬢は、また彼の髪を撫でた。
そして。
「……え?」
ルーカスの寝ている寝台にもぞもぞと入ってきた。
「……え?」
寝たままのルーカスの首の後ろあたりに自分の腕を通したフォルトゥーナ嬢は、そのまま彼の身体をぎゅっと抱き寄せた。
ルーカスの頭がフォルトゥーナ嬢の肩に乗る。身体が密着する。
この体勢は……。
「……添い寝?」
(っていうか、抱き締められているんですけど! ぼくの頭がフォルトゥーナさまの肩にっていうか、頬にっ! む、む、むむむ、お胸がっ……)
この体勢はまずいと令嬢から離れようとするルーカス。
じたばたと抱擁から逃れようとする彼に焦れたのか、フォルトゥーナが彼の小さな頭をぐいっとその豊かな胸に抱え込んだ。
(!!!!!!!qあwせdrftgy〇d×▽y□klp!!!!!!!)
なんと、足までがっちりホールドされている! 身動きがとれない!
たしかに、最近のフォルトゥーナ嬢は機嫌がいいとルーカスを膝に乗せたがった。
ルーカスは観念して令嬢の膝におとなしく座っていた。そうすると令嬢のご機嫌が良いからだ。なんとなく彼女が嬉しそうだと判断して以来、これは愛玩動物確定だなと腹を括ったのも事実だ。
けれど、寝台で抱き締められるのはわけが違う。
違うと思う。
違うんじゃないか、な?
フォルトゥーナ嬢のやわらかい胸の谷間に顔を寄せて、もうどうしたらいいのか分からないと途方に暮れるルーカスである。
ルーカスは常人の五倍は力が強い。
魔法だって自由自在に使える。
本当だったらか弱い令嬢の抱擁なんて、あっという間に逃れることができる。
でも、できない。
(だってやわらかい!)
逃れられない。
(だってすっごくいい匂いがする!)
この拘束には抗いがたい威力がある。
(気持ち良すぎて抵抗できないっっっ!)
これは自分から動いたら負けだ。絶対そうだとルーカスは己に言い聞かせた。
指一本すら動かせない天国のような地獄のようなわけのわからない現状に、ルーカスは目を回した。
「あら? あらあらまぁまぁ、お嬢さま。坊ちゃまのベッドに入り込むなんて、はしたないですよ」
口では咎めているのにちっとも止めさせようとしないクラシオン夫人ののんびりとした声が聞こえた。
「夫人……たすけて……」
真っ赤な顔のルーカスがか細い声で救出依頼をしたが、クラシオン夫人には現状打破の緊急性を感じられなかったらしい。
「まぁ! ルーカス坊ちゃまお目覚めですか! 顔色もよくおなりで安堵いたしました。さきほどまでは真っ白なお顔をしていらして心配したものです。あぁいけない、すぐに辺境伯さまと執事長さまをお呼びしますね」
おっとりとした声に喜色を乗せたクラシオン夫人はいそいそと部屋から退出してしまった。
ルーカスたちを放置したまま。
これはこのまま寝たふりするしかないのかと、ルーカスは乾いた笑いで夫人を見送った。
「せめて、灯り点けていって……」
日没時刻を迎えたのか、部屋の中は急に暗くなり始めていた。