彗星と………
終局の訪れまでにはまだ大分間があったが、破滅の時を只待ち受けることのみが許された無力なこの身の上であってみれば、それまで特に何か出来ることもすべきこともある訳ではなく、私は、空ろな笑いの谺を微かに響かせた偽りの平安心の表情を顔にへばり着かせた儘、永劫とも思えるこの曇天の薄明の世界の中で、ぼんやりと頬杖を突いていた。やがて来るべき終わりの無い闇の蓋を暗示し先取りするかの様な不吉な夜の時間帯にはまだ早く、かと云って全てが理路整然と片付けられそうな空想を抱くことがまだ可能な白昼の時間帯にはもう遅かった。世界はこれから明けようとしているのか暮れようとしているのかさっぱり判然としなかったが、霧でも掛かった様に全く見通せない現在に半狂乱になっていた過去も、過ぎ去ってみれば今は遙かに遠く、厳然たる未来の筋書きに冷笑と絶望ばかりを肥大させていったあの頃の様に、只闇雲にもがいてみると云う真似も今はしようと思っても出来るものではなく、その曖昧の限りを尽くした不決断の裡にのうのうと安住している振りをしつつも、私は今だに、境界の内側に留まっていた。静かな無言の狂気が、手綱の外れてしまったエントロピーの様に着実に私の精神を蝕んでゆくのを、私は手を拱いて黙過しているしかなかったのだが、そこには、熟れ切って今正に腐ってゆこうとしている果物を食べるのにも似た甘美な陶酔が無い訳でもなく、時間と云うこの恐ろしい代物と馴れ合って済し崩し的に下賤な共犯関係に陥り乍らも、私は残された今度の生涯をどう無駄遣いしてやろうかと、心の隅で秘かに憧れてもいるのだった。これと云って有意の差異を成さぬ背景ノイズと、取り留めの無い動きが茫然とした不安の風景と混ざり合い、溶け合って癒合しており、流れる雲の様にほんの一時何か掴めそうな形に見えたかと思うと、直ぐにまた元の混沌の中へと引っ込んで行った。私はぐったりと懸命になって下らないことどもで頭を埋め尽くそうとするのだったが、時折思い出した様に才気の閃きが稲妻の如くに泥濘を裂いて立ち現れ、未練がましく何時までも、苛立たしく私を悩ませていた。
先刻まで微かに大気中を漂っていた気付くか気付かぬ程の頼り無い水の匂いは、何時の間にか何処かへ消えてしまっていた。折り重なる黒い木々の影が一度、夢を見て寝返りでも打つ様に大きくざわめき、またばたりと倒れたかの様に静かになった。然程重大ではない、しかしこの無為の退屈をほんの一時紛らわしてくれそうな程度の変化の陰微な予兆があり、私は頬杖を突いた儘耳を澄ませ、視線を絞って焦点を定めずに集中した。西の空に何やら動きが生まれて来る気配があり、それと共に周囲の静寂がより一層静寂としての存在性を主張して凝固し、瞬間が引き延ばされた。時間の成立の仕方が幾つか交錯し、混乱し、流れではなく何重もの瞬間の重ね写しの様な具合になって、私の脳神経を掻き乱したが、それでも何とかその中から、私はひとつの形を判別することが出来た。それは白々と陰気に輝く天空を貫いて光を放つ、大きな黄金色の彗星だった。それは忘れ去られた未知への驚異を乗せたひとつの謎、ひとつの問い掛け、ひとつの詰問であって、喰らい合う二匹の蛇の心の臓の底知れぬ深淵より生じ、そしてこの世の生を没落させ、敗北させ、而して後に輝かしい多大な幻暈で以て人々を惑わすものだった。それは乳白色の虚空の中にぽつんと、まるでずっと以前からそこに在ったかの様な顔をして居座り、不穏にも取り返しのつかない長い長い尾を引いて、頭上の巨大な蜃気楼めいた大伽藍の上に展開していた。恐るべき錯誤が今正に行われようとしており、天体事象と云う形を取って、この厖漠とした風景をピンで留めようと、焦点を作ってくるくるとひとつに纏めてしまおうとしていた。
私は一度確と視線をその彗星に据え、眼前で起こっている事象が確定的なものであり、カテゴライズ可能なものであると云う事実を頭に置くと、再びそれを非在の中へと押し戻すべく、意識の中心点を引き、あらゆる形状をその背後へと拉し去った。無数の迷妄が、まるで地引き網に引かれる魚の群れの様にワラワラと不様に湧いて出て来て、一挙に捕縛され、強制的に退場させられて行った。物憂い呼吸がその度に繰り返され、余りに常態化してしまっていた為に既に殆ど固形と化していた絶望が吐き出され、遠い幻日の様な遙けき夢想が、悲哀と共に流れ込んで来た。私は身ぬちに覚える微かなうんざりする吐き気を半ば意識の表面の、しかし片隅へと逐い遣り、反転した現実をそれでもまだ狂気に陥らずに済んでいることの殆ど唯一の証明として後生大事に抱えた儘、その彗星の、この短い時間枠の中では全く動いていない様に見える動きを追跡し、掻き集め、ごちゃ雑ぜにして、同定した。暗澹たる予感が、ここで起こり得る如何なる変化も、より長い期間を単位として見てみれば、結局は有意の分岐を何等作り出せる訳でもなく、その時が来ればやがては全ての記憶が、全ての関連付けの蓄積が、積み上げて来た全ての知が断片化され、忘れ去られ、永劫の彼方に消え去って行ってしまうのだと云う気の滅入るまだ朧さを持った予測が、辺り一面に延べ広がり、床に零してしまった海の水の様に醜怪な不産性を曝け出し乍ら、私を苛み、嘲笑し、そして無視した。具体的な行動にまでは至らぬ、しかし骨髄にまで達した屈辱が私の居心地を悪くさせ、努めて黙殺して来た我慢のならぬ敗北感に、またぞろ揺さぶりを掛けて来た。私は空しく歯噛みと歯噛みをする振りとをし乍ら、徒手空拳の儘口の中で嫌悪感を呟くことしか出来ずに、それでも何とかそのことを認識しておくだけの優位は確保しておこうと、詰まらぬ言い訳を繰り返し、必要限度を超えて視界の焦点をずらし続けた。退屈な時間が流れ続け、眼下遙かの氷原か、或いは凍り付いた大地に、数瞬さやさやと風がそよいだ様にも見えたが、何等私の関心を惹くものではなかった。終局的には、何が起ころうと一切は関係無いのだ。どうせ私が宇宙を喰らい尽くすずっと前に、宇宙の方が私を喰らい尽くしてしまうに決まっている。私の行う全ての行為も、私の関わる全ての事象も、凡そ想定可能な森羅万象全てが、予め約束された超巨大な屍体なのだ………。
と、不意に、超新星爆発でも起こしたかの様に、彗星が一際明るく輝き始めた。その光輝は天の白夢さえ遮ることの出来ぬ鋭いハロウとなって大地の頭上に確たる地位と大きさとを占め、一瞬の世界の独占と、その後に引き続く間違え様の無い高らかな宣言で以て、その超然とした不可能性を、私を嘲笑うが如くに証明してみせた。それは実は鬩ぎ合う時間達の中で予見されていたことであったのだが、しかし同時に全く青天の霹靂でもあった。それは一種の覚醒であり、実現してしまった不可能的潜在性の現実態であり、生々しい実感を伴った美しい未知であり、恐るべき裏切りを示すものであった。私はその暗示するところに心秘かに戦き乍らも、どうにも形容し難い解放感を味わったのだが、それが軛を外された奴隷の味わう解放感なのか、それとも幾晩もの眠れぬ夜の後に、やっと処刑の朝を迎えた死刑囚の味わう解放感なのかは、自分でも判然としなかった。私は微かな怯えを魂の裏側にへばり着かせた儘、何か難しい数式でも解いた後の様にほっと一息を吐いて、事態の冷静な分析に努めた。それは確かに目覚め、又はそれの前触れとなる類似した認識ではあった。私は、そしてこの薄明の天地の全ては、夢に夢見られた一片の夢であったのだ。世界には中心があり、意志があり、通常の意味に於ける決断とは質を異にする決断が下されたのであることを、私は明瞭に知った。だがその後々までも私の脳裏にしつこくこびり付き、私が眠りに落ちようとする毎にそれを妨げたのは、それが一体誰の、何者の、或いは何の夢見ていた夢だったのかと云う疑問であった。